路地に駆け出す
易者がいる。
終電間近の最寄り駅のガード下と交わる交差点の一角。電球の切れかかったスナックの看板から、斜め下へ向けて横顔に薄ぼんやりと光を差され、路上に設置した簡易な卓上のレトロな蝋燭行燈から暗い光を下顎に受け、彼は座っていた。
10年前、特別に夢も無かった自分は、実家が農業を営んでいた事もあり、政令指都市とされた地元からミーハーな考えで都心の大学へ進学した。政令指定都市と定められた一部の市街を除くと、県の七割が土で覆われた所をだ。田舎を離れつつも、卒業後はUターンをして寂れつつある故郷の事業に貢献すべく、バイオ学を専攻した。喜ばしくも新しく出来た友人たちと酒を飲む楽しみを覚え、実家の農業を継がなくとも酒造メーカーや大手食品会社に就職が出来たら、と、また新たな道を画策するも、しばらく就職氷河期が続いた時代に運良く潜り込めたのは、自身は全く興味の無い、中堅の化粧品卸業者だった。
新人研修で営業に配属となり、自身の何が功を成したのか分からないが、先輩と足を運んだ数件の取引先に気に入られ、そのまま営業課に配属となった。
大学で学んだ技術を活かせる専門職につけなかった事は少なからず残念だった。反対に、営業には向いていないと思っていた自分がと小さく驚いた。
興味が無い分野には変わりなかったが、知識が無い事には務まらない。新人の頃は学生に戻ったかのように睡眠時間を削って商品知識を頭に叩き込み明日に挑んだのだが、今は同じように過ごしても、いつの間にか日をまたいでしまった時計を一瞥して、翌日を懸念しノロノロとパソコンを落とした時に画面に映り込む自分の顔は、学生の時と何ら変わっていない様ではあるが、近頃は簡単な感情をも浮かべる事を忘れてしまったかのようにのっぺりと輪郭をかたどっていた。
誰もが気だるい4月最終週の月曜日。ゴールデンウィークを目の前にした今朝は、更に追い打ちをかけて最悪だった。
ワンマン社長が突発的に、販売促進会議を行うとの社内メールを自席で確認する。
某アニメの虐めっ子がリサイタルを開催する、とふれ回るのと同じ。メールの宛先に入れられてしまったメンバーは、不参加を許されない。
静かに大きく鼻孔から息を抜き、スケジュール帳を確認する。
受話器を取り、先週アポイントメントを入れた朝一に訪問予定の得意先のナンバーをいつもより強くプッシュする。
ツーコール目で受話器の向こうから、相手が出た。今の季節に似通った、さわやかな朝の挨拶。
まだ目覚めきっていない、かすれ気味の声の自分の声を若干恥かしく思いながら事情を説明し、訪問時間変更を申し出たこちらに、少し困惑したような声で了承をもらう。今朝の相手が会社と会社間の長年の付き合いがあったので助かった。先方も現社長の人柄を把握していたので、時間は短くて済んだ。
受話器を置いて目を上げると、前の席の後輩が右手を後頭部に当てながら、申し訳ありません、と何度も見えない相手に頭を下げていた。
見渡すと周りも同じように受話器を握って頭を下げている数名が目に入る。
2年前、人格者で「人柄のみで切り盛りしている」と揶揄されながらも、一代で会社を立ち上げた先代が、心不全で急逝し、専務のジュニアがなし崩しに世襲してしまってから、時々歯車の軋み音に似た音が社内に響いている気がしている。
経営者と労働者、上司と部下、閉め忘れたデスクの引き出しのふとした隙間、そこかしこから。
大学の友人が趣味で時計を収集していたが、その中にアンティークの時計があった。
部屋に遊びに行くと、時折そのご自慢のコレクションを笑顔で見せてくれたものだった。
「コイツ最近、よく時間がずれるんだ。」
その時見せてくれたのは腕時計だったが、かなりの年代もので本当かはわからないが、どうやら使用してる歯車は全て人の手作りらしいとのことだった。有名メーカーでもなければ、高価なものでもないらしい。
彼が深い愛着を持っている事だけは存分に分かった。
きっとギヤの滑りが悪くなったんだ、と慣れた手つきで裏蓋を開け、キシキシ軽い音を立てている中身を見せてくれた後、彼は真剣な眼差しでオイルを注していた。
見積資料の作成中、目頭を抑えた時。
思いのほか長引いた電話を切った後、何気に手を頭に回した時。
ふとした瞬間に気づく、かすかに遠くで聞こえた音だったそれが、今、すぐ耳の後ろで鳴っているような錯覚を覚える。
面々が会議室に集まり、個々に資料が配られる。A4サイズの紙にテキストで箇条書きされた、おおよそ資料と呼べるか怪しいもの。
