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「いらっしゃいませー」
「これで早くも九人目の客か。あと一人来れば新記録達成だな」
その日。魔本堂の入り口をくぐると、そんな声がコンパティを出迎えた。
黒のコートは着ていない。ましてコンパティ書店のエプロンも身に付けていない。今はただ、灰色のスーツ姿だった。
そのおかげか、男の店員もなんら警戒する様子はなく、コンパティは悠々と店内を進んでいく――いやいや、彼と対面するのはこれが初めてだ。なにを警戒されなければいけないのか。
「今日はいつになく順調な客入りだな。今朝は妨害工作もなかったんだろう?」
「ええ、まあ。あんな脅迫状のあとなので、なにをされているかと心配したんですけど……」
「私の邪魔さえしなくなれば、なんでもいいがな。案外、ゴミをぶちまけるのが趣味という変質者だったのかもしれんぞ」
「まあ……世の中には不思議な趣味の人がいますからね」
「…………」
最後の沈黙は、コンパティ。彼がレジの前を通り過ぎる時、憎き魔本堂の店員がそんな話をしていたのが聞こえ、奥歯を噛み締め口を開かないようにと努めたのだ。
その代わりに心中で反論する。本来ならば今朝もゴミを撒いてやるつもりだったが、「来店時はゴミが散乱しているが、店を出ると綺麗さっぱり消えている怪しい本屋がある」という評判を耳にして取り止めただけだ、と。
――いやいや、そうではないかと推測しただけだ。なんのことやら。
「ふん、まあいい。今日は元々、違う作戦を用意してきたんだ」
未だ変質者の推測で盛り上がる二人から離れたところで、忌々しく独りごちる。
コンパティはその新たな作戦を実行するに最適な場所を選ぶため――また敵情視察を兼ねて、そのまま店内を見て周り始めた。
三階建ての店舗。一層はどうやら全てが魔道書を自称する、いかにも疑わしい本で構成されているらしい。二層目も同様の類だが、手記や資料的な物も含まれ、煩雑になっていた。三層目はさらに多種多様で、一般的な新刊や新古本の類も一通りが揃えられている。
その階層だけでも、ひょっとすればコンパティの店に匹敵するかもしれない。冊数や、さらに細分化された一部の書籍はともかく、主立った本はここで手に入れられるように思える。
コンパティはそれらをひとしきり見て回ると、一階に戻り呆然と店の天井を見上げた。
そこに描かれた、不気味に浮かび上がる謎の模様をしばし見つめてから……苛立たしく頭をかきむしる。
「くそ! 本屋の良さは種類の豊富さじゃない! いかにしてお客様に気持ちよく買い物をさせるかという心だ! こんな広さと数だけで客を騙そうなどとは卑怯な!」
口の中でそう喚いてから、ぎりぎりと奥歯を噛み締め、隠れ潜むようにしている本棚から顔を覗かせる。
店の入り口近くではまだ店員の二人が話をしている――かと思ったら、女の方は厳しくなにやら言い渡したかと思うと店の奥へ引っ込んでいき、男がレジに座るだけになった。
長大な奥行きを持つ店の、しかも書棚に隠れながらなので声は聞こえないし、男の表情も見えはしなかったが、大げさに肩を落とすのが見える。疲弊することでもあったのか。
しかしどうあれ、これで店内を歩き回る店員はいなくなった。それはコンパティにとって、そして今から行おうとする作戦にとってこの上ない幸運であろう。
彼はなんの警戒をされることもなく、ただ広大さに感心しながら店内を歩き回る客を演じながら、出来る限り入り口に近い、しかし店員からは死角になる本棚へと移動した。
そこで誰も見ていないことを確認すると、彼は懐から本――いや、本の表紙らしきもののみを取り出した。
それは明らかに魔道書とは異質なもの。荘厳で陰鬱な古書の表紙とは正反対と言ってもいい。描かれているのは女性の似姿。それも過剰に男の劣情を掻き立てるような、卑猥な代物だった。
彼は陰湿な笑みを浮かべ、誰にも聞こえない忠告を発する。
「店は巨大であればいいというものではない。重視すべきは適切な広さだ。手に余る店を持てば、こうなることも思い知るがいい!」
コンパティは魔本堂の書棚からも本を抜き取ると――しばしそこから目を離した。
するとどうだろう、なんと魔道書が一瞬にして、ピンクを貴重とした誘惑的なものに変貌したのだ。これにはコンパティも驚いた。恐らく無闇に店舗を肥大化させた悪徳商人への天罰だ。
天罰ならば仕方がないと、彼はその本をそっと書棚へ差し戻す。
そしてレジの方をちらりと覗き込み、店員がなんの警戒もなく魔道書らしき書物に熱い吐息を漏らしているのを確認すると、コンパティは怪しげに笑うとこの作業を――いやいや、天罰が下るように祈りを捧げた。
その一途な願いが聞き届けられたのか。しばらくすると古めかしい魔術的な書棚の中に、不釣合いなピンク色が散見されるようになった。不思議と、彼がなんとなく持ってきていた卑猥な本の表紙はなくなっていたが。
ともかく彼は、これらを客が手に取りやすいよう棚から半分ほど引き出しておくことにした。競争相手の本を取りやすくするなど、なんという器量の大きさだ――と自賛しながら。
もっとも、その賞賛とは正反対のような声音の呟きが漏れ出てはいたが。
「ふふふ……これで魔道書を買いに来た客は、『こんな卑猥なものはけしからん』と怒り出すに違いない。そうなれば店の評判はガタ落ちだ!」
己の思い描く、忌まわしい敵対書店の末路に、思わず頬が緩んでくる。
そして計画――もとい天罰の下る様を見終えたコンパティが、その棚から隣の列へと離れた頃、十人目らしい来店があった。常連客ではないらしく、きょろきょろと店内を見回しては感嘆の声を上げている。
おかげで魔本堂に対してさらなる憎さを覚えたが、それほど入れ込む客というのは、むしろ好都合でもあった。
彼はそのまま、じっくりと堪能するように書棚の列をひとつずつ眺め始める。そうして……裁きを受けた書棚の前へとやって来た。
やはり彼は異質に散りばめられたそれらの本に興味を惹かれたらしく、一冊手にとって――
驚愕すると、本を持ったままレジへと駆け込んでいった。




