バレーボールと広辞苑
生まれて初めて入った美容院。
ふわふわした感じの華奢なお姉さんに頭を洗われている間、俺はずっと緊張していた。
散髪と言えば、自らバリカンで丸刈りにすることを指していた俺である。自分で決心を固めたとは言え、そこに至るまでには苦悩があった。
気恥ずかしさから近くに住む知り合いたちに見つからないよう、少し遠めの美容院に予約を入れたものの、都会の方にあるその美容院へ向かう電車の中では、ずっと後悔のような感情が渦を巻いていた。
俺みたいな奴が本当に行っていいものなのか__と。
普段美容院を利用している者からすれば「なんだそのくらい」と鼻で笑うかもしれない。
だが、体験したことのない異空間に身を任せるとなれば、きっと誰だって、程度の差こそあれ萎縮してしまうはずなのだ。少なくとも俺は、その『程度の差』が、今回のこの場合において、かなり大きい。
俺の髪を洗い終えたお姉さんはドライヤーの電源を入れる。少し前までの坊主頭ならそもそもドライヤーを使う必要もなかったのだが、今の俺の髪は伸ばしっぱなしだった。乾くまでには時間がかかる。いづらい雰囲気も重なって、その間は妙に長く感じられた。
俺の人生にはあまり馴染みのなかったフローラルな香りが漂うお姉さんに気恥ずかしい思いを抱きながら、髪が乾くのを待つ。
平常心だ、平常心。心を強く持て。心頭滅却すればお姉さんもまたお姉さん。じゃない、ダメだ、考えがまとまらない。
一人勝手に悶々としていたところで、お姉さんは俺の髪を乾かし終えたようだった。お姉さんに言われるままに、散髪を行う席に向かう。自分らしさを微塵も発揮出来ない異空間に加え、広い店内ということもあり、席に向かうまでの道のりは途方もなく長く感じられた。この旅はいつ終わるのだろう、とさえ思ってしまう。
案内された先の、ちょうどいい硬さの茶色い椅子に深く腰を下ろす。主に精神面がへとへとだった俺は、長めに深呼吸をした。切った髪が服に付かないように、ブカブカのエプロンをお姉さんに着せてもらう。エプロンでいいのか?そういえば正式名称は知らないな。
担当の者と代わりますので少々お待ちをー、と言うお姉さんに、挙動不審に「あっハイ」と返す。柔道部時代に『鬼神』とまで恐れられた男の姿は、既にそこにはなかった。そこにいたのはド緊張をかます木偶の坊。と言うか俺である。自分でも引くぐらい萎縮してるぜ。
俺の元から去るお姉さんを鏡越しに見ながら、俺はなおもそわそわしていた。人生で初体験なのだ。緊張しないわけがない。
柔道で培われたと誇りに思っていた精神力を持ってさえ、この美容院の垢抜けた、キラキラした感じには太刀打ちできそうもなかった。やはり、無謀だったか……
そう思っていたのも束の間__そこで俺のそわそわは止んだ。
「どうも、カットを担当させて頂き……」
この小洒落た空気に慣れたわけではない。
どちらかと言うとそれを上回る、より強い衝撃によって硬直させられた感じだ。
しかしそれは、その相手も同じだ。
その相手も、俺と同じく硬直している。
俺は知る。
お姉さんと代わった『担当の者』も、俺と同じリアクションを取ったその理由を。
「……ます、切崎と申します」
「……知ってます。そして俺は、お客を担当させて頂きます、鬼瓦と申します」
「こちらも知ってます」
互いが互いを__ここに来る前から知っていた。
「……つーか、おい、鬼瓦。まさかここでお前の顔を見ることになるとは思わなかったぜ」
「そうだな。代金は支払うから帰っていいか」
ソーシャルネットワークサービスによって『繋がり』が重要視された現代。その是非を論ずるつもりはない。俺の言いたい事はこれだけだ。
いくら『繋がり』が大事とは言え__
何もこんなところで、繋がらなくてもよくないか?
