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未来屋 環純文学・お仕事系作品集

黄色い花が咲く夜に

作者: 未来屋 環

 ――長い冬が続いても、命芽吹(めぶ)く春がいつかは訪れるように。



 『黄色い花が咲く夜に』/未来屋(みくりや) (たまき)



「――あ。名前似てるね、私たち」


 目の前でほわっと(ほころ)びるように笑みが咲き、僕は思わず言葉を(うしな)う。

 それは昼下がりの教室での出来事(できごと)だった。

 長い受験戦争を勝つか負けるかして辿(たど)()いたこの場所で、僕たちは向かい合い自己紹介をしている。

 彼女の胸に飾られた無機質なプレートには、身に(まと)う雰囲気そのままに角の無い字で『中村 綾芽(あやめ)』と書いてあった。

 自分の胸に目を落とせば、『中野 凌牙(りょうが)』という猛々(たけだけ)しい名前が居心地(いごこち)悪そうに(たたず)んでいる。

 それを確認してから、僕はもう一度彼女に向き直った。


「……似てる?」


 彼女がふふっと小さく笑う。

 透明感のある笑みを浮かべながらもその吐息は(わず)かに(つや)めいていて、男子校育ちの僕を揶揄(からか)うように空気中へと溶けていった。


「ほら、一文字目は右半分一緒。二文字目は私が帽子をかぶってるけど」


 僕はまじまじと彼女と自分の胸に刻まれた計四文字を見比べる。

 確かに言われてみれば似ていなくもない――いや、それよりも僕は目の前の彼女が『綾芽』のイメージそのものであることに密やかな感動を(いだ)いていた。

 まっすぐ肩まで伸びた髪はきっと生まれた時そのままの黒さで、白く透き通る肌と共に気品すら感じさせる。

 ()の同級生に比べ幼く見える顔立ちは、まるで生まれたての新芽のようだ。

 化粧っ気のない顔と胸を控えめに彩る星型のペンダントが彼女の纏うイノセンスを更に加速させていた。


 その佇まいは『凌牙』と名乗りながら凡人で抜かれる牙すら持たない僕とは雲泥(うんでい)の差で――終着点の見えないいつもの自己嫌悪に陥り始めたその瞬間(とき)、「凌牙くん」という甘やかな声が僕を撃ち抜く。

