0-2
――旅に出たのは、十二歳の頃だったか。きっかけは、実家の本屋が潰れたからだ。
故郷を離れて早、数年。その中で大陸中、様々な土地を巡ってきた。
最も近くにあった町、エルトケ。そこから南下して海に面したブッチ村。馬車も通れない僻地にあったインスペクト集落……
様々な街や村、あるいはそれに満たないような場所までも渡り歩いて、今回辿り着いたのは大陸のへそを自称する大都市、リブラだった。
ここには、ある『噂』があった。それを求めてやってきたのだ。
故郷から旅立った目的――
「こっちじゃなかったか。規模としてはそれらしかったけどなぁ」
店の大きさが自慢という、この町一番の本屋を出たところで、クエストは考え込んだ。
幼少の頃、思案顔になると平素から険しい目付きのせいも相まって酷く不機嫌そうに見え、怖がられるというのを気にしたことがあったが、今は反対に、旅の疲労癖が付いてしまったせいで気だるそうに見えるのではないかと気にしていた。
中肉中背というよりは筋肉質な、旅人然とした腕を組み、そこから持ち上げた手を顎先に当てると、首をひねる。
「この町にあるって噂だし、これだけの大都市ならあってもおかしくないんだが……」
焼けた茶色の短髪が、焦げた雑草のように風に揺れた。普段は薄着の上に頑丈でフードの付いた土色の上着を羽織っているのだが、この風は比較的温暖であり、今は背負っているリュックの中に押し込んである。
彼はそれを背から下ろすと、上着を避けてこの都市の地図を取り出した。
現在地はほぼ中央、地図にも載っている大きな書店。そこに丸印が書かれている。クエスト自身が書き込んだものだが。
そして――もうひとつ。
「それなら……こっちか?」
町の北端、その奥地。怪しい店の立ち並ぶ裏通りからさらに進んだ先の空白にも、丸い印がついている。
「ここ、空き地だよな? 町中聞き回って二、三人から教わったけど……本当にこんなところにあるのか?」
半信半疑を口にしながら、それでもここまで来たならと足は勝手にそちらへ向かった。
町の大通りを通り過ぎ、侵入した薄暗い路地で怪しい何者かに因縁を付けられないかと怯えながら、しばらく歩いてどうにか無事に辿り着く。
そこは思った通りの空き地――ではなく。
そう思われていた空間には、驚くべき建築物が存在していた。
黒めいた毒々しい紫色を基調とする、いかにも怪しくおぞましい建物。一見すれば、それは魔女の家を思わせた。
しかし全く違うのは、その大きさだった。
先ほど見てきた大型店舗よりも、さらに一回り以上巨大だろう。見上げれば遥か高く、そこだけに注視すれば小規模な廃城だと勘違いしたかもしれないほど、異様な広大さを誇っている。
それでも、この建築物が巨人の住む魔女の家でも、棄てられた城でもないとわかったのは、見張り台や、怪しい実験の煙を巻き上げる煙突がないこと以前に、看板のおかげだった。
と言っても、店の屋根やその付近に取り付けられていたわけではない。それらしい部分に痕跡はあったものの、なぜか無理矢理引き千切られたように欠損している。その代わりに『本屋』とだけ記した板が入り口の横に立て掛けられていた。
「これって……まさか!」
驚き、また期待を秘めてクエストは、本屋らしきその建物に駆け込んだ。
こちらはさほど大きくもない木製の扉を押し開くと、来客を知らせる鈴が鳴る。この控えめな音で広大な建物内のいずこかにいる店員に聞こえるのかと不安になる余裕もなく――
目に飛び込んできたのは本の海だった。
あるいは、押し迫る本の壁と言うべきか。
どちらにせよ真っ先に思い浮かんだのは、ここが先ほどで自分の存在していた世界と同一のものだろうか、という疑問だった。
そこは異界だと思えた。だとすれば今しがたくぐった扉が、次元を超える門だったのだろう。そう錯乱してしまうほどの風景が、目前に広がっていたのだ。
なににと例えようもなく、どう形容するのが適切かもわからないが、陳腐ながらも言葉をひねり出すとすれば、幻想的だ。
眼前は入り口の幅そのままに抜け、人が三人並べる程度のまま奥へと続いているが、行き着く先は遥か遠方。目を凝らしてその終着地を確かめようとしても、見えるのは暗闇だけだ。
しかしそんな長大な開放感を相殺して有り余る窮屈さを与えてくるのが、左右にある膨大な量の書架だった。
店内を格子状に区切るように敷き詰められた書棚の群れは、整然さと同時に厳格な雰囲気を与えてくる。
それは木製らしいその棚の古めかしさにも起因していただろうが――なによりそこに詰め込まれた本だった。そのどれもが、太古を感じさせる怪しげな背表紙を向けている。
