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 クエストは、不意に聞こえた声に、これ以上ないほど喫驚していた。

 背中をぞくりとさせながら慌てて振り返り、飛び退く――そうしようとして、本棚に軽く背中をぶつけたが。

 そこには、人がいた。

 いや、人かどうかはまだわからない。クエストはそこにも疑問を持った。

 そして同時に高揚する気持ちも自覚した。怪しげな本屋、怪しげな品揃え、そして唐突に背後に現れた怪しげな、人の形をしたもの。

 ひょっとしてこれは魔女か、あるいは人を模しただけの怪物かもしれない。もしそうなら、これほど夢が叶う瞬間もない――

 と、思っていたが。

「その書は禁呪黙示録と言ってな……それ自体が魔道の呪いを帯び、並大抵の者は触れることすら出来んとされているのだが……」

「…………」

 いかにも胡散臭い、芝居がかった口調で言ってくるのは、女性。

 黒々とした髪を肩まで伸ばし、粗雑に伸びた前髪は俯き加減のせいで顔の半分を隠している。

 辛うじて見える口元は不敵な薄い笑みを浮かべ、帽子はないが、仰々しい漆黒のマントが紅い唇を不気味に、そして魔女らしく強調しているようでもあった。

 低く、くぐもった声もそれに一役買っている。

 ……が、魔女らしいのはそれくらいだった。

 マントの下に着ているのは、単なる白いブラウスと黒のタイトスカート。そしてごく普通の本屋の店員と変わらない、水色のエプロン。あまつさえ胸元には名札が付けられている。

 年の頃はどれほどか、いまひとつ判断が付きにくいところだが、少女というはずはなく、かといってさほど老齢というわけでもなさそうだ。クエストと同じほどはある長身というのも、歳をわかりにくくさせる一端か。

 とりあえずクエストに出来たのは――名札を読み上げることだった。

「えぇと、ネイジさん?」

「ほう、私の名を見破るとは! 流石は魔道書に選ばれし者、というところか。ならばこの書、本来ならばそう易々と売ることは出来ぬところだが、お前になら特別に格安で」

「詐欺口上じゃねえかっ!」

 力の限り叫ぶ。と、その怪しげな女――ネイジは心外だというように身を仰け反らせた。

 そのおかげでようやく顔が見える。眼鏡の奥で、切れ長の目が見開かれていた。

「なにを言う! お前ほどの才気の持ち主が、私を詐欺師呼ばわりなどとは!」

「そういうのいいですから……なんなんですか、あなたは?」

「むう、意外にノリが悪いな」

 問われて彼女はようやく芝居をやめたのか、口を尖らせながら身を整えた。

 乱れた髪を払う細い指は魅惑的な女性を思わせ、真っ赤な爪は魔女というより魔性の色香を感じさせる。声も先ほどからガラッと変わり、女性的なものになっていた。

「名前は先ほどお前が言った通り、ネイジだ。何者かと聞かれれば、そうだな――ここの店主をしている」

「店長だったんですか、あなた」

 クエストは呆れて肩を落とした。

 風変わりなこの店主は、店の雰囲気に合わせてくれていたのかもしれないが。それならばこんな悪ふざけ程度の粗雑なものではなく、もっと真剣にやってほしいと思わなくもない。

 落胆するクエストの肩を慰めるように軽く叩きながら、彼女は数度頷いた。

「うむ。店長であり、魔法使いだ」

「…………は?」

「知らないか? 魔道書を用い、魔法を行使する。本の中でよく登場するだろう?」

「…………」

 ニヤッと不敵に笑いながら言ってくる、ネイジ。どうやらまだあの子供っぽい悪ふざけは終わっていないらしい。

 付き合うのも面倒なので、それは聞き流して話を変える。雑な冗談はさておくとしても、店主と話が出来るのはクエストにとって幸運だった。

「店長さんなら、ちょっと話を聞いてもいいですか? この店について色々と知りたくて」

「店自体に興味を持つとは珍しい。本屋が好きなのか?」

「ええ、まあ」

 反対に問いを返され、クエストは少し驚きながらも頷いた。

 せっかくだからと、少し語る。なにかを教えてもらう時は、知りたい理由を話した方が受け入れられやすいはずだ。

「実は俺、本屋を巡る旅をしているんです」

「ほう。それもまた珍しい。面妖な」

「面妖とまで。美しいものを見たいという願望は至って普通です。俺の場合、それが本屋だっただけで」

 そう言ってまた店内を見渡す。

 床も、天井も、柱も、ところどころに設置された淡い灯りによって、赤黒い色を曖昧に揺らしている。

「特にこういう幻想的な本屋が好きなんですよ。実家が本屋で、お世辞にも見ていて楽しい景観じゃなかったので、それならもっと綺麗な本屋はないかなと。今までの旅だって、そんな風景に出会うためですから」

「ほほう、それはそれは……」

 ネイジは話を聞きながら、なぜか満足そうに、そしてどこか不自然に頷いた。

 浮かべる笑みは若者の夢を見守るというよりは、悪巧みを閃く不穏な含み笑いに近かった。それこそ、魔女のようだとも思ってしまうほど。

 クエストはそこで不審さを感じて言葉を止めた。話を切り上げて、それよりも店内をもっと見回ろうかと思ったが、

「それなら、もしここに住めるとしたら大喜びか」

 引き止めたのはネイジからの、そんな言葉だった。

 クエストは意味がわからず、きょとんと首を傾げる。しかし店主はそれ以上なにも言うことなく、ただ答えを待っていた。

 仕方なく、どう返すべきかと悩みながら再び店内を見回す。真意のわからぬ問いかけには、言葉をそのまま受け止めて返答するしかない。クエストはとりあえず、この神秘的で、絶景とも言える風景が広がっている朝の目覚めを夢想した。

 そして、頷く。

「まあ……そうですね。こういうところに住みたいって願望はありますよ」

「そうか、やはりか! よかったよかった。そう言ってくれるだろうと思っていたよ」

「……?」

 なぜかネイジはありがたがって、今度は強く何度も肩を叩いてきた。

 事態が飲み込めず首を傾けっ放しのクエストを無視して、満面の――しかしどこか悪辣な笑みを浮かべて、続ける。

 悪魔、あるいはやはり、魔女の声――

「では今日から住み込みのバイトだな。よろしく頼むぞ」

「…………は? バイト?」

 悲運の日々はそんな言葉によって、一方的に幕を開けた。

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