 我に返った僕の()に、綾芽の真剣な表情が映った。


「私、東京に出てきたばかりなの。だから、私と友達になって」

「……え、僕?」


 想定外の言葉に思わず問い返すと、彼女は力強く(うなず)く。

 その底に眠る真意を測りかねつつ、断る理由が見当たらない。

 結果、重苦しく頷き返した僕を見て、彼女は「よかったぁ」と(かろ)やかな笑みを浮かべた。



「東京は人がいっぱいいてすごいね。皆どこに行くんだろう」


 渋谷のスクランブル交差点を見下ろしながら、僕たちは向かい合いコーヒーを飲んでいる。

 どれだけ人がいたとしても彼らとは人生で一度すれ違うかどうかの間柄で、すごいなんて感じたことは一度もなかった。

 ただ純粋な彼女の感動を(けが)したくなくて、僕は一言「どこだろうね」と答える。


 綾芽は東京より寒い街から上京してきたばかりだという。

 東京郊外の街で生まれ育った僕には何の思い入れもないが、彼女にとって渋谷はあこがれの場所らしい。

 夕方の天気予報で映し出されるものと同じ光景を「本物だ……」と綾芽は熱心に見つめている。

 もしかしたら僕と綾芽の()ている世界は違うのかも知れない――そう思えてしまうくらい、彼女の瞳はきらきらと輝いていた。


 ――いや、明らかに違う世界の住人だろう。

 現役ストレートで志を成し遂げた綾芽と、一浪してもなお目標に届かずここに流れ着いた僕。


 今年の3月、僕はカーテンで閉め切られた暗い部屋の中で煌々(こうこう)と光を放つディスプレイを眺めていた。

 東大の合格者を発表するその画面上に僕の分身はおらず、人生で何度目かもわからない挫折にただ打ちひしがれるしかなかった。

 誰かに誇れる才能も皆を惹き付ける魅力も持たない僕は、日常を生き残るためただひたすら勉学に打ち込んだ。

 逆立ちしたって手に入れられない夢と違って、勉強は僕を裏切らなかった――少なくとも、高3の3月までは。


 再起をかけ浪人した末に迎えた今年の春も、1年間研ぎ澄ましてきたはずの唯一の武器は無残にもへし折られた。

 これまで積み重ねてきた艱難(かんなん)の日々はただの徒労だったと、その白々しい画面に突き付けられた僕はこの大学に入り――そして今、目の前には(まぶ)しすぎる光が輝いている。


「わ。このコーヒーおいしいね」


 コーヒーを一口飲んだ綾芽が無邪気に笑う。

 正直なところどこのチェーンも大差ないと思うけれど、その笑顔を(くも)らせたくない僕は「そうだね」と苦いコーヒーを(すす)った。

 黒い水面(みなも)が室内の明かりを反射する(さま)を眺めつつ、僕たちは取り留めのない話をする。

 たとえば光に群がる虫の(ごと)くやってくるサークルの勧誘や基礎講義を担当する教授の独特な話し方、今週の学食のおすすめメニューに図書館の入口で見かけた猫の柄について。


「大学生ってドキドキするね。私、一人暮らしもアルバイトも初めてなんだ」

「そうなんだ。バイトはもう決めた?」

「ううん、これから探すとこ。凌牙くんは?」

「僕は喫茶店かな」


 その台詞(せりふ)を言い終えるかどうかのタイミングで綾芽が「どこの?」と身を乗り出す。


「駅の反対側だよ。『Flowers』っていう純喫茶」


 ――その店は古めかしい装いでひっそりと佇んでいた。


 東大の不合格を知った翌日、落胆を紛らわせるためこの学校の下見に訪れた僕は、だだっ広いキャンパスとその周辺をただただ歩き回った。

 これから母校になるはずの(まな)()も多くの思い出ができるはずの街並みも、あの日の僕にはどこまでも他人行儀に見えて――そしてそれは、僕の中がからっぽであることの証明に他ならない。

 やりきれない思いを(のが)そうとため息を吐いた瞬間、たまたま視界に入ったのがFlowersだった。

 

