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「よし、苦情が入った!」
血相を変えてレジに飛び込んでいく客を見ながら、コンパティは小さく声を上げた。
「これでこの、でかくて本の種類が豊富なだけが取り得のふざけた本屋は終わりだ!」
そう確信して、期待に満ちながらレジでのやり取りを覗き見る。離れすぎたせいで会話はやはり聞き取れなかったが、興奮した様子の客が二、三言、店員になにやらまくしたてたかと思うと……そのまま、本を購入して帰っていった。
「な、なぜだ? あんなにもいかがわしい本を見せられて、なぜ怒らん!」
コンパティは様子を窺うため、棚に隠れながらレジに近付いていった。やがて不思議がっている男の表情を読み取れるほどになった頃、店の奥から先ほどの女が現れた。今度は二人の会話も聞き取ることが出来る。
「どうしたんだ、さっきの客。妙に興奮して。お前も驚いていたようだが」
「いや……あんな本、うちにあったかなぁと思って」
「あんな、というのはどんな本だ? 一応たいていの本はあるぞ。私の趣味で集めたからな」
「でも、卑猥な魔道書なんてありませんよね? 半裸の女性が魔法の杖に絡まってる表紙の」
「……なんだそれは。魔道書というのは、あれでもなかなか厳格なものだぞ」
「そうですよね。いったいどうしてあんな本が……」
その内容から、やはり先ほどの本の話であることは間違いない。しかし、ならばなぜ――
コンパティがそう思っていると、再び店の入り口が開いた。しかも今度は一人ではなく、十数人の客が一斉に押し寄せる。彼らは驚愕に言葉を失う店員たちを無視して慌しく店内を見回すと、やがてその中の誰かが叫んだ。
「ここだ! 卑猥な魔道書があるっていう本屋は!」
「くそっ、本が多いぞ! どこにあるんだ!」
「探せ! 俺の知り合いは、さっき確かにここで買ったと言っていたんだ!」
そうして彼らは店内に散っていった。
コンパティは、そして店員たちも同じく唖然とその様子を見送る。
そのうちに、ぽつりとした店員の声が聞こえた。
「なぜか噂になってるみたいですね……」
「そうらしいな……そのような本、仕入れた覚えはないのだが」
店内を走り回るなと注意することも忘れて呆然と呟きあう。
しかしそれもその一言ずつで終わり、あとは静寂を主とした、特に魔界的な忌まわしさを際立たせようとしているこの魔本堂に似つかわしくない喧騒が縦横無尽に駆け巡るだけになった。
それを聞きながら、コンパティも含めた書店に関わりのある者は三人とも、発すべき言葉を見出せないでいたが……やがて一人が閃きに声を上げる。魔本堂に勤める若い男の店員だった。
彼は指を立てながら、女の方に自らの名案を打ち明けた。
「店長、これはチャンスかもしれませんよ!」
「チャンス?」
「噂になるってことは、ちょっと卑猥な表紙の魔道書を置いておけば売れるってことです!」
この思いつきに、女の方も感心して手を打った。
「奴らのエロ思考を逆手に取るわけか。バイトもなかなか商売人らしくなってきたじゃないか」
先ほどの立案までも自分の教育の賜物だといわんばかりの顔で、満足そうに頷く。
しかし男の方も慣れた様子でそれをあしらうように、切り返して告げた。
「これでいつ店長がいなくなっても大丈夫ですね」
「バイト、まだそんな野望を持っていたのか!? この店は私のものだ、誰にもやらんぞ!」
焦りを含んで驚愕し、抗議に身を乗り出す女。言葉通り我が物である強調して、またそれを守り通さんとしてか、レジを覆うようにしがみつく。
一方で男は冗談めかした余裕の笑みを浮かべ、ぱたぱたと軽く手を振って彼女をなだめた。
「わかってますよ。それに店長がいなくなるのは、俺としても――」
「なんだ? やはり私の店主としての才を崇拝しているのか?」
「あぁ、いえ……なんでもないです」
肩をすくめて言葉を濁すと、視線を逸らす男。その真意は、コンパティのいる位置からではいまひとつ把握し切れなかったが――