上を見ると、そこは吹き抜けになっていた。二つの床板が見える。店内は三階層に分かれているらしい。それぞれ構造は一階と変わらず、そのおかげで同じ配列の書架が縦に連なり、巨大な柱の中に本が埋め込まれているかのように錯覚してしまう。
照明は陽光をほとんど取り入れず、淡く薄暗い。しかしそれは遥か高い天井にも僅かにだけ届き、とても人の手腕とは思えない細密画を浮き上がらせていた。あるいは魔女が儀式に用いる文様だったかもしれない。ハッキリと見ることが出来ない分だけ、それはなおのこと神秘さと不気味さを際立たせている。
そして、それらが全て相まって――クエストは歓喜した。
「ほんとに、あった……こんなところに!」
思わず手近な書棚から本を一冊引きずり出す。
古ぼけた濃紺の分厚いカバー。表紙には羽ペンで引っかいたような字体で『書食書』と書かれていた。
クエストはそれを開こうとして、やめた。それよりもわなわなと震え、本を丁寧に戻してからまた別の一冊を取る。
その表紙には文字ではなく魔術的な模様が描かれているのを見て、また心を打たれるように震えてから、次の本。そしてさらに次……と、やっていくうち、足元になにかを見つけた。
平積みにされた、これまた古めかしい本。いかにも魔道書然とした書物。一部は本というよりも、ばらばらになった魔道書の一部を纏めただけのような物だったが――
クエストはそれを見て、くらりと傾いだ。仰向けに倒れそうになったところでぎりぎり堪えると……凄絶な笑みを浮かべる。
「ふ、ふふ……ふふふふふ」
引きつる口の端からは笑い声すら漏れていた。どちらかと言えば悪魔的な哄笑だったが。
「日の光を嫌った薄暗い明かり……巨大な空間に、それを窮屈なまでに埋め尽くす書架……そこに詰め込まれているいかにも怪しい本の数々……」
呟く声は、祭壇で捧げる邪神への祈りか、あるいは暗黒の儀式で唱えられる呪術を思わせた。
手と喉を震わせて、遥かな天井を仰ぎ見ながら狂喜を吐き、やがて叫び声へと変わる。
「これだ、これだよ――俺はこういう本屋を求めて旅をしてきたんだ!」
クエストは飛び上がると、足元で積まれている本を手に取って、店内の風景と調和させるように掲げた。
「幻想的で、神秘的で、面妖で不可解で奇怪で胡散臭い! こういう妖美な本屋をこの目で見たかったんだ!」
目を輝かせて、書棚の列を渡り歩いていく。
棚と棚の間は二人がすれ違うようには出来ていないらしく、入り口よりもよほど息が詰まるようだった。
それでも無理矢理に呼吸すると、真っ先に鼻を痺れさせたのは古びた木の香り。しかしのみならず、それ以外のもっと淀んだ空気、あるいは異様な臭いが大気中に充満しているのではないかと思わせた。
それは幾重にも渡って続く、怪しげな魔術を思わせる書物の数々のせいでもあるだろう。通常の書店で言うなれば主力商品というところだろうが、少なくとも正常な精神を持つ読書家が趣味を満たそうと吟味するのには向いていない。
しかし、それがいい――クエストはその狭苦しさと、不穏で不安を煽るような表題の連なるこの空間に堪らなく酔いしれていた。
漆黒の色をした分厚い背表紙の頭に人差し指をかけて、ゆっくりと引き寄せる。顔を出した稀覯書めいた書物を無造作に掴むと、しかしその危険性を熟知しているかのように、やはり慎重に棚から抜き取る。そして頁を広げ、多少の黴臭さも厭わず、古ぼけた紙に綴られた見たことのない文字の羅列に、神妙な面持ちで視線を落とす――
そんなことをしていると、まるで自分が魔法使いにでもなったような気分になれた。
ごっこ遊び程度だが、それもこの空間があってこそ出来るものだ。クエストは今の自分の姿を他者の視点から、物語の一場面として思い描き、だらしなく頬を綻ばせた。
「しかしこれだけ雰囲気のある場所なんだから、こんな遊びしなくても魔女くらい出てきそうなもんだな」
魔術的な書店の中に現れる、魔女。それもまたクエストの夢想をかきたてた。
無論のこと――魔法にせよ魔女にせよ、あるはずもなく、いるはずもなかった。
あれは空想、物語であり、伝説の中でのみ語られる脚色された幻想の産物。そんなことはわかっている。が、わかっているからこそ夢想は止まらなくなる。クエストが追いかけているのは、まさにその夢想だと言えた。
「こんなところにいる魔女だ。きっと店に負けず劣らず怪しく、胡散臭く……黒のローブに三角帽子は間違いないな。そしてきっとヒェッヒェッとか笑うに違いない」
現実に引き戻されまいと妄想を脳から外へと放出しながら、また適当に魔道書と銘打たれた本に手をかける。
「そして俺がこうやって本を手に取った時なんかに――」
「ほう……それに目を付ける者がいるとは」
突如。背後から、己が夢想した通りの声が聞こえた。




