8話 寂しさを心は憶えている
巫女さんが里遠ちゃんを抱きしめて涙を流していた日。
あれから幾日が過ぎたのではないかと思う。
何故かは僕自身も判らないのだが、
時間に対する感覚がかなり鈍っているらしく、掴み取れない。
正直、どれだけの時間が経っているのかもよく知らない。
ただ、変化も無く毎日は繰り返されている気がしていた。
そんな繰り返しの日々の中で一つの変化に僕は気がついた。
「おにいちゃ~ん、あそんでよ~」
「ああ、別に構わないけど……」
さて、これだけで解るだろうか。
変化自体がかなり小さな範囲なので解りにくいと思うが、
いつの間にか僕に対する呼び方が変化している。
"旅人のおにいさん"とはもう呼ばれておらず、
"おにいちゃん"で完全に固定されている。
里遠ちゃんは気にしていないみたいだが……
僕としても、事の発端が何処にあったのか少し記憶が曖昧になっている。
今の里遠ちゃんは、僕に対する警戒心が相当薄れていると思う。
(そういえば、あれが発端なのかもしれないな……)
孤独の理由は知らないが、寂しい境遇に居たのだ。
僕や巫女さんに甘えてみても良いのではと思っていた矢先の事だった。
里遠ちゃんに頭を撫でて欲しいとせがまれたのだ。
その時の状況は覚えていないが、優しく撫でてあげたと思う。
それから、途端に呼び方が変化してしまったはずだ。
「おにいちゃん、どうしたの?」
「ん、ああ、ちょっと考え事をしていた」
「あそんでくれないの?」
前よりも積極性を強めた里遠ちゃんの攻勢に、
最近の僕はあっさりと従っている事が多い。
「そうだね、考え事は遊んだ後にすれば良いか。
外に行こう、その方が良いかな?」
「うんっ!」
暫くして、思いっきり遊んでご満悦な里遠ちゃんと、
少しばかり疲れてしまった僕は戻ってきた。
そして今、里遠ちゃんが僕にもたれ掛りながら寝ている。
最近、こんな状態になる事が多い。
信頼されている事も良く解るので、嬉しい物として取っている。
もたれ掛られているんで、里遠ちゃんはかなり小柄だと理解できる。
そして押し付けられている体の重さを考えても、小さい。
何せ、体重がとても軽いとしか表現できない。
「すぅ……すぅ……んんみゃぁ?」
軽く頭を撫でてやると、それに応じて寝顔が笑顔へと変わっていく。
「もっと……なでて……」
寝言か、実際に起きているのかは判らない。
ただ、少女はそれを求めてくれるから、
僕はほんの少しだけ気持ちを籠めて、応えた。
どうしてだろうか。
こんなに落ち着いた気持ちになれてしまうのは……
護りたいという強い気持ちこそ見えない状態ではあれど、
一緒に居ても面白いのではないかと思える気持ちが燻っている。
無かったはずの場所に、目的が埋まっていくかのようだ。
「いい子だ、ゆっくりと……お休み」
ふと、頭の中に思いついた言葉を掛けてみた。
暫くして、異変が起きる。
「みゅぅ……」
「ん?」
「ひとりは……こわいよぉ……」
寝言だった。
独りは、怖いという言葉。
僕はそれを一切聞き逃す事は無かった。
「いなく、ならないでぇ……」
それは、僕に対しての懇願なのかも知れない。
他には何があるか、あったとしても直ぐに思いつくものではない。
だが、間違いなくそれは、僕を引止める為の言葉。
人の殆ど来ない、来たとしても見知らぬ人間だけが来る地。
そこに来る誰かが相手してくれるとは限らない。
延々と独りきりで居なければならなかったのだろう。
だからこそ、興味を持ってしまった僕はここで留まっていた。
「おいて、いかないでぇ……
おねがい……」
僕がここに来るまで、里遠ちゃんはずっと巫女さんと二人で居た。
遊んでくれるのも、知ってくれているのも、
話し相手になってくれる相手も、いつもただ一人だけしかいない世界。
寂しいに決まっている。
「いいこに……する……」
里遠ちゃんに取れる手段は少ない。
だからこそ、この寝言は……
聞かされる僕の身に直に突き刺さってくる。
子供っぽさではなく、純粋に子供に近い存在。
見た目も、精神的にも間違いなくそれを持つ少女。
護ってもらえる誰かが居てくれない限り、
生きる事もままならなくなるかもしれない。
「おにいちゃんも……ももこも……
いっしょが……いいの……」
どんな夢を見ているのかは知らないが、
もしそれが本心から出てくる物ならば?