 入口にはこぢんまりとした橙色(だいだいいろ)のテント屋根が備え付けられていて、アイボリーの壁と共に街の風景として静かに溶け込んでいる。

 その穏やかな空気に惹き付けられるように、気付けば僕は木製のドアに手をかけていた。

 歴史の重みを感じるドアをゆっくり開くと、中から「いらっしゃいませ」と落ち着いた女性の声が響く。


「よろしければ奥の席にどうぞ」


 (のち)に店長と知ることになる彼女が通してくれたのは、窓際のゆったりとした席だった。

 メニューを(めく)ると少しだけ色褪せた写真たちが僕の目を楽しませる。

 そしてフードメニューのページに辿り着いた瞬間、僕は腹の虫の(おもむ)くままにたまごサンドとコーヒーを注文した。

 その絶妙な味に惹かれ、レジに貼られた求人にそのまま応募し現在に至る。


「大学の近くなら授業のついでに来れるし、交通費もかからないから丁度(ちょうど)いいと思って」

「確かに。いいなぁ純喫茶……あこがれちゃう」


 そんな風に綾芽がほわりと言うので、思わず口が滑った。


「それなら、綾芽も受けてみたら」


 瞬間、綾芽がそのつぶらな瞳を更に丸くしたので、僕は凍り付く。

 ――しまった、距離感を間違えた。


「いや、ごめん。今のはその――」

「いいの?」

「……え?」


 慌てる僕を後目(しりめ)に、綾芽は瞳を輝かせる。


「凌牙くんが嫌じゃなければ、私もそこで働いてみたいな」


 そう言って、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 ***


 そして入学から3ヶ月程が経過した今日も、僕たちはFlowersで働いている。

 夢中になれる何かを探そうと詰め込んだ授業を聞き、それが終わり次第(しだい)バイトに向かう――(せわ)しさで心の空虚を埋めながら、僕は平坦な日々を消費していた。


 一方、綾芽は友人に誘われサークルに入った。

 といっても活動は週末がメインのようで、平日はシフトがかぶることも多い。

 大学では別行動になることもあるけれど、少なくともこの店では僕と綾芽はいつも一緒にいた。


「お待たせいたしました」


 穏やかな仕種(しぐさ)で接客する綾芽を横目に、僕は本日17杯目のコーヒーを注ぐ。

 まっすぐな黒い髪を頭の後ろで()()げた綾芽は、今日も店を訪れた客たちに純粋な笑顔を()()いていた。

 淡いピンクに染まった口唇(くちびる)(なめ)らかに(おど)る様を、僕は密やかに見つめる。


 そう――入学当初に比べ、綾芽は変わった。


 最初は慣れない接客に苦戦しつつ「私向いてないかも」と弱音を吐いていた。

 しかし、今は持ち前の聡明さと明るさで難なく仕事をこなしている。

 控えめではありつつメイクもこなれてきて、かつて生まれたばかりだったはずの新芽はいつしか美しい花へと成長を遂げていた。


 ――それに比べ、僕ときたら。

 通う先が予備校から大学に変わっただけで、何一つ進歩を感じない。

 芽が出るどころか種のまま腐ってしまいそうな恐怖が心の底に横たわり、ふとした瞬間、自分がここにいていいのかわからなくなる時がある。

 黒い液体で満たされていくカップを前にため息を吐いたその時、ドアベルの鳴る音と共に客の気配がした。


「いらっしゃいませ――あ、先輩」