他の社員にはパワーポイント等での会議資料作成を強要する割には、彼自身はソフトがうまく扱えず、いや、パソコン自体の使い方も怪しいが、小さなプライドに縋って文明の利器を使用して作成する。肩をすくめてしまうほど膨大な時間を要して作られるのは常に簡素なテキストスタイルの資料だ。
新商品のサンプルが配られる。1人一個だ。
会議中にだけ手に取るだけでしかないなら、1人一個は無意味だ。室内には20名前後、参加者がいる。売上を上げたければ無駄を無くす、シンプルな思考に結び付けないのか?と言う疑問は彼が着任後の半年には、大半の社員があげた声をが届かない事を理解した。
サンプルは緑茶葉を使用したという、洗顔石鹸。無添加・無香料を掲げている割には、色はラベンダー色だ。なぜか仄かに無関係なメロンのような香りがする。
小学生の頃、夏休み、駄菓子屋で買った安いアイスを思い出す。
あの時、神社でブランコを漕ぎつつ行儀悪くアイスを一緒に食べた友人は、今はどうしているのか。
少年週刊誌に載っていた、ヒーローの必殺技を共に夢中で真似た。
今より暑さはきつくなかったが、眩しい太陽の下、セミの鳴き声、どちらも煩わしくはなかった。
ふとノスタルジックな思い出に浸るが、隣に座った数少ない女性社員が取り出した石鹸を汚らわしい物を触ったかのようにさっとデスク上に置いた事に現実に戻される。
軽く眉間に皺が寄っている。他の数名の女性社員も周りの反応を察し、不安気な顔をして取り出したサンプルをデスクに置いたまま、肩をこわばらせている。
サンプルを持った方の手を、恐る恐る嗅ぐメンバーも少なくない。
参加者の反応をどう捉えたのか理解に苦しむが、すでに商品を入荷し、今回の会議を決定した社長は朗々と声を上げて説明に入る。
無駄に良く通る声。ざわつく心。売上の望めない商品。
また、きしむ歯車の音を近くに感じた。
残念ながら、今期の夏期賞与はこの石鹸の売上も一端を担う事となった。
質疑応答の時には、眉に皺を寄せた隣の女性社員以外の社員からも取り扱う商品として疑問の声が上がったが、ジュニアはそれを感情を高ぶらせて押しとどめた。
「いかなる商品をも売って、売上を上げてこその部門だろう。」
無添加を前面に押し出しているにしては、直接肌につけるものなのに顧客に渡すサンプルがない。不自然な香り。茶葉を感じさせない色合い。
値段も含め、怪しげな商品を信頼してくれている得意先に渡せない。
女性社員とかジェンダーの違いではない疑問点をうやむやに、時間が来て会議は終わった。
詐欺をしてまで売上を上げたいのではない。情報があふれている昨今、もしもの際に社員を守れるのか、と言う自分を含めた「その他大勢」の声を、彼は時間を理由にシャットダウンした。
無意味な時間を過ごした事に辟易している者。それから解放されて安堵している者。
まだ慣れない、且つ内容のない会議に参加させられ、グッタリと肩を落とした男の新入社員の側に馴れ馴れしく寄り添い
「文句を言うのは簡単だ。しかしながら、そこを何とかして利益を出してこそ、一流だしな」等と軽く笑ってる社長を理解するのは不可能だ。
ウチの女房も使い始めて良いって言っているよ、との何の説得力もないジュニアの言葉に、新人の困惑した笑い声を背中に受け、鞄をかっさらい外に出る。
その女房とやらは月に数回、理由なく社へ顔を出すが百貨店で購入したであろう、高級メーカーの化粧品の袋を持っていることもしばしばだ。
年齢的な理由以外の肌荒れをコンシーラを駆使してカバーし、その上にファンデーションは薄付きに自然な感じで仕上げた、という自己流メイクの斑な顔をしている。
挨拶と今まで数回交わした簡単な立ち話程度の会話に、ウチの商品の話題が上ったことは無かったと記憶している。
例の商品を一応持っては出るが、その日の取引先には困惑をもたらしただけだった。
会社へ戻るのが無駄に遅くなり、日時報告書を書き上げるのにも時間がかかった。
毎日メール送信する、この日時報告も現社長は目を通しているかも怪しい。
時計は22時を目前にしている。
会社から独り暮らしをしている部屋までは一時間圏内だが、思ったより長く残りすぎた。
パソコンの電源を落とし、席を立つと、右斜め前の席の同期が頭を抱えているのが目に入った。真面目で実直な男だ。取引先のオーナーの一人娘がうちの商品で症状が改善されたと、最近話を聞いたばかりだ。