問う必要なんて無い。
この娘はきっと、一人きりになるのを本心では凄く怖がっている。
同じ建物の中に居るからこそ、その境界で辛うじて耐えているのだろうか。
それでも、誰かと居る方が落ち着いているのは間違いない。
「ずっと……」
少しだけ認識を改めなければならない。
里遠ちゃんは、僕が来た事を受け入れたのは……
僕が遊び相手になり、話し相手になってくれるであろう人間と思ったから、
懐かれ、頼られているのだ。
「ずっと……いっしょ……」
里遠ちゃんの目から、涙が零れ落ちる。
その姿を見て、僕は軽く頭を撫でてあげる。
寂しい事のないように。
そのまま僕は、本当は誰かと一緒に居たいと願う少女と一緒に居た。
その誰かになっているかもしれないと、薄々感付きながら。
「ん……んみゃぁ?」
「目が覚めたかな、里遠ちゃん」
僕は、里遠ちゃんの頭に手を置いていた。
それに気付いた里遠ちゃん。
「ずっと、なでてくれたの?」
「ああ、寂しそうだと思ったからね」
本当に、そう思ったからこそ僕は彼女の頭を撫でていた。
何となく、頭を撫でてあげたくなるのは何故だろう。
不思議な魔力のような物があるのかもしれない。
「ゆめのなかの、おおきなて……」
「ん?」
「おにいちゃんのて、だったんだ」
「なるほど、夢の中で見かけたのか」
「うん、こわい、こわいところからひっぱってくれたの」
「引っ張った?」
「ひとりで、さびしかった。
くらいところから、そとにだしてくれたの」
「なるほど……
その後は、暖かい場所にでも来たのかな?」
「うん、ここが、そうなの」
「そう、か」
その手は間違いなく僕の手で。
誰かを求める里遠ちゃんは、救われた。
「きっと、きてくれるとおもった」
「信頼されているんだな……」
「うん、だからおにいちゃんなの」
もはや、他人ではない。
その気持ちを籠めたくて、僕の呼び名は変わったのだろう。
里遠ちゃんは既に、僕がここの住人である事を認めているのだ。
ここに来た当事の、旅人のお兄さんではなく、
遊んでくれて、寄りかかって、一緒に居てくれるお兄さん……
不思議と、そう呼ばれるのが嫌だとは思わなかった。
「おにいちゃん、ありがとう」
「どういたしまして……」
「ふふっ……」
「そうだな、僕からもありがとうを言わせて欲しい。
旅人だった僕をここに留まらせてくれる目的を作ってくれて、ありがとう」
僕は正直、怖かったのだ。
記憶が戻ればここから居なくなると、自身で言った事に縛られていた。
その時は、何も無かったからそう言えたのだが……
今はもう、完全に違う。
少なくとも里遠ちゃんを見守る為だけにここに居る事を考えても良いかもしれない。
「もうすこしだけ、こうしてていい?」
「ああ、構わないよ」
頼られることが嬉しいのだと知ってしまった、今。
孤独の寂しさを、感じ取れるようになってしまった、今。
僕は僕で、一人が詰まらないと思いつつある、今。
もしかすると、僕もまた里遠ちゃんと似ているのかもしれないと……
そんな事を、薄っすらと思っているところがあった。
「あたま、なでて……」
「ほら……」
お望みどおり、僕は頭を撫でてあげていた。
そして、今まであまり見ていなかった髪を観察してみる。
「なかなか、良い髪をしてるな」
「みゅう?」
里遠ちゃんは理解できていないみたいだが……
とても美しい髪をしているのだ。
色は特に最高に美しく、巫女さんの髪色に近い色ではないかと思うほどだ。
改めて触れてみて、透かして見て、美しさが滲み出ていたことに気付いた。
何だろうか、里遠ちゃんの髪の毛って、こんなに綺麗だったのかと……
僕は少しだけ、驚いていた。
「んにゅ、どうしたの?」
「綺麗な髪だって、見とれていた」
「みとれていた?」
「思わず目が離せなくなった……
もう少し大きくなれば、美人になれるかもな」
「う……ありが、とう……」
不用意に口から零れた言葉で、里遠ちゃんは照れていた。
まあ、女の子にそんな事を言えば照れるのも当たり前だろう。
言ってしまったのを気付いて、僕も少し恥ずかしくなっていた。
その照れた心を誤魔化す為に、また少し彼女の頭を撫でてあげる。
「みゅぅ……きもちいいの……」
「喜んでくれて何よりだよ」
「でも……」
「ん?」
唐突に、僕の方を向いた里遠ちゃん。
その瞳は、確実に僕の瞳を捉えている。
多分、大切な事……
「ももこのことも、ちゃんとみてあげてね」
その一言に、僕は一瞬、何が起きたかと思った。
物凄い衝撃が、心の底から跳ね上がったかのような……
とにかく、何かが呼び戻されたかのような感覚に陥った。
「ももこも、さびしがりなんだよ」
「僕には……そうは見えないんだが」