 知り合いが来たらしく、綾芽の声が1トーン高くなる。

 時を同じくして、店長に「中野くん、桃のタルトお願い」と声をかけられた。

 ケーキの入ったショーケースに向かう僕の前を、綾芽と客が通り過ぎようとして――


「――あれ、中野?」


 声をかけられ視線を上げた瞬間、僕の時間が止まる。

 そこに立っていたのは、高校時代のクラスメートだった。

 名前を思い出せず立ち尽くす僕を見て、綾芽が優しく笑いながら助け船を出す。


「凌牙くん、竹田先輩のこと知ってるの?」


 ――そうだ、野球部の竹田。

 綾芽と同じサークル……いや、そもそもこの大学の学生だったなんて。


「あ、うん……まぁ――」

「そう、俺たち高校のクラスメートだったんだ」

「えっ、すごい! 偶然ですね」


 明るい声を上げる綾芽に対し、僕は曖昧(あいまい)な笑みを浮かべる。

 すると、竹田が首を(かし)げた。


「――あれ、でも中野って東大じゃなかったっけ。何でここでバイトしてんの?」


 一瞬、顔が強張(こわば)りかけ――それを隠そうと必死で口角を上げ、できる限りの明るい声を創り上げる。


「……うん、実はだめだったんだ」

「え、そうなの!? あー……変なこと言ってごめん、中野むちゃくちゃ頭良かったからさ。じゃあ俺たちと同じなんだ。学部どこ?」


 申し訳なさそうな表情の彼に悪気はない――そう頭ではわかっていても、恥ずかしさと情けなさで顔から火が出そうだった。

 彼が歩む道を僕は1年遅れでようやっと追いかけている。

 野球に青春を捧げた彼と違い、僕には勉強しかなかったはずなのに。


「先輩、お席にご案内します」

「じゃあ中野、バイト頑張れよ」


 笑顔で去っていく二人の後ろ姿を惨めな気持ちで見送っていると、背後から「中野くん」と落ち着いた声が響く。

 振り向くとそこには店長が立っていた。

 そこでようやく自分のミッションを思い出し、僕は慌てて桃のタルトを彼女に差し出す。


「すみません、遅くなりました」

「ありがとう。そしたら、サンドイッチの具作るのお願いしていい? もう少しで切れそうだから」


 ――内心、ほっとした。

 次に竹田と顔を合わせた時、上手く笑える自信がないから。


 ろくに料理もしてこなかった僕だけれど、店長が任せてくれたお蔭でここのメニューは一通り作れるようになった。

 雪平鍋(ゆきひらなべ)にお湯を沸かしゆで卵ができるまでの間、僕は冷蔵庫から取り出した具材を切っていく。

 目の端がじわりと(にじ)むのは、きっとざくざくと勢い良く刻んだ玉ねぎのせいだろう。

 他にもトマトやハム、フルーツサンド用のキウイにオレンジも切って、それぞれタッパーにしまう。


 皿に敷くレタスを千切(ちぎ)っていると、キッチンタイマーがゆで卵の完成を高らかに告げた。

 できたてほやほやのゆで卵たちを冷たい水に入れて殻を()き、白身と黄身に分ける。

 この時、白身を2個減らすことで黄身の割合を増やし、濃厚な味にするのがポイントだ。

 余った白身は刻んでサラダに混ぜ込んでしまう。

 そうしてみじん切りにした白身と玉ねぎをボウルに入れ、少しのマヨネーズと塩、そして黒胡椒(くろこしょう)をたっぷりと粗削(あらけず)りで加えたあと、仕上げとして黄身を崩しながらさっくり混ぜ合わせた。