幼稚園で作ったらしい折り紙のプレゼントをもらった事を、嬉しそうに話していたのは、まだ桜が開花する前だったか。
彼の姿を見ていたのは、ほんの数秒だったと思う。
間近で歯車の音が聞こえたような気がして、ここから逃げ出したくなった。
フロアに残っているメンバーに聞こえるか聞こえないかのボリュームで、お疲れさんと声を絞り、ドアを開けエレベーターホールまで小走りで駆けた。
エレベーターのドアが開いて、乗り込む。閉まるのボタンを連打し、静かに閉まりかけたエレベータのドアの向こう側に、きしむ音の気配が近づいてくるのを感じた。
駅に着いた記憶はない。
電車に乗った記憶もない。
気づいたら、自宅の最寄り駅に降り立っていた。
無意識に部屋のある方の出口へゆらゆら歩いたらしく、ふと顔をあげたところで自分が今いる場所に驚く。
目の前に小さなバスターミナル。そこから少し離れた所にいるのであろうストリートミュージシャンの声とアコースティックギターの音色。
普段の帰宅時の風景が広がっている事に足を止め、我に返った。
24時が間近にも関わらず、不自然に明るい駅前のネオンの明かりに、喉元に詰まらせた思い出せない帰宅時間を紛らわせる。異空間に迷い込んでしまったかのように呆然としていたが、ストリートミュージシャンの何処かで聴いたような安価な歌詞と、メロディー。夜のにおい。
いつもの夜の喧騒に、日常に戻れた安堵を感じていた。
線路沿いのコンビニに寄り、少しのアルコールと自分の体の為と言い訳程度にサラダを買う。機械でカットされた野菜は、蛍光灯の下ではずいぶん無機質に見える。
店員のアリガトウゴザイマシタの声を背に、自動ドアを出る。
ここからは10分ほど。おざなりな夕食を手に、部屋へ急ぐ。
飲み屋は平日なのに賑わっているが、これも日常。
赤いネオンを薄暗く全身に浴びて小道と交差しているガード下を抜けると、あと少しで都内で唯一の自分の居場所に着く。
あと数メートルでガード下に差し掛かるその時、目に入ってきた人物。
マンネリ化した帰宅ルートだが、今まで易者などいた事があっただろうか?
いたのかもしれないが、風景の一部くらいにしか認識していなかったのだろう。
気づいて記憶に残っていても良さそうなものだ。
個性的な柄のシャツに、黒いジャケット。ボトムもジャケットに合わせた黒いパンツで長い足をそろえて軽く俯いて座っている。肩までの少し長めの黒髪に、ハンチング帽。スタイルの良い、若い男性だ。
それだけ自分の日常に気を回せて無かったのかもしれないが、今夜その人物は目に入った瞬間、足を止めてしまうくらいの存在感を放っていた。
止まってしまった足に、軽い疑問とやや重い疲れを感じてまた、踏み出す。
彼の前を過ぎれば、ガードのコンクリートが少し靴音を大きく反響させ、抜ければまた見慣れた帰宅風景に戻れる。
スナックから軽く漏れる、カラオケの音を意識しつつガードをくぐろうとした瞬間。
「不協和音が追ってきてますよ?」
声に再び、足が止まった。
見回す限り、路上には易者と自分しかいない。
自分の左側、少し下に彼を見下ろす形になる。
ぼぼっと音を立てて揺らぐ行燈と、香り高い香が薄く曇るその影、ハンチングに隠れて、彼の顔は見えない。
すぅっと周りの温度が下がった気がして、くるりと首だけ辺りを確かめる。
高架から漏れる、オレンジ色の光と、夜風のにおい。スナックから漏れるカラオケ。
不協和音?少なからず、今はぞわぞわと気分を害した、あの音は聞こえない。
易者に向き直る、なぜか客先で取る姿勢のように足をそろえていた。
「すみません、お声をかけて頂いたようですが、私は客にはなれません。」
失礼、と軽く頭を下げ視線をあげると、自分とは反対に、彼は顔を上げていた。
その面立ちに、違和感を覚える、唇が赤すぎるようだ。
薄くルージュでも塗っているような、マットな仕上がりで艶はない。
少しひるんだ、それを見切ってなのか、更に彼は声をかけきた。
「気づいてらっしゃるんでしょう?!キリキリと金属同士が擦れ合うような、あの音に。」
キヅイテ、の発音に合わせて、目を軽く見開き、彼は今度は確実に私を捉えて声を投げた。
頭上を終電が駆け抜けた。
キリキリキリキリ。
頭痛?!いや、痛みは感じない、音が少し遠くで響く。
それを理解してしまい、コンビニのビニール袋が手からこぼれそうになる。
なぜ、ここで?会社以外では聞こえていなかったはずのあの音が?