彼らはそんなことより表紙を作り変える話に戻ると、早速作業に取り掛かり始めた。
恐らく先ほどの集団が淫靡な本を見つけ、購入して帰宅した頃には、卑猥魔道書のコーナーが誕生していることだろう。
「くそ! 人の策を奪いおってからに……盗作書店め!」
口惜しく歯噛みしながら――しかし彼は同時に、閃きを得たことへの満足感も覚えていた。
急ぎ書棚の隙間から抜け出したのは、そのためでもある。もはや魔本堂に留まる必要はない。
コンパティは作業に没頭する店員たちに内心でいくつかの罵倒を浴びせかけながら、隠れるようにひっそりと店を出て行った。
店を出て行ってしまったため――その後に交わされた二人の会話を聞くことは出来なかった。
それは扉がそっと閉められた頃。そういえばと思い出して、クエストが疑問を投げかける。
「結局、これも妨害工作だったんでしょうか?」
「だろうな。中年オヤジの倫理観が裏目になった、というところだろう」
ネイジは何気なくそう告げた。が、クエストから驚きの声があがることはなかった。
かといって、明らかに犯人をほのめかす彼女の供述を聞き逃したわけでもない。ただ最初から感付いていたことを明らかにし、残念がるように肩をすくめた。
「やっぱり、コンパティ書店の人ですよね」
「なんの変装もないので、単なる敵情視察かと思ったんだがな」
店主は拍子抜けというより、呆れた様子だった。まさか気付かれないとでも思っていたんだろうか、と。
クエストもそれに同調しながら、推察を口にする。というより、それは確信だったが。
「だとすると、今までの犯人も全部――ですよね、きっと」
「こんな馬鹿げたことをする馬鹿が何人もいてたまるか」
コンパティの行った残忍な謀略をほのめかす脅迫から危惧されるような致命的な誘拐や襲撃に比べれば、実際に彼のしでかしたことなど妨害工作と呼ぶこともおこがましい、単なる子供の悪戯だろう。
そのおかげでネイジの熱はすっかり冷めていた。嫌がらせにしても、この程度の相手ならば金儲けの障害にもならないだろう、と。
「まして結果的には客を呼び込む手伝いになったわけだし、今回は見逃してやるとしよう」
そんな話を――仮にコンパティが聞いていれば、よほど悔しがっただろう。あるいはそのせいで、もっと致命的な、そして店同士の小競り合いの度を越した復讐を考案したかもしれない。
しかしその頃、彼は既に駆け足で我が店、コンパティ書店へと帰還してしまっていた。
ネイジたちの話など知る由もなく、意気揚々と事務室に駆け込み、扉を閉め切る。誰もいないことを確認すると、コンパティは予備のために用意していたいくつかのいかがわしい本の表紙を取り出し、急ぎその複製に取りかかったのだ。
主任の女店員の呼びかけにも「入るな」とだけ告げ、対抗心と執着心でかじりつく作業を終えたのは、閉店時間の頃。
コンパティは他の店員を帰してから店に残り、完成した表紙を店内の本へ装着させていった。
これで数日後には魔本堂ではなく自分の店が話題になり、劣情を持て余す客がこぞって押し寄せるだろうとほくそ笑みながら。
……無論のこと。
実際の数日後には苦情が殺到し、良心的な客を離れさせる結果に繋がったのだが。
そして反対に魔本堂では、日の下を嫌い大罪を好む卑屈な吸血鬼じみた客が押し寄せ、コンパティ書店の小規模のオカルトコーナーに多大な影響を及ぼす可能性がなきにしもあらず、という噂が聞こえてくる。
コンパティは店の事務室で、全体的に目減りした売り上げの報告を確認しながら、今までにない怒りを露にしていた。
手にしたペンを握り潰しながら、机が壊れない程度にドンドンと腕を叩きつける。
そんな怨嗟の旋律に調和して、彼の口からは呪いの声が漏れていた。
「我がコンパティ書店にこれほど陰湿な罠を仕掛けるとは、魔本堂……やはり悪魔の巣窟め! こうなったら、最後の手段だ……!」
――結局のところ。
あの時に二人の会話を聞いたか否かに関わらず、彼の中には禁忌を犯してしまうほどの執着心と、劣等感が根付いていたということだろう。