 その一連の作業が終わる頃を見計らったように、店長がキッチンに顔を出す。


「さすが中野くん、仕事早いね。丁度たまごサンドのオーダー入ったから、一皿お願い」


 このくらい誰でもできるだろうと思いながらも、店長の気遣(きづか)いが胸に()みた。

 食パンに生まれたてのたまごペーストを挟み包丁で切ると、断面が鮮やかに色付く。

 その色を見つめているうちに、沈んでいた心が少しだけ軽くなっていた。


 ***


「――やっぱり。凌牙くんの()れたコーヒーおいしいね」


 閉店時間を迎えたあと、窓際のゆったりした席で僕たちは向かい合いコーヒーを飲んでいる。

 二人のシフトがかぶった時はお茶をしてから帰るのがルーティーンとなっていた。

 綾芽がそんなことをしみじみ洩らすものだから、僕は小さく苦笑してしまう。


「そう? 誰が淹れたって一緒だよ」

「そんなことないよ。私、コーヒー係じゃないもの」

「え?」


 『コーヒー係』という聞き慣れない単語に顔を上げると、綾芽も驚いたような表情でこちらを見ていた。


「知らないの? コーヒーは店長が認めたひとしか淹れられないんだよ。だから私、まだ他のドリンクしか作れないんだ」


 てっきり綾芽は接客が上手いからホールメインなのだと思っていたが、言われてみればコーヒーを淹れる姿を見たことがない。

 たまたま自分がバイトを始めて早々にキッチンを任されていたから、ハードルがあるなんて気付きもしなかった――思いがけない事実に驚いていると、綾芽が続ける。


「――ねぇ、凌牙くん。私と初めて逢った時のこと、覚えてる?」

「最初のオリエンテーションのこと? 勿論(もちろん)覚えてるよ」


 瞬間、綾芽が「やっぱり気付いてなかったんだ」と少しだけ悪戯(いたずら)っぽく笑った。


「私と凌牙くんが初めて逢ったのは、受験当日の朝だよ」

「……え?」

「あの時、駅で具合悪くなった人いなかった?」


 綾芽の透き通った瞳に見つめられて、ぼやりとした記憶が少しずつ目を覚ましていく。

 やがて(まぶた)の裏に、一人(うつむ)く女の子の姿がよみがえった。



「――あの、大丈夫?」


 その小さな背中が消えてしまいそうに見えて、電車から降りた僕は思わず声をかける。

 一呼吸おいてから、ホームの隅でうずくまっていた彼女はゆっくりと頭を持ち上げた。

 その顔色が紙みたいに真っ白で、僕は静かに息を呑む。


「……ごめんなさい。ちょっと休めば、良くなるから」


 今にも消え入りそうな声で、その受験生然とした年恰好(としかっこう)の彼女は(つぶや)いた。

 呼吸に合わせて力なく上下する肩を見ながら、僕は1年前の自分のことを思い出す。


 ――そう、僕も現役時代受験当日に体調を崩したことがあった。

 栄養ドリンクで自らを奮い立たせながら必死の思いで辿り着き、別室で受験したことを思い出す。

 朦朧(もうろう)とする意識の中、絶望と不安、そして体調管理すらできない自分の不甲斐(ふがい)なさで頭がいっぱいになり――結果、僕は浪人を余儀なくされた。


「……なんで、ここまで頑張ってきたのに」


 ぽつりと洩れた彼女の言葉で現実へと引き戻される。

 不安げに震える背中が痛々しい。

 そう――目の前の彼女は、まるで1年前の僕だった。


「――大丈夫」


 思わず口をついて出た台詞が届いたかはわからない。

 それでも、彼女の頭がぴくりと動いた気がした。

 彼女の手を取りベンチに座らせたあと、自販機で買ってきたスポーツドリンクを渡す。


「大丈夫、きっと上手くいくよ。だって――ずっとここまで頑張ってきたんだから」


 目の前の彼女を少しでも勇気付けたくて、もう一度僕は言葉を重ねた。

 それはまるで、かつての自分を励ますように。

 俯いたままの彼女が懸命に、こくりこくりとスポーツドリンクを飲む。


「……ありがとう、ちょっとだけど、楽になったかも」


 ゆっくり時間をかけ半分程飲み終えた頃、彼女の顔に少しだけ色が戻った。

 眼鏡の下で(うつ)ろだった眼差しが定まり始め、まっすぐに僕の顔を捉える。

 いかにも世間ずれしていない幼さを残した顔立ちが、僕の目には鮮やかに映った。


「良かった――歩ける?」


 真剣な顔で頷いた彼女のペースに合わせ、僕たちはゆっくりと歩き出す。

 試験の開始まではまだ時間がある。

 一歩一歩思い出を刻むように歩く僕たちを、周囲の人々が(せわ)しなく追い越していった。


「……実は、東京初めてなんです」


 隣で彼女がぽつりと呟く。

 その声はまだ不安に濡れていて、僕は努めて明るい声で「そうなんだ」と答えた。

 