「以前も、音に追われた方がいらっしゃいました。」
心臓が軽く駆け足を始めたが、こちらの様子を少しも気にかけず彼は言葉を紡ぐ。
するすると蜘蛛が糸を吐き出すのに似ている感覚。
彼の口から発せられている言葉が、足をからめとるようだ。
動けない。
「あの音は身近に迫る崩壊を告げる音なのですよ。」
お気づきなのでしょう?
何気ない日常でふいに聞こえ始めた、どこかで聞いた不安な音が、何かの拍子でその人を捉えるんですよ。
とらわれた人は、たまったモノではないでしょうが、本質的に音とは優しい性質を持っていますからね。
その場合、危険を教えてくれているんですよ、実際は。
逃げて、逃げて。ここから逃げ出して、って。危険だよってね。教えてくれているんですよ。
気づく人は少ないですが、音としては必死ですよ、少なからず彼らの必死な囁きに気づいてくれた人は助けてあげたいんです。
ボボボッと蝋燭が低く燃えた。
流れる易者の声を、低く牽制するかのように思えた。
「申し訳、ありません。」
ゆっくりと易者は、見上げていた視線を、元の軽く俯いた姿勢に戻した。
「近づく音に、飲まれかけてしまったようです。」
さっきと違い、聞き取れるかのギリギリの音量で、彼は言った。
「その、あなたがおっしゃった不安の音に追いつかれてしまったら、どうなるのですか?」
思いがけず、易者に問うていた。
ふわりと風が、頬をなでる。
「分かりません。追いつかれた人を存じませんので。」
返答にユラリと視界が歪むように感じた。
「以前も音に追われた人がいるとおっしゃったではないですか。」
「その方は追われていたのです。追いつかれてはいませんでしたから。」
オワレテ、に微かに力をいれて、易者は俯いたまま、答える。
自分も足元へ視線を落とした。
スーツの下のワイシャツにしみていた汗を、ヒヤリと感じた。
失礼、と手に持っていたコンビニの荷物を卓上におき、ネクタイを大きく緩める。
もう少し、話を聞きたい気分と、早く帰ってシャワーを浴びたい気持ちとが混ぜこぜだ。
しかし、問わずにいられない一言。
「追いつかれなかったのですね、その方」
「・・・逃げられましたから、その方」
逃げた?
はい、ご自身の姿形を闇に紛らわせましたから
猫の鳴き声が聞こえた。
振り返ると、華奢な烏猫が易者と同じ瞳で自分を見ていた。
真っ黒な闇にまぎれたら判別不可能であろう姿を、今はスナックのオレンジ色の看板の光に
薄く輪郭を浮かべている程度。
黄色い目だけが印象的に自分と易者を捉えている。
「まぎれますか」
「?」
「あなたも、闇に逃げまてみますか?」
逃げることは防衛と同意である場合があります。
負けではありません。
退いた先でも、また自身の力量で切り開く人生が待っていますけれども。
香が薫る。
また、ぬるい風が横顔を撫でる。
易者の長めの髪も、風に揺らぐ。
にゃぁ、と烏猫が赤い口の中を見せて鳴く。
過去の日差しと熱、アイスの人工的なメロンの香り。
蝉の声。ヒーローの物まね。懐かしい友人と両親。
誇らしげにレトロな時計のゼンマイの音を響かせてもらった、あの時間。
人生の道しるべを定めなかった自分。
しおれたように卓上に置かれた、さっき買ったコンビニのビニール袋。
「闇に、逃げてみますか?」
易者の良く通る声。
近づく崩壊のきしんだ音。
落とした視線を上げられないでいる。
「私は」
また烏猫が鳴く。易者の唇の色と似た口腔を開けて。
キリキリキリキリ。
きしむゼンマイの音が近づく。
汗が更ににじんで、背中を丸め、両手と両目を固く閉じる。
目を開けたのは、そんなに時間が経っていない瞬間のはず。
そろそろと開けた目線は、だいぶ下から易者を見上げるかたちになっていた。
アスファルトが近く、卓上が見えない。
「私は」
声に出したはずが、鳴き声にしか聞こえない。
にゃぁん、と。
「さぁ、いきなさい」
すらりとした五指に喉元を撫でられ、認識する。
猫になったのだ。
背後から、さっきの烏猫の鳴き声が聞こえる。
「こっちにおいで」と言うように。
スナックの看板を背に、私は暗闇へと誘われるように狭い道へ駆け出す。
ああ、夜が明ければ今までと違う生活に追われるのだ。
キシキシと言う音ではない、新しい不穏に。
こうして、都会に猫が増えてゆく。