3-5
クエストが恐る恐る店の扉を開けると……そこは見慣れた、陰気で薄暗い、なにとも知れない悪臭が常に薄っすらと漂う裏路地だった。
振り返れば魔本堂が、やはり見慣れた風貌でそびえている。ただし壁の所々や、真新しかった扉は熱波に煤け、砂土を浴びて薄汚れていた。しかしそれが、先ほどの空間転移や熱線が現実のものであるという証だろう。
張り付いていた枝を剥がし取り、クエストは店内に戻った。疲労に項垂れる店主に尋ねる。
「戻ってきた、んですよね? いったい、なにをやったんですか?」
彼女は答えるのも面倒だという表情ではあったが、一応は顔を上げた。顎をレジカウンターにくっ付けるほど身体を丸めると、ぼそぼそと語る。
「言っただろう。店ごと空間転移させるとなれば、店にある転移の魔道書を総動員させるくらいでなければならん、と。逆に言えば、それが出来ればこうしたことも可能だ」
それは未だ魔法に関する知識の乏しいクエストでも、信じがたいほど大規模な魔法であることが理解出来た。あるいはネイジは、そのせいで疲労しきっているのかもしれない。
しかしどうあれ、この魔法使いが語る言葉が事実だとすれば――疑う意味も、理由もないが――、先ほど何処とも知れない森の中へ送られた時、何者かも同じように大規模な空間転移の魔法を行ったということになる。しかもそれは、魔本堂内にある魔道書を利用されたのだろう。
しかし果たして外部からそんなことが出来るのか。よほど店の魔道書に精通していなければ、可能になるとは思えないが……
「いったい何者なんでしょうか……そういえば店長、なにか知ってるみたいでしたけど」
ふと思い出し、尋ねる。彼女は少なくとも、それを行った犯人からのものだと思われる攻撃を受けた際、明確になにかを察知した表情を浮かべていた。
ネイジは心当たりがあることについては、隠そうとしなかった。しかし話すべきかどうかは悩んだ様子で、言葉を濁しながら視線を逸らす。
「それは、だな……」
そうするうち――不意に、裏口の扉が叩かれた。
あんな出来事のあとであるため、二人同時に咄嗟に振り返り、緊張に身を固くする。共々、なにかしらの攻撃か、逃亡が即座に行えるよう身構えて裏口を睨みやり、その先にいるだろう相手の次なる行動を待っていると……
「すいませーん。注文の品物を届けに来ましたー」
「注文?」
扉の先から聞こえてきた男の声に、きょとんと聞き返したのはクエスト。
一方のネイジは、それで全てを察したようだった。警戒を解き、「そういえば忘れていた」と手を叩くと、無防備に裏口を開ける。
そこにいたのは――なんの偽りでもなく、配達員だった。抱えていた箱を店内に置き、店主と伝票やらなにやらのやり取りを交わした後、当然ではあるがなんらの危険な行動も取らず、帰っていく。
クエストはしばしぽかんとしていたが、店主から配達された荷物を運べと命じられ、我に返ってそれをレジまで持ち運んだ。
どかっとカウンターに乗せると、彼女が中身を確認する。やはり罠や仕掛けがあるわけでもなく、単なる本だった。それも魔道書ではない、一般書籍らしい。
「これは、いったい?」
「……そういえば、話していなかったか」
説明を求められた店主は、なぜかそれをするのに一瞬迷ったらしかった。
しかし逡巡の後、なにかを閃いたような顔をすると、話し始める。クエストの方は彼女が躊躇う理由を見出せず怪訝に首を傾げていた――まして彼女の説明した内容は、とても隠さなければならなかったこととは思えなかった。
「簡単に言えば、配達用の本だな」
それは初めて聞く業務だった。
どうやら店主は魔本堂が世間に認知され始めた頃から――つまりは最近だが――、さらなる金儲の手段として本の配達を始めてたらしい。
そして彼女が得意げに見せてきた、いつ作ったのかわからない新たな広告チラシの端に、その旨が記載されていた。ついでに『今なら魔道書が一冊付いてくる!』とまで書かれている。
店主はなぜか秘密裏にこれを配り、配達業務をこなしていたらしい。
「そんな仕事してたんですか……いつの間にか」
「だから言っただろう? 私も裏では努力しているんだ、と」
「裏にする意味がわかりませんけど」
なんにせよ、最近の不在もこの業務のせいだったらしい。クエストは様々な疑問こそあれ、ひとまずそれに納得した。そして同時に多少の安堵もあった。店主も闇雲に金儲けを叫ぶだけではなく、自ら店のことを考えて働いてくれていたのか、と。
しかし――ネイジは妙に笑顔を浮かべながら、カウンター越しにクエストの肩を軽く叩いた。そして、しれっと言う。
「そういうわけだから、今日はバイトが行ってくれ」
「店長の仕事じゃないんですか!?」
非難めいた声を上げるクエスト。浴びせられたネイジの方は、わかっていると言うように何度か頷いてみせた。どこか芝居がかった仕草だがそうしてから、こちらは深刻な様子を見せてため息混じりの声音で嘆く。
「無論のこと、本来ならば私の仕事だが……先ほど攻撃を仕掛けてきた犯人は、恐らく私を狙っているはずだ」
「そうなんですか?」
犯人について、ネイジはやはりなにかを知っているのか、あるいは状況から考えての推測なのか。なんにせよ彼女の見解では、そういうことらしい。聞き返すクエストの言葉にも「他に考えようがない」と頷いた。
「だとすれば、私が出歩くのは危険だろう? それに、なんというか――」
そう続けてから、言葉尻を濁す。肩を叩いていた手はすっかり離し、声音は先ほどの恐怖を煽る険しいものから、どことなく温和で女性的なものへと変わっていた。
僅かに目を逸らし、紅潮しているように見える頬をかきながら、彼女は言う。
「相手が大規模な攻撃で私を狙っているのなら、私の近くにいるだけで危険が及んでしまう。事実、さっきは危なかったんだ……だから今は出来るだけ、離れていた方がいい」
クエストはしばし、それを受けて沈黙した。普段であれば考えられない彼女の態度に対し、我知らず意表を突かれて混乱したのかもしれない。
ネイジの言葉を噛み砕くまでにはしばしの時間を要し、やがてその意味をどうにか理解して、呆然のまま聞き返した。
「ひょっとして、俺のこと心配してくれてるんですか?」
「悪いか? バイトがいなくなれば、私だって困るんだ」
「わざわざ聞くな」と叱責しながらも、彼女は頷いた。相変わらず恥じらいを隠すように、目を合わそうとはしないまま。
しかしおかげで、クエストは自分の理解が正しいことに確信を得て頬を綻ばせた。こちらも慣れないことで、苦笑のようなぎこちない表情ではあったが。
「ありがとうございます、店長。でも俺のことなら大丈夫ですよ。これでも店長に鍛えられていますからね、知らぬうちに」
「ふんっ。それなら早く配達に行って来い! 配達先は……ちょっと待っていろ!」
とうとう耐え切れなくなったのか身体ごと顔を背けて、店主は不必要なほど強く、どかっと椅子に腰を下ろし、小さな紙にペンを走らせる。
その最中でも時折ちらりと肩越しに視線を送ってくる彼女に、クエストはもう一度頼もしさを見せようと余裕の表情を浮かべて――やがて差し出されたメモを受け取り、配達へ向かった。