少なくとも、里遠ちゃんのようにそれが表面に出ているわけではないので、
言われただけでその通りだと頷く事は出来なかった。
「きっと、そうだよ」
「僕にはまだ、判断できないな」
「だいじょうぶ、すぐにわかるとおもうから……」
確かに、長い時間共に過ごしてきたであろう相手なのだから、
色々な事をよく知っているのも不思議ではないと思う。
だからこそ、言われて初めて気付かされた。
僕は巫女さんの内側にある心や思いについて、どれだけ知っているのだろうかと。
「うみゅぅ……」
「おっと、また眠くなってきたのか?」
「ちがうよぉ……」
少し眠そうだが、否定されたならばそれを認めてやった方が良い。
「ここちいいの……」
「もう少し、このままでいるかい?」
「うん……」
時はゆっくりと流れ。
言葉は交わさずとも静かに心は交わされる。
「いっしょにいてくれて……ありがとう」
小声で呟かれた言葉を僕は聞き逃さなかった。
(礼を言うのはこちらの方だ……)
寝てしまった少女を起こさないように……
僕は心の中で礼を言った。
晩御飯の前になるまで一緒に過ごしていた。
僕の心の奥底には、罪悪感が少しだけ芽生えていた。
いつかは、ここから離れる日が来るのだろうか。
頼ってきてくれるのは嬉しいと思いながら。
この静かで平穏な日々が楽しいと思いながら……
その一方で、失った記憶を求めている。
見つかったならば、この場所を出る事も必要となるだろう。
里遠ちゃんのように、平穏な日常に身を置いて、
そこに護られて生きているわけではないのだ。
心の奥底では、本当は僕はここに居てはいけない人間ではないのかと、
常に自問自答している。疑念が晴れてくれない。
里遠ちゃんも、巫女さんも。
二人とも、僕の事を何も疑わずに接してくれている。
それが嬉しくもあり、苦痛に感じる時もある。
特に里遠ちゃんはとても純粋な気持ちで居るのだろう。
その分だけ、僕の心には大きな戸惑いが作り出されていく。
偽らなければならなくなる日が来ないことを、祈りたかった。
そんな気持ちを悟っているのだろうか。
夜になり、僕の部屋を巫女さんが訪ねて来た。
里遠ちゃんは既に寝ていると思う。
少なくともこの部屋に居ないことは確かだった。
「随分と懐かれていませんか?」
「巫女さんには、そう見えますか」
「呼び方が変わっている時点で、十分に懐かれているのではないでしょうか」
「確かにそのとおりですね」
そこまで答えると、巫女さんの目が真剣なものになった。
「十二分に教えておくべきでした。
怪しい方とは話してはなりませんと……」
そして僕の事を少しばかり睨み付けてきた。
内心ではまだ信用し切れておらず、警戒している。
それを態度として僕に向けていたのだった。
「なるほど、確かに間違いではない。
外から来た怪しい人間には違いないのだから」
「自覚は薄れていないのですね」
「簡単に薄れるものでも無いでしょう」
「今のところは、それで構いません」
今のところは……とあえて言うのならば、
何か考えがあるのだろう。
「話し方、物事に対する姿勢、態度……
あなたの心の中の優しさは、
あなたが思っている以上の物かもしれません」
「僕自身ではよく解っていない。
人からどんな感じで思われていたかについて言葉としてどう受けていたかの記憶がありません」
「そうですね、確かにその通りです」
「それで……」
巫女さんは少し俯いていた。
「いろいろな面から見て、疑わしいことは多いのです。
ですが、あの娘への接し方だけは本物なのでしょう」
「そんなに褒められるような事をした覚えは無い」
「私から見れば、十分に素晴らしい行動と思えます」
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそあの娘の面倒を見ていただいている以上、
こちらこそお礼をしなければならないのです」
巫女さんが僕に軽く頭を下げた。
こちらも、軽くそれを返させてもらった。
純粋に褒められるのは嬉しい。
善意の行動を褒められるのならば尚の事嬉しい。
「どうやら僕は、誰かに褒められた記憶もあまり残っていないかもしれません」
「思い出したのですか?」
「あくまで、直感として思った程度ですが……」
「それでも、何かを感覚として覚えているのは良い事です」
「確かに。全く手掛かりが無い状態から考えるよりも、
何かが手掛かりとしてある状態から考えた方が記憶も戻りやすいかもしれない」
しかし、しかしだ。
口ではそう思ってはいるが、内心は違う。
この程度の事しか覚えていないとなると、
全貌を明らかにするには相当時間が必要になるのではないかと……
そんな考えも、頭の何処かで燻っていた。
「それでも、諦めずに考えてみるしかありません」
