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3-7

 閉店を終えると、クエストは約束通りネイジの住居へと向かった。

 家は店の裏手にあり、距離にすれば数十歩ほどだろうか。クエストはその程度を歩いてから立ち止まり、見上げた。

 巨大な店舗が作り出す影と宵闇の暗さの中、薄い星明りに照らされた家の外観は、荘厳な雰囲気を湛える魔本堂と違い、全く平凡なものだった。

 魔本堂の空きスペースに無理矢理押し込めた感があり、屋根の高い二階建てになっているが、それもまた一般的といえば一般的だろう。石造りでそれなりの堅牢さを主張しているが、白を基調とした色合いは――今は闇色に塗り潰されているが――家主であるネイジの邪悪さな印象を一切与えない。住居が家主に似るというのは全くの間違いだろう。

 それは内部も見ても同様だった。風呂場や食卓など、生活を営む空間は全て一階に集約されており、外観から想像するよりもずっと広く感じる。それは各部屋にさほど余計な私物が置かれていないためかもしれない。

 どこを覗いても小奇麗にまとめられ、日頃から粗野で几帳面とは言いがたい性質を見せる店主の姿からは想像出来ないほど、管理が行き届いているようだった。ひょっとしたら閉店の片付けをする間に帰宅した店主が、クエストを招き入れるための準備として片付けたのだろうか。――仮にそうだとしても、平素の彼女とは全く異なった行動だが。

 寝室は二階にあるが、やはり少なくとも魔法使いの棲家である雰囲気は感じさせなかった。

 常に威圧感と悪辣な魅惑を漂わせる魔本堂とは正反対に、書き物机と一般的な本が詰まった書棚、そして簡単な一人用のベッドがあるだけの、質素な部屋。

 魔法使いの家ということで、クエストは多少なりとも『それらしい』なにかがあるのではと期待していたのだが……

 おぞましい研究がなされる秘密の部屋も、邪悪な儀式に使用する動物や昆虫の屍骸も、それらを調合する大釜、あるいはその結果に生み出される奇怪な生物が夜な夜な天井裏を徘徊する音が聞こえるという現象など、望んでいたものはなにひとつ見つけられなかった。もっとも、実際に邪悪な生物が存在していたら即座に魔本堂へ引き返していただろうが。

 しかし――そうする必要がなかったとはいえ、不安の類は消えなかった。

 クエストは様々な雑事を終えてベッドに横になりながら、懐に入れてある魔道書を意識した。

 謎の生物が血を求めて這いずり回らずとも、今は危機に瀕していると言えるだろう――いつ、店主を襲おうとした敵が現れるかもわからない。

 彼女はそのような事態にはならないと諭し、さらにその危険を少しでも下げるため魔道書を渡してくれた。クエストもネイジの推測を信じていないわけではなかったが……

 仮に敵が自分を攻撃しないとしても――ネイジを探して魔本堂へ向かうのではないか? そうなれば、結局は同じことではないか? あるいは彼女の真意は……そうして敵の攻撃を引き付ける間に、自分を逃がすことではないか?

 様々な憶測が頭の中を飛び交い、それらが全て望まない結末へ向かっていく。不安を抱えたまま暗闇の中に一人置かれると、少なくとも高揚する感情を得ることは出来なかった。

「……考えても仕方ない、か」

 クエストはそれらを振り切る最終手段として、思考を放棄することにした。今はネイジの言葉に従おう、と。この一日になにも起きなければ、また新たな対抗策が浮かぶかもしれない。

 なによりあの怯える店主は、多少なりとも安堵を取り戻すはずだ……

「…………」

 頭の中を空にしていくと、次第にそこは睡魔で満たされていった。

 様々な緊張に起因する疲労感も相まって、クエストはそれに抵抗せず意識を沈ませていく。

 不安の只中にありながらも心地よいまどろみ。やがてそれすら途切れ途切れになり、完全な眠りに落ちる――

 その間際だっただろう。

 クエストはまぶたに唐突な眩しさを感じて、薄っすらと目を開けた。寝ぼけた頭で眉の下に手をかざし、もう夜が明けたのかと窓を見やる。

 しかし――その光源は確かに窓の外に存在したが、朝陽とは全く違うものだった。それは上空から差し込むのではなく、窓の目の前で輝いていた。そこから見える景観全てを覆い隠す白光が、明らかにこの魔法使いの家、クエストが眠る寝室に向けられている。

 そしてなによりも異常で、なによりもクエストの恐怖をかきたてたのは、その光の中心にある影だった。逆光の中、魔道書を広げたような格好で宙に浮く小さな人影。

 クエストはそれが何者であるかを確認するより早く、そんな悠長なことを考える暇すらなく、我が身を守ろうとする本能によってベッドから飛び起きると、即座に窓と正反対の方向にある扉へ向かって駆け出した。