「緊張のせいかあまり眠れなくて――だから貧血になっちゃったのかも」

「実は、僕もそういうことあったんだ」

「……え」


 彼女がゆっくりとこちらを見る。

 眼鏡越しに覗く瞳は透き通っていて、吸い込まれそうな気持ちになりながら僕は続けた。


「でもなんとかなったから、大丈夫だよ」


 実際はなんともならなかったけれど、彼女の不安の芽を摘むために僕は笑顔を作ってみせる。

 そんな僕の想いが通じたのか、彼女はその目を細めて穏やかに微笑んだ。


「うん……ありがとう。私、あきらめないで頑張る」



「――思い出した?」


 あの日見た笑顔が、目の前の綾芽と重なる。

 受験会場の入口で別れた彼女――眼鏡がコンタクトになり、メイクでほのかに彩られたその顔は、あの日と同じく穏やかな透明感にあふれていた。

 小さくなって震えていた彼女が絶不調の中合格を勝ち取った――その事実に心の底が感動で満たされて、僕はただ頷くことしかできない。


「私あの時、もうだめだと思ったんだ。具合はどんどん悪くなるし、周りにたくさん人がいるのに誰にも頼れなくて――でも、そんな私を凌牙くんが助けてくれた」


 綾芽の瞳がきらりと光を含む。

 何も言えないままでいる僕に、優しく微笑みかけながら。


「だから、オリエンテーションで隣の席だった時本当に嬉しかった。これは運命だって、本気で思ったんだよ」


 ――運命。

 すとんと綾芽の言葉が僕の心に落ちてくる。


 それを大袈裟(おおげさ)だと笑う人もいるかも知れない。

 しかし、その言葉に僕の心は救われた。

 もしそうだとすれば、きっとここに至るまでの道も無駄ではなかった――そんな風に、信じることができるから。


 目の前の綾芽は僕のことを穏やかに見つめている。

 何か返事(こたえ)を返そうと、整理しきれないまま口を開こうとしたその時――


「――良かった、二人とも残ってた」


 いつの間にかテーブルの(かたわ)らに店長が立っていて、僕は思わず口を(つぐ)んだ。


「お話し中邪魔してごめんね。もし良かったら、サンドイッチ食べない?」

「え、いいんですか? ありがとうございます!」


 綾芽の明るい声に応えるように、店長が笑顔でテーブルの真ん中に皿を置く。

 しかし、そこに載せられたたまごサンドは僕たちの知るそれとは違う姿をしていた。


「「――わぁ……」」


 思わず声がかぶり、僕たちは顔を見合わせ笑ったあと、もう一度皿に目を落とす。

 たっぷり盛られたたまごペーストの中央にはゆで卵が堂々と鎮座していて、その様はまるで黄色い花が咲いているようだ。


「たまごサンドにゆで卵をトッピングしてみたの。見た目も華やかで食べ応えあるから、いいかなと思って」

「本当ですね、おいしそう……!」

「中野くんもどうぞ」

「――あ、はい」


 僕はおずおずと皿の上に手を伸ばす。

 そして持ち上げたそれは、ずっしりと幸せの重さを伴っていて。


「いただきます」


 厚みのある中央部分に、一口かぶりつく。

 瞬間、ふわりと玉子の優しい味が口の中に広がった。

 そのあとからぴりりと追いかけてくる黒胡椒が後を引いて、思わずもう一口。

 今度は濃厚な黄身に舌を塗りつぶされ、僕は満足感でいっぱいになる。


「……おいしい」


 思わずぽつりと呟くと、店長が「でしょう?」と穏やかに微笑む。


「それ、中野くんが作ったペーストだよ」

「あ、そうなんだ。すごくおいしい!」


 思い返せば、この店のたまごサンドを食べたのはあの日以来初めてだった。

 ふらふらと街を彷徨(さまよ)った挙句、失意の底にいた僕をふわりとすくい上げてくれた穏やかな味。

 自分が作ったとは思えない程に、僕の手の中にあるそれはよく似ていた。


「中野くんは一つ一つ丁寧(ていねい)に仕事をしてくれるから、ドリンクもフードも本当においしいよね。それこそほっと一息つけるような優しい味で――これは誰にでもできることじゃないと思うよ。それから、中村さんの明るい接客にもとても助けられてる。お客様も嬉しそうだし、現にリピーターも増えているしね」


 店長が手元のコーヒーを一口飲んでから、笑顔で続けた。


「このお店、Flowersっていうでしょう。お蔭さまで毎年新しい学生さんが入ってくれるんだけど、それこそ初々しい新芽のようだった皆がどんどん綺麗に花を咲かせていくの。その様子を近くで見られるのが、私はとても嬉しいのよ。本当に二人とも、いつも頑張ってくれてありがとう。これからもよろしくね」


 思いがけないその言葉に目頭が熱くなり、僕は慌てて手元のコーヒーを飲む。

 既に冷めてしまっているはずの黒い液体は、僕の内を温めながら身体の中心へと流れ込んでいく。

 穏やかな熱を抱いたまま静かに目を開けると、そこには笑顔の綾芽と店長がいた。


 ――あぁ、僕はここにいてもいいんだ。


「はい……こちらこそ、ありがとうございます」


 長い冬が続いても、命芽吹く春がいつかは訪れるように。

 僕たちの目の前で、その黄色い花は静かに咲いていた。



(了)

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

本作は『芽』というテーマで書いた作品です。

芽から想像されるのはポジティブなものもあればネガティブなものもあって、迷いながら悩みながら言葉を重ねていった結果、出来上がったのは様々な芽吹きを描いた物語でした。


なにかが芽吹く瞬間に立ち会える――それはもはや小さな奇跡だと思うのです。

人生は長く、上手くいかないことの方がもしかしたら多いのかも知れません。

それでもじっと耐えて頑張った先には命芽吹く