◯
切崎と出会ったのは、高校一年の時。
後ろの席に、こいつはいた。
ひょろ長で線の細い顔(塩顔というやつか?)の切崎は、俗に言う『イケメン』の部類に入るらしかった。
俺から見れば「なよなよした奴だ」としか思えないふにゃふにゃフェイスをひっさげ、女子グループの中で談笑してたのを見たその時から、俺は切崎のことをこう思っていた。『リア充死ねばいいのに』と。控えめに言ってそれぐらい。
実際に言葉を交わしてみても、軟派で軽薄で、根本的に考え方が合わない奴だった。
どちらかと言うまでもなく、嫌いな奴だ。
「いやー、こうやって鬼瓦の後ろにいると、出席番号で並んでたあの席を思い出すぜ。テメーのせいで黒板が見えなくてダルかったもんだ」
当時を懐かしむように、俺の背後に立つ切崎はそんな軽口を叩いた。
「今日はどんな感じに?」という切崎の問いに「いい感じに」と答え嘲笑されはしたものの、おまかせという形で散髪が開始された。
「お前が俺の巨体に隠れて授業中にケータイをいじってたことは知ってるぞ」
「なんのことだ?そりゃ」
わざとらしく嘲りながら、手際よく作業を進める切崎。小慣れた手つきで俺の長い髪にハサミを入れていく。小気味よく髪がカットされていく。
しかし、油断は禁物だ。
お互い『馬が合わない』と嫌い合っていた間柄である。不意打ちでハサミをぶっ刺されないように気を付けねば。
「そーいや最初見た時から思ってたけどよ、お前長髪似合わないよな。知ってたけど」
そうなのだ。
今の俺の髪型は、噂に聞く無造作ヘアー。
「無造作っつーか、雑木林?」
「口を慎めよ」
森林伐採がごとく、切崎はバリカンを用いて豪快に俺の髪を剃ってゆく。後頭部やもみあげが、馴染みのあるジョリジョリとした短い長さに変わった。
「洒落た髪型にしてもらおうにも、そもそも髪の毛が短いとどうにもならなさそうだったから、とりあえず伸ばしてみただけだ」
「学生時代もずっと坊主だったよな。汗くせー奴だと思ってたぜ」
「坊主は汗臭さとは関係ないだろ」
まあだからと言って、いい匂いを発してたということもないだろうが……
「お前が髪伸ばしてウチに来るとはなあ。ようやく色気付いたか?何か心境の変化でもあったわけ?」
そこで俺は、う、と声を詰まらせる。
俺がわざわざ遠くの美容院まで、足を踏み入れた理由。異空間に身を任せる決心をした理由。
この男に話すことに、少なくとも積極的にはなれない。
「実は、その、なんだ」
「何だよ、煮え切らねえな。ま、俺は友達が嫌がることは聞かない主義だぜ」
そんなことを言われた俺の感情__率直に言えば、不愉快だった。切崎に『友達』と呼ばれたことへの不快感を否定は出来ないし、むしろ全肯定だ。
ただ__一瞬。
ほんの一瞬だけ考えると、俺のことを『友達』と形容した切崎に、俺は少し動揺した。
そして、一つの心変わり。
あんなに嫌い合っていた仲の相手を、『友達』と呼べる器のデカさ。
その部分だけは、見直してやってもいいのかもしれない__
「ま、お前は友達じゃねーから聞くけど」
「鬼かよ」
やっぱりリターン不快感。
「どちらかと言うと名前的に、鬼はお前だろ鬼瓦」
一瞬でも『俺を友達と呼んだのか?』と思ってしまったことに腹が立つ。ヘラヘラした態度の切崎にはもちろん、俺自身にも腹が立つ。嫌いな奴の口車に乗るとは一生の不覚。時と場合が許すなら、お返しに、切崎を地獄車に乗せてやりたいところだ。
「漢字の『漢』って書いて『おとこ』って読むみたいな奴だったもんなあ、鬼瓦は。時代にそぐわねえスポ根野郎だって思ってたぜ。なのにこんなところまで、わざわざ髪を伸ばして散髪しに来るぐらいだ。相当な理由があるんだろうな?なあ?」
犬猿の仲である切崎のにやけ顔ほどムカつくものもない。このまま散髪が終わるまでそんなものを見るのもしゃくだったので、俺は腹を決める。やけっぱちとも言う。
