10話 はじめて言われました
丸い小さなテーブルを挟んで向かい側に座り、私の手を握るルーイ・ルー。
仕事帰りなのか少しくたびれたスーツ姿だが、様になっているのはイケメン補正だろうか。
彼はにこにこといつも通りに楽しそうな表情で私を見ている。
カフェの店員さんが水とメニューを持ってくる。
彼は片手は私の手をつかんだまま、メニューを受け取って開いた。
見る時くらい手を放せばいいのにと私はいつものように思う。
「スイナさん、今日は何にしましょうか?」
聞きながら私の手をもむのも止めてほしい。
このセクハラ星人め…と思うが、あまりにも楽しそうなので言うに言えない。
別に減るもんでもないし、楽しいならいいかなと思ってしまうのはいつもの事である。
「スイナさん」
ルーイ・ルーの開いたメニューを見ながら考えていると、ふいに耳元で声がした。
振り返るといつの間にそこへ移動したのか、ルーイ・ルーが私を真剣に見ていた。
何だろうかと姿勢を直して彼の方を向くと、ゆっくりと彼の顔がゆっくりと近づいてきた。
「ちょ、ちょっとまっ―――」
がばりっ
…と効果音が付いたのではないだろうかという勢いで、私は飛び起きた。
「―――ってええええええええええええええええええええええ………、あれ?」
あまりの驚きに絶叫してしまったが、ルーイ・ルーは目の前はいないどころか、誰もいない。
ここはどこだと見回すと、見慣れぬ部屋の中だった。
テレビで見た高級ホテルのスイートルームに使われていたような感じの上品な壁紙に、古いが大切に使い込まれてるのがわかるアンティークな家具の数々。
飛び起きた私が寝ていたベッドも、豪奢な天蓋がついていて、大きさも私が10人以上寝れそうだ。
とりあえずベッドから降りようと手をつくと、白い花のレースがついている見たことのない袖口が目に入った。
あれ? と思って自分自身を見下ろせば、白いかわいい長袖のワンピースのような寝間着を着ている。
意味がわからない。
ここはどこだ、私は影羽粋菜30歳独身。
…うん、大丈夫。頭はしっかりしている。うん。
たしかえーと、魔法の才能がないと言われて部屋に戻って、市橋嬢と鳴海嬢は天使で、ルーイ・ルーの実家へ行く準備を……ああ。そうだ。誘拐されたんだったっけ。
寒い部屋に居た気がするんだけどと思ってもう一度部屋を見回す。
壁と天井には壁紙が貼ってあるし、床には草色の絨毯が敷き詰められていた。
寒くないどころか、むしろ暖かい。
本当に一体何があったんだと、首をひねり考えていると、コンコンとノックする音が聞こえた。
カチャリとノブを回す音がして、扉が開き、女の人が部屋へ入ってきた。
「……あら、巫女さま! 目が覚めましたのね」
鮮やかな黄緑色の髪三つ編みでまとめた、深い森のような色の目をしたその人は、私に気付くと少し驚いたようだったが、すぐに花の咲くような笑顔でそう言った。
この世界は美人さんが多いのだろうか。サシャさんといい、王女といい、この女の人といい、美形揃いである。ルーイ・ルーたちも美形だったしなぁ…と思うと同時に夢で見たことも思い出してしまう。
いやいやいや。ないないない。セクハラ星人だし、変態だし、そもそも平凡な私がイケメンと付き合うとか天変地異でもない限りありえないありえない。
ついうっかり想像してしまい、鳥肌が立ってしまった。本当にありえない。なんだあの夢は。
女の人はそのままタンスの前へ行き、中からタオルと紺色の服を取り出して、私へと差し出した。
ついつい受け取ってしまったが、これは着替えろという事だろうか?
「汗はしっかり拭いて、そのワンピースに着替えてくださいましね。ぶり返しては大変ですもの」
一人で出来ます? お手伝いしましょうか? と続けて聞いてくる女の人の言葉に、私は目を丸くする。
「ぶり返す…?」
「ええ。酷い熱で巫女様は3日もうなされていましたのよ?」
「…え! 3日もですか?」
「ええ。本当に熱が下がってよかったですわ」
女の人がにこにこと頷いている。
3日寝込んでいたという事に驚いた私は少し呆然としてしまったが、心配そうな声で女の人が本当に大丈夫ですかと顔を覗き込んできたので、とりあえず着替える事にした。
☆ ☆ ☆
私が着替えたのを確認すると女の人――レイリン・リースという名前らしい――は部屋を出て行った。
そして、5分もしないうちに湯気の立ったカップを持って、戻ってきた。
「巫女さま、お身体の具合はいかがでしょうか?」
小さい顔をくいっと傾げながら、そのカップを私へと渡す。
カップは温かく、お茶のようなものが入っていた。この世界へ来てから毎日飲んでいたあの不思議なお茶とは少し違う色をしている。違う種類なのかなぁと思って口に含むとほんのりと甘く、おいしい。
「…大丈夫です、ありがとうございます」
ほっと一息はいてお礼を言うと、レイリンさんは楽しそうに笑った。
何か変な事でもしただろうかと首を傾げれば、レイリンさんはうふふと口に手をあてる。
「メフィトーレス様の顔を思い出しましたの」
「…? それは誰ですか?」
知らない名前に私が聞き返すと、レイリンさんが返事をする前に、バタンと大きな音がした。
驚いて振り返ると、見覚えがあるようなないような……黒に近いほどに暗い青のマントを羽織った鈍い銀色の全身鎧の人が立っていた。腰に私の腕より太そうな剣を提げたその人は、私を見ているようだ。
「…起きたか」
聞こえた声は低いバリトンの、男の人の声。
レイリンさんが「メフィトーレス様!」とその全身鎧の彼に向かって話しかけていたので、彼が噂のメフィトーレス様なのかと心のメモ帳に一応書いておいた。
彼はいくつかレイリンさんと言葉を交わし、そのままつかつかと私に近付いてきた。
「…ええと?」
近くで見ると…見上げると言った方が正しいか。
2メートルを越えていそうな高い身長に、日本製のシングルベッドの横幅で、全身鎧を着た大柄な、その威圧感のすごさにビビりつつ、それでも私に用事があるようなのだから、無視するわけにもいくまい。
こわいけど。すんごい、こわいけど。
「巫女よ、名前は何という」
「あ、えと、影羽粋菜です」
「なるほどスイナか」
一体何がなるほどなのかとか、巫女じゃないんだけどとか思ったが、口には出さない。
この人がこわいというのもあるが、巫女目的の誘拐だったっぽいので巫女じゃない事を言えば私の身が危ないと思うし。
メフィトーレス様とやらは何度か頷くと、私と視線の高さを合わせる様にその場に膝をついた。
兜の隙間から見えた彼の瞳の色は、レイリンさんにそっくりな深い森の緑色をしていた。
「ではスイナよ。私の嫁になれ」
「……は?」
その緑色の目と私の目が合うと同時に言われた言葉の唐突さに、私は間抜けな声で聴き返していた。
今ちょっと、この30年間一度もリアルに聞いたことのない言葉が聞こえた気がしたのですが。
「嫁だ、嫁。言葉は伝わっているのだろう? スイナ、私の嫁にこい」
幻聴ではなかったらしく、男は嫁に来いと繰り返す。
思わず頬をつねってしまったが、しっかり痛い。夢じゃない。
影羽粋菜、彼氏いない歴な30歳。
はじめて言われた求婚の言葉は、異世界の初対面の男の人から、でした。