2-10
ルードに指定された戦いの場へ向かうため地図を辿ると、そこにあったのは廃屋だった。
かつてはなんらかの店が経営されていたのだろう。看板こそ残っているものの風雨によってペンキは剥がれ、店名を判別することは出来ない。店名の書かれた鎧戸が下ろされているわけでもなく、一面ガラス張りの扉だったのだろう戸枠と、辛うじて端々にガラスの欠片が残るだけで、実質的には開きっ放しの状態だった。しかし通り全体が薄暗さに満ちている上、ボロボロながらも辛うじて存在している店舗用テントのせいで、内部は恐るべき暗黒が広がっている。
かといって心底から恐れるわけにもいかず、クエストは暗闇から仕掛けられる罠や不意打ちの類を警戒しながら慎重に、ルードの招く手の中へと足を踏み入れた。
一歩、二歩と進む。もう身体全体がすっかり闇に包まれ、自分の腕を目視することもおぼつかない。床らしい地面を踏み付けるたびに、粉々に砕かれたガラスの破片か、あるいは砂利のようなものが不快な音を立てることで、足が健在であることを認識出来た。
しかし歩き続けるにも限界が来て、クエストは内部の中心地にも到達しないうちに立ち止まった。さして意味はないが周囲を見回すように首を回し、なんら変化がないことを確認すると、声を上げる。
「ルード、出て来い! 不意打ちをかけるつもりなら、もう遅いぞ!」
まさかその脅しによって、彼を諦めさせたというわけではないだろうが――
反響する声が消え去ろうとかいう頃、突如として、光の差し込まない室内に灯りがともった。
暗闇に慣れ始めていた目には眩しく感じられたが、実際の光量はさほどでもなかっただろう。少し目を細めているうちに慣れ、灯りは内部の様子を明確にしてくれた。
さほど横幅のない店内の壁には、まるでこの店が健在であった頃はそうしていたかのように、いくつものランプが取り付けられ、なんらかの方法で一斉に火が点けられたのだろう。
足元はところどころ床板がめくれ、砕かれた細かなガラス片が不気味に輝き、それ以外のものは一切が取り除かれ、商店の面影を残していない。
辛うじてそれが見て取れるのは、店の奥にあるレジカウンターくらいだった。店内を区切るようにして壁に打ち付けられているため、持ち出すことが出来なかったのだろう。
――ルードは、その奥にいた。
相も変わらず気に障る吟遊詩人じみた格好で、まるで自分が店主にでもなったように、カウンターを挟んでクエストと正面から対峙している。
咄嗟に身構えると、彼は芝居がかった恭しい仕草で礼をしてきた。
「ようこそ、バイト君。てっきり諦めたものかと思っていたよ」
「店長のスキンシップがあんまり激しかったんでね」
ほんの少しだけ視線をずらすと、ルードの傍らにはネイジの姿があった。半歩ほど後方に付き従うように立ち、相変わらず喪心の無表情でクエストを見据えている。
「約束通り、店長を返してもらうぞ」
クエストはルードの方へ視線を戻すと、挑戦の様相ではなく、それが既に決まりきった事実であるかのようにそう告げる。
当のルードは、その敵意を受けても平然としていた。心外だというように両手を広げて肩をすくめる。相手を見下す、おどけた表情で。
「そんな約束をした覚えはないなぁ。僕はここへ来ることを勧めただけで、僕たちの愛を君に見せ付けるためだったかもしれないだろう?」
彼はなにが面白いのか、けらけらと笑ったが、クエストは軽く鼻を鳴らすだけで一蹴する。
「精神支配の、なにが愛なんだか」
皮肉に吐き捨てると、ルードは「これのことかい?」と言ってこれ見よがしに魔道書を取り出した。相変わらず魔道書らしからぬ薄ピンク色をした表紙が、ランプの灯りの中で揺れる。
しかしクエストがその魔道書に狙いを定めて戦闘態勢を取ると、ルードは片手を突き出してそれを制した。「その前に」と前置きして、問いかけてくる。平和的な解決を望んでいるというよりは、単に手間を減らしたがる面倒臭がりの様子で。