この店は今回限りにしておけばいい。縁が無かったということで。それならば、この男の軽薄な顔を見るのもこれが最後になるだろう。だから、言ってしまっても、いいだろう。
「……実は」
「実は?」
「……デ、デ」
「デートすんの?お前が?」
俺が明言するよりも前に、切崎は頬に笑いを含めながら、俺の図星を突いた。俺は図星を突かれた。アタタタタ、と言いながら放つなんちゃら百烈拳ばりの威力。学生時代、柔道部で繰り広げた激闘の数々を下手したら上回るほどに、俺の心をえぐる。それぐらいの恥ずかしさ。人に言われると……ましてや、切崎に言われてしまうと、そのダメージは増すばかりだ。
「へー、へー」
「何がおかしい」
「いや、高校時代に全く女っ気のなかったお前がまさかと思ってな……こりゃ面白えぜ」
確かにあの頃は、『女子と遊ぶのは軟弱者』ぐらいに思い込んでた節がある俺である。
指摘されるまでもなく、一昔前のスポ根精神。
まあ今思えば、女子との接し方が分からなくて恥ずかしかっただけだったんだけどな。
「そんなお前さえ虜にしちまう女と、出会っちまったわけか。いやあ、時の流れは何をどう変えるか分かんねえよなあ」
鼻をひくつかせ、俺を嘲りながらも、髪を切る手を止めない切崎。シャキシャキシャキシャキ、と軽やかにハサミを動かし、にやけと散髪を両立する切崎。相変わらず器用な奴だ、憎らしいほどに。
「そのウブ過ぎる様子だと、仲良しのカノジョとのデートってわけじゃなさそうだな…… おおかた、ずっとその子に片想いでもしてたんだろ。でも直接的なアプローチにはなかなか踏み込めないから、せめて身なりぐらいは気にかけようと、髪を伸ばし始めた__ま、その結果がさっきまでの雑木林だったのは、履き違えてる感はあるけどな。まあともかく、紆余曲折の長い期間を経て徐々に徐々に距離を詰めて、勇気を振り絞って、愛しのその子をド緊張のままデートに誘って…… そんで、ようやくオーケーしてもらえたクチか?そんで一発景気付けに、気合い入れて洒落た髪型にしようと、ウチまで来たわけか」
「……お前、エスパーかよ」
当たってんのかよ、とおかしそうに吹き出す切崎。名探偵に証拠を突きつけられた犯人の気分だ。いや、別に悪いことをしてるわけではないけども。
ここまで筒抜けなのか、俺の頭の中。さすが女たらしは見る目があるぜ、くそ。
「で、どこ行くの?」
「動物園」
「お前自身ゴリラみたいなもんじゃん」
「お前……まだ俺をゴリラ扱いしやがるか」
高校時代から、ことあるごとにそう突っかかってきた切崎だった。
「そのゴツい体、どう見てもゴリラじゃねーか。さらにゴツくなったんじゃねーの?ぎゃはは!デカくて丸いこの頭も、バレーボール野郎健在って感じだな!」
「うるさいぞ、広辞苑野郎」
「こりゃまた、懐かしい蔑称じゃねーか」
学生時代、表で裏で、悪口を言い合っていた俺と切崎。
切崎が裏で俺のことを『頭がデカくてバレーボールみてえ』と罵っていたことを知り、俺もムキになって『広辞苑よりも細い顔だ』とよく罵ったものだ。
「まあ、めでてーことには変わりねえわな。赤飯代わりに、髪でも赤く染めとくか?」
「勝手なカラーリングは美容師として赤点だろ」
「誰が赤点だっつーの。俺はこの店の、次期エースだぜ」
「そうなのか」
「そうなればいいな、とは願っているぜ」
「願望じゃないか」
「お前がその愛しのカノジョを射止めたい気持ちぐらいには、願ってるぜ」
「バカを言うな。俺の気持ちの方が強い。圧倒的にな。それほどまでに、俺はあの子のことが好きだ」
「ずいぶん素直になって来たじゃねーか。よっぽどお熱だな、ウブ瓦?」
そこで俺は、切崎に言わされたと気付く。
誘導尋問とは性格の悪い奴だ。知ってたけど。
