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民家の一室。その中央に立ち、室内をぐるりと見回して、男は疲労と恨み、そして正義感を滲ませるように顔をしかめた。
家は無人だった。少なくとも、本来ここに住まうべき人間はいない。無論のこと空き家なわけでも、単に外出中なわけでもない。そのどちらかなら、部外者がこうして出入りすることもなかったのだが。
男――衛兵によって組織された調査隊の隊長は、もう一度改めて部屋を見回した。
書斎と言って差し支えないだろう。さほど広くない空間であるが、入り口の扉から見て正面に大きな窓があり、そのおかげで昼間は十分に明るい。しかしそれ以外の周囲は大半が本棚だった。どこにもぎっしりと、人並みに本を読む程度の隊長ではさっぱりわからない、それでいて見ただけで読む気の失せる、おどろおどろしい表題の付いた背表紙が詰め込まれている。
唯一の例外は書き物机だった。恐らく家主はここで読書を楽しむ趣味があったのだろうが、その上にはなにも置かれていない。代わりに、その足元にカップが転がっている。中身は空だが、板張りの床に液体の染み込んだ跡があった。椅子も乱暴に倒れていることから、家主はカップを持ったまま転んだのだろうと推測される。
そしてそれが、家主の最後の痕跡だった。
彼――家主は男性らしい――は、ここで転び、カップの中身をぶちまけた後、それを拭き取ろうとした形跡も、布がないことに気付いて買いに走った形跡もない。拭き取るのに使えそうな布は家の至るところから発見出来た。
この状況を見て、どんな突飛な推理も許されるというなら――家主はここで転び、あるいは転ぶような事態が起きた直後、唐突に消えてしまったことになる。今まで常に現実に即した推察と対応を続けることでそれなりの地位についた老齢の隊長は、即座にその考えを否定したが。
しかし――そんな彼でも、そうとばかりも言っていられない状況ではあった。
「これで十件目か」
ここしばらく、同様の事件が多発していた。
つまりは突然に、誘拐や蒸発の痕跡すら残さずに人間が失踪してしまうのだ。
失踪直前に外出したという情報はなく、それどころか直前まで間違いなく在宅だったという情報すら入ってくる。
調査隊は、全ての事件において強盗の痕跡が残されている点から、巧妙な盗賊団の類だろうと推測していた。が、世間では伝説で語られる悪魔か、それに類する魔術によるものではないかと噂されているらしい。
彼らがそのような迷信を信じ込み、また現実に発生している事件と結び付けてしまうようになったのは、事件の不可解さだけでなく、被害者自身がそうした迷信の類について、信じる信じないに関わらず、また度合いはともかくとして愛好していたことにも由来しているのだろう。
現在、人々の間で最も人気なのは『悪魔に魅入られ金品を捧げ、異世界へ連れて行かれた』という説らしい。
隊長は部屋の大半を占領する棚の中に、そうした悪魔を内包するおぞましい古書、あるいは魔界へ通じる儀式に使用される禁断の魔道書が存在している可能性を頑なに否定しながらも、言い知れない恐怖を感じる瞬間があることについては自覚せざるを得なかった。
しかし彼がそれでもそうした安易な迷信に飲み込まれることがなかった最大の要因は、今回の被害者が外交的であったこと――今までの被害者は他人との交流が希薄な者が多かった――と、なによりも明確に、いかにも怪しい人物を見つけていたからだった。
それも今、まさにこの瞬間、明かり取りのために大きく開かれた窓の外に。
それが現れたのは、少なくとも現れていることに気付いたのはほんの一瞬前だった。
近寄りがたい古書の数々から目を逸らし、光明によって気を現実に引き戻そうとした時、その何者かが片目を覗かせているのを発見した。化け物などではなく、明らかに人の姿。顔の一部だけでは正確な人相はわからないが、女だろうと直感する。
しかしその直後。隊長が驚愕に身動きを止めたその一瞬、人影と視線が交差してしまった。
「……!」
「何者だ! 追え、窓の外だ!」
謎の影が明らかに逃亡の意志を見せて窓外から姿を消すのと同時、隊長は威嚇と、部下への命令に叫んだ。
常に訓練を欠かさぬ衛兵たちは、その命令が意味するところや状況を理解するよりも早く、言葉に従い窓へ駆け寄る。
当然隊長もそれに続き、急ぎ外へ飛び出したが――
「どぅおおおおお!?」
直後、調査隊の眼前に炎を纏った鳥が飛来した。
正確には、鳥の形をした炎の塊だっただろう。どちらにせよ衛兵たちは日頃の訓練の賜物によって直撃を回避することは出来たが……何にも命中しなかった炎はそのまま彼らの脇を通り過ぎ、窓を通って室内に突き刺さった。
木板を利用し、周囲に薪の代わりとなる古書が大量に敷き詰められた書斎が、当然のように燃え上がる。
調査隊は遠くに逃げ行く影のような漆黒の後姿をした容疑者と、熱波を放ち始めた民家とを一瞬見比べて――
やむなく、消火隊へと変貌した。