「確かに、巫女さんの言うとおりですね」
巫女さんが軽く頷き、僕も返すように軽く頷いて、語る。
「巫女さんは、里遠ちゃんを褒めた記憶はありますか?」
「あまり詳しくは覚えておりません。
全く褒めた事がないとは思っていないのですが……」
「その辺りの記憶は互いに曖昧になっているわけですね」
「はい、その通りです」
何故、と思う事も必要だが、
現状がどうなっているかも大切だと思う。
「時間の流れが原因ですか?」
「そうなのかもしれませんが、断定する事もできません」
「なるほど」
僕は僕で、それが仕方の無い事と割り切らせない方法を考えていた。
何も残らずに忘れて消えてしまうなんて……
子供に近いであろう里遠ちゃんの側が忘れているのだから、
尚の事深刻にならねばならないのではなかろうか。
「心配だと思ったとしても、
私には解決する方法が思い当たらないのです」
「確かに、同じ症状の中にあるなら難しいですね」
つまり、危機として捉えられるのは自分しかいない。
「僕は僕で、似た事が起きていないかを見ていたいと思います」
「はい、是非ともお願いいたします」
巫女さんは軽く一礼をした。
僕は……正直、背負ってしまった事を悩んだ。
この不思議な現象に立ち向かうのは、簡単では無さそうだ。
随分と夜も遅くなりつつあったが、
まだ話をしたいと思う事はあった。
しかし、明日に影響が出ては不味い。
「軽く話していたと思っていたのですが……」
「時間も時間なので、そろそろお開きにしましょうか。
僕よりも、巫女さんの方が心配です」
「はい、心配していただきありがとうございます」
珍しいやり取りだと……思った。
不意に、そんなやり取りが交わされていた。
「それでは、また明日」
「はい、おやすみなさい」
巫女さんはそう言うと、僕の部屋からゆっくりと離れていった。
一人の部屋。
孤独な世界だと思っていたのに、今はあまりそれを感じない。
過去の僕は、この孤独ではない状態を知っているかもしれない。
(例え、記憶として覚えていなくとも……)
行動の一つ一つが、言動の一つ一つが本来の僕を覚えているのは間違いない。
だとすればそれは、一体どれだけ残っているのか。
性格、行動、言動、癖、その辺は全て残っているのかもしれない。
自覚があるのは、身体能力の部分に関する所までだ。
(足りていないのは、記憶だけしかない)
ここに至るまでの記憶だけが完全に存在していない。
生きてきた事を示す記憶が一つも頭の中に残っていない。
孤独であった事も、心のどこかで知りえていたというのに。
里遠ちゃんも、同じなのではないかと思った瞬間があった。
本人に聞いても理解していないと思うのだが、
僕自身の直感として、そんなことを思ってしまった。
反対に巫女さんは……
(一番の謎であり、一番の鍵)
何かを知っているとしか思えない。
それが手掛かりなのかは判らないが、重要な事を色々と知っているに決まっている。
しかし聞き出せない、踏み込めばやんわりと逃げられてしまうだろう。
だけどそんな姿を里遠ちゃんは見て、知っていたのだ。
だから僕に巫女さんをちゃんと見て欲しいと言ってくれた。
どれほどの悩みを抱えているのかは知らないが……
もし話してくれたときは、僕は部外者として関わる事は出来そうにない。
これだけ手助けをしてもらっているのだ。
僕は僕で、何かを返せる物があるならば返してあげたい。
特に、役に立てる形で返せるのならば非常に嬉しい。
問題は本当にそんな風に動けるかどうか。
役に立とうと立ち上がっても補佐できねば意味が無い。
(記憶が戻ったとしても、ここには暫く居ようか)
既に愛着のような物がそこにあった。
何となく、ここを離れたくないという気持ちが生まれていた。
それは、二人の姿をもう少しだけ見ていたいと思う心。
それは、僕自身がここでどんな変化をするかを楽しみにする心。
いつの間にか日常になっていく。
夜更けの空を眺めて、月明かりを浴びるのも。
星の瞬きを見て、思いに馳せるのも。
その星の瞬きも、思えば相当美しく感じるのは何故だろう。
この場所の空気は良く澄んでいるだろうか、
それとも天に近い場所に居るからなのだろうか……
(確かに……そうなのだろうな)
これだけ美しい空ならば。
空を見上げて何かを考えてみたくもなるし、
空に向かって何かを祈りたくもなるだろう。
この空には、そんな魔法のような力があるのかもしれない。
流れ星のように記憶が降って来るのならば、
これほど楽で楽しい事は無いのではと思うのだが……
世の中はそんなに甘くなど無い。
「はぁ……」
僕は軽く溜息をついて……
今日見たこの風景の事を頭に思い浮かべながら、寝る事にしよう。