「そういうの、嫌いじゃねーぜ?」
ぎゃはは、と切崎は軽薄に笑う。
「お前のことは嫌いだけどな」
「……俺もだよ。当時と変わらずな」
「ま、冗談は置いといて…… それはどっちから誘ったわけ?」
「俺だな」
「相手の反応は?」
「普通に喜んでた……と、思う」
「へー。良い子じゃん」
「……良い子だが、その情報だけで分かるのか?」
「少なくとも、くせーくせーと喚き散らす女よりゃ良い子だろ。動物好きっつーのも、俺的にはポイント高い」
「お前のポイントなど知らんがな」
うっせーよ、と切崎は吐き捨て、続けた。
「それに、もっさりピーマンな髪型のゴリラに誘われて乗ってくれる辺り、顔で判断しない子っぽいしな」
「もっさりとゴリラについて言うことはないが、ピーマンは訳がわからん」
「何より、ゴリ瓦とデートしてくれるような女だしな。動物園の多少のニオイじゃ動じねえか」
「俺の苗字とゴリラをドッキングするな。お前に言われると気分が悪い」
「そりゃ、俺にとっちゃいい気分だぜ」
「……お前はやっぱり嫌いだ」
「気が合うな、俺もだ」
ぎゃはは、と切崎はまたも軽薄に笑った。
「ま、何にせよ俺の勝手な想像だ。お前のことなんてどーでもいいし、俺の知らないどっかで、勝手に幸せにでも不幸せにでもなってろよ…… んじゃ、そろそろ仕上げにかかるか」
そこで俺は、正面の鏡に映って反転している時計を見た。意外と時間が経っていたことに気付く。慣れない異空間に身がむずむずしていた時が、随分と昔のように感じられる。
「最高の髪型に仕上げてもらおうか」
「急にえらそーな客だな」
店員と客という立場に関わらず、散々いじられたのだ。開き直るのも罪ではないだろう。
「お前もずっとえらそーな店員だぞ。お客様は神様扱いしろよ」
「はいはい、カネヅル…… 神様扱いすりゃいいんだろ」
「『か』しか合ってないぞ。それ」
ちげえねーや、と切崎は笑った。
◯
そうして出来上がった髪型。
もみあげと後ろ髪を刈り上げ、その上を残し、段差を作る__いわゆる、ツーブロックというやつだった。
「お前に散髪されると分かった途端、退店時に流血してる未来しか思い浮かばなかったけど、終わってみれば普通だったな」
坊主頭しか体験してこなかったので、正面の鏡に映る俺の姿を見ていると、体の内側がむずむずしてくる。馴染みのある感触の後頭部を、ジョリジョリと触った。
「んなもん、ギャグ漫画じゃねーか。おめーのことは汗くせえ奴だと思って一度たりとも好感を得たことはねえが、それでもそんな奴のために人生を無駄にする気はねえ」
「それもそうか」
支払いを終え、出口に向かう。切崎は曲がりなりにも店員らしく、俺に先んじて手動のドアを開けた。
「んじゃ、まあ、せいぜい頑張れよ」
「おう」
「フラれたら失恋祝いに、坊主にしてやるからよ。今後ともご贔屓に」
「よく言うよ」
ぎゃはは、と軽薄に笑う切崎。
本当に__高校時代から、変わらない。
◯
俺が初めての美容院から退店した数日後__運命の日を迎える。
まあ、運命とは言っても、現段階で付き合っているわけでも、ましてやプロポーズをするわけでもない。単なる遊びの約束。
大多数の人間にとって、何でもない一日。
しかし、俺にとって__大切な一日。
待ち合わせの一時間前から集合場所に立って、数十分後、愛しの彼女はやって来た。俺の顔を見て、早いねー、と言った。
小柄な彼女が首を上に向け、俺の頭を見る。
さっぱりしたね、いいじゃん!と彼女に微笑みかけられてさらに惚れ直し、緊張しながら歩き始めたところで、俺は切崎の顔を思い出した。
あの軽薄な男__切崎のことは、今でも嫌いだ。
だが、まあ、こうも思った。
散髪に行く数ヶ月に一度くらいなら。
またあの店の中で、俺の惚気話を聞いて呆れる切崎の顔を見に行くぐらいなら__悪くはないかもな?