「どうして君は、そこまでネイジに執着しているんだい?」
「? どうして、って……」
意図をはかりかねて眉をひそめる。オウム返しに呟いて、ネイジとルードの間で視線を行き来させていると、しかし沈黙はさほど長くも続かなかった。
ルードがさらに問いかける。やはりこの会話の中だけで解決しようという意志を見せながら。
「君にとってはなんの関係もない人物だろう? 雇い主ではあるだろうけど――店のことなら、君に明け渡してもいい。僕は本屋になんか興味ないからね」
不意に持ち出された提案に、クエストは内心で少し驚いた。
それは微かに、淡い夢想の中で描いた理想。店主からこっぴどく叱られて断たれながらも、幾度か夢見たことのある未来像ではある。
クエスト自身、その願望があるのは認めていた。ましてネイジは純然たる金儲け以外に興味を持っておらず、自分の方がこの美観を活かせるのではないかとも考えてしまう。
しかし――クエストは悩む間も置かず、そのあまりにも有利な提案に対して首を横に振った。
「それは確かに魅力的だが……ダメだ。俺には務まらない」
「どうしてさ? 君なら十分、やっていけると思うけどね」
彼がそう言うのは、魔法使いに挑む単なる旅人、本屋のバイトに対して意外なほど高い評価を下しているのか、あるいは単に乗せるための世辞だったのか。
しかしそれが事実であれ方便であれ、クエストには関係のないことだった。
「俺もいつかあんな本屋を持ってみたいとは思っていた。だけど、違う。あそこは特別なんだ」
言いながら、店の内観を思い描く。
現世から切り離された広大な魔女の館。奇怪さと邪悪な気配を湛え、陰鬱な感情を引き起こさせながらも、人心を惹きつける悪魔めいた魅力を秘める巨大書店。そこには――
「魔本堂には――魔道書に囲まれた幻想的な本屋には店長が、魔法使いがいないとダメだ。店長がいるからこそ、あの店の気配は成り立っている」
クエストの返答を受けて、沈黙したのはルード。
虚を突かれたようにしばし唖然として、呟く。
「魔法使い……って、それだけの理由かい?」
「ああ、それだけだ」
一片の迷いもなく頷きを返す。それ以上の言葉も必要なく、押し黙っていると、ルードはやはりまだ理解が追いついていないようだった。
それからまた少しの間、きょとんとしたまま瞬きをして……やがて呆れて頭を抱える。嘆くように小さくかぶりを振って。
「なんとも、また……くだらない」
「個人的な好みに、くだるもくだらないもあるか」
クエストは即座に言い返した。
「店長を手に入れたいっていうお前も、同じようなものだろう。俺も同じだ――あの本屋への愛がある!」
だがルードも、それに対して異論を抱いたようだった。
眉間にきつくしわを寄せると、苛立ちの様子を滲ませて語気を強める。端整な彼の顔には似つかわしくない、魔物じみた魔法使いの声音で。
「そんなものと僕の気持ちを一緒にしないでほしいね。でも――」
一度言葉を切ると、彼は明確に怒気を含んで吼える。
「どうやら退く気はないみたいだから、僕も徹底的に抗戦させてもらうよ!」
ルードはそう言いながら、しかし自ら乗り出すわけではなく手を振るい合図を出した。それを受け、背後に付き従っていたネイジが主を守るように進み出る。
見開かれた彼女の瞳は、普段よりも数段鋭く、明確な敵意を見せていた。殺意と呼び変えてもいいほどに。狂った歴戦の兵士を思わせる眼光を、こちらに向ける。
その光景はクエストにとって心苦しいものではあった……しかし予想していたことでもある。怯まず、一瞬顔を曇らせるだけに留めると、自らも戦いを決意して武器も抜き放った。
手にした獲物に、目を丸くしたのはルードだった。




