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コンパティは上機嫌だった。
いつも通りの出勤時間に鼻歌を交えて我が店へと向かいながら、浮かび上がる笑みを押し隠すことが出来ない。
しかしそれも、彼にとっては仕方のないことだ。なにしろ今日は、魔本堂へ立ち寄ってなんらかの悪逆な策を講じる必要がない。魔本堂は放たれた猛火によって、客を迎え入れることが出来なくなったのだから。
少しでも宣伝を妨害しようと大量に受け取っていた魔本堂のチラシを、よもやこんな形で――薪の代わりに使うことになるとは彼も思っていなかったが。
「ふふふ、これで当分は営業出来ないだろう。店の巨大さで客の目を引こうなどと、卑怯な手を使うからこうなるのだ」
言いながら、上機嫌な笑みが悪党のそれになっていることを自覚して、頬を揉みほぐす。
「やはり本屋は種類の豊富さ――……いや、違うな、それではない」
本の種類だけで言えば、魔本堂の方が上回っていた。それを思い出し、首を横に振る。コンパティはしばし考えると、やがて閃いた。
「そうだ、誠実さ! 本屋はなによりも誠実でなければならない!」
そう叫んだのはちょうど、コンパティ書店の目の前だった。
こだわって天井を高くしたおかげで、一階建てだというのに店は遥か大きくそびえている。
そしてコンパティは、そこに輝く巨大な看板を誇らしげに見上げて笑い出した。
他店との競争の末、真っ当な勝利を掴んだといわんばかりの哄笑。通行する人々が背後で奇異の目を向けていることにも気付かず、しばしの間それを続けて。
「さあ、悪を討ち滅ぼし、今日から我がコンパティ書店の新たな幕開けだ」
ひとしきり満足すると、コンパティは爽やかな心地で頷いた。
いまさらながら、朝の清涼とした風を感じる。ここ数日、陰気な裏路地へ忍び込み、淀んだ空気で目覚めさせられる毎日だったので、こうした今まで通りの快適な、不安ない一日の始まりが幸せに思えていた。
彼は真っ白で大きな心境のまま、意気揚々と店の入り口を開く――
……しかし。
そこに見慣れた、そして己の愉悦を満たす店の風景は広がっていなかった。
わけがわからず――コンパティは入り口から二歩目を踏み出すことも出来ず、呆然と固まる。彼の目に映ったのは、そして開かれたままの入り口から見える光景は、真っ白な空間だった。
壁や棚、天井と、明るさを得るために徹底させた白色が、視界一面、店一面に広がっている。それはもちろん良いことであり、望むべきことではあったが……
問題は、それ以外が存在しないことだった。
参考書と書かれたコーナーの下に、参考にするべき書が存在しない。歴史書の棚の前に立ったところで、垣間見えるのはそこに書物が置かれていたという歴史だけ。オカルトコーナーに一切の本がないのは、それ自体が本に記すべき事件だろう。
なんら略奪や、あるいは火事などの形跡もないまま――
コンパティ書店からは一夜にして、全ての書物が消え去っていた。
「…………」
店主は、沈黙するほかにない。商品と共に全てを失ってしまったように言葉もなく、把握しきれない、理解しきれない現状を目の前になにも浮かぶものはなく、ただ早朝の風に吹かれる。
清涼とした風、望んだ日々の訪れを予感させる、清々しい心地にさせる――はずの、風。
ふと、それに乗って声が聞こえてきた。……いや。正確には、コンパティの耳には届いていなかったかもしれない。
澄んだ風に見合うよう努めている、快活な声。しかし清らかさを無理に押し出そうとして、返ってその内に秘める悪魔じみた腹黒さが強調されているような、そんな女性の声が、少なくともコンパティが茫然自失とする辺りにも響いてきた。
もしも彼がそれを正しく聞いていれば、なんらかの攻撃的な行動を起こしていただろう……
「魔本堂ー、魔本堂ー。巨大な店舗で実用書から魔道書まで、なんでも揃う魔本堂ー♪」
メガホンを片手に上機嫌な声を上げながら、黒マントをなびかせて意気揚々と歩く女。水色のエプロンに付けられた名札には、『ネイジ』。
その後ろでは、呆れとも諦めとも取れる、どうとも言いがたい表情をした茶髪の青年が、同じく『クエスト』と書かれた名札付きのエプロンを身に付け、広告を撒き散らしていた。
二人、少なくとも女の方はなんの気負いも、後ろめたさも、悪びれる様子もないまま、生気を失ったコンパティの背後を悠々と、それどころか意図してゆっくりとした足取りで練り歩いているようでもあった。
通行人はその奇妙な光景に、何事かと足を止めていた。中には飛んできた魔本堂の広告と、宣伝文句に、興味深そうな目を向ける者までいる。
やがて、魔本堂の二人は長い時間をかけてコンパティ書店の前を通り過ぎると、ひそひそと言葉を交わした。
「店長、これって……」
「どうだ、愉快だろう?」
恐々尋ねるクエストに、ネイジは薄い笑みを浮かべた。どこまでも冷ややかで、おぞましい、悪魔の微笑。
彼女は心底からその笑顔を生み、低く、実に楽しそうに笑う。
「これが、本を食らう魔道の書――ある者は『書食書』と呼んでいたな」
そう言って、懐から分厚い本を見せてくる。留め金によってしっかりと閉じられた古書。それは、拘束具によって口を封じられた屍食鬼の姿を思わせた。
実際、似たようなものかもしれない。
なにしろこの魔道書は、真実、コンパティ書店の本を食い尽くしてみせたのだから。