 足を半ばもつれさせながら寝室を脱出し、廊下を曲がって階段へ向かおうとする――直後、背後で激しい爆発が巻き起こった。

 爆風に突き飛ばされる形でクエストは廊下を転がり、そのまま階段も下っていく。というよりも転がり落ちた。

 どうにか頭だけは守りながら床に激突して止まる。階段の下から頭上を見れば、先ほどまで自分が睡眠を取っていた寝室は内側から無残に弾け、もはや扉は存在せず、大きな穴から濛々とした黒煙を吹き上げていた。弾け飛んだ寝室の砕片が階下まで降り注ぎ、階段は粉砕された石片や木屑が積もっている。

 クエストは全身を強打していたが、この場に留まれば殺されると判断して煤けた身体を立ち上がらせると、懸命にその場から逃げ出した。最も近いのは玄関であったため、とにかくそこへ向かう。余計なものが置かれていない整頓された室内は、そうした脱出には便利だった。

 火花の弾ける音を背後に、追撃がないことだけを祈りながら全身全霊で家の中を駆けて行く。さほどの距離ではないはずだが、背後からの爆破に怯える頭では異様に長く感じられた。

 どうにか家の出入り口に辿り着いた時には、もはや激しい疲労と激痛で、自分が走っているのか転んでいるのかもわからなくなっていた。

 しかしそれでも奇跡的な手際で扉を押し開け、外に脱出する。普段ならば嫌悪感を覚える時もある陰湿な裏路地の空気が、この時ほど清涼に感じられたことはない。少なくとも熱波と煙の臭いで充満させられた民家よりは遥かにマシだった。

 クエストは闇夜の中にそびえる巨大な店の姿を見上げ、無性に安堵感を抱いた。あとはそこへ駆け込めば、直接の解決にはならずとも、いきなり爆撃を受けるという事態は避けられる。

 そう思い、残る力で必死に地面を蹴り出した――が。家の扉を越えたその一歩目が、石で舗装された地面とは明らかに違う感触を伝えてきた。

 具体的に言えば……開かれた本を踏み付けたような感触。

 本能がなにかを直感し、ぞっと青ざめながら、見たくもない足元に視線を送る。それが達成されるまではほんの一瞬だっただろうが、頭はその確認作業を酷く嫌がったのか、家からの脱出よりもさらに長い時間を要したように感じられた。

 暗闇の中。自分の足がなにを下敷きにしているのかは、妙にはっきりと見て取れた気がする。というよりも、伝わってきた感触から浮かんだ映像となんら変わりなかった。

 そこにあったのは古めかしい本。全く解読の出来ない頁を広げた、魔道書――

「まずい……!」

 そう叫んだ頃には明らかに遅かった。

 魔道書はいつか見た本を食らう怪物のように牙を剥き出すと、クエストが反応するより早く自分を踏みつける足に噛み付いた。一切の比喩なく、獣を捕らえる罠の如く変貌した魔道書が、クエストの足を捕らえたのだ。

 絶叫を上げようとしたが、クエストはその前に転倒し、地面に身体を打ちつけた。悲鳴にもならない息を吐き出し、うつ伏せる。

 まともに起き上がることは出来そうになかった。見れば魔道書は足を食い千切るのではなく、ただ拘束するだけのようであり、食われている足首から先も健在ではあったが、もはや激痛と疲労によって、激しく脈動する心臓以外は一切の命令を受け付けなかった。

 地面に頬をべったりと張り付け、息を喘がせながら、クエストはまもなく訪れるだろう死の予感に絶望を抱いた。霞む視界は、まさしくそれが近付いてくる予兆なのか。疲弊しきった身体は、助けを求める声を上げることすら出来ない。仮に出来たところで、事務室まで声を届かせた上、眠る店主を起こすことは難しいだろう。

 しかし――やって来たのは命の終わりではなく、影だった。

 伏した自分の顔にふと影が落ちる。眼球だけが辛うじて動くことを知ったのはその時だ――クエストは反射的に影の正体を探そうとして、見上げていた。

 そこには、微かな月明かりに照らされた女性の姿。

 いや、正確にはそう呼ぶべきではないかもしれない。それは小柄で、子供かと思うほどの体躯をしていた。暗闇と、霞む視界のせいで容姿までは確認出来ないが、全身の輪郭から得た印象通りの子供っぽい声音で言ってくる。

「捕まえたわよ――あんたが事件の実行犯ね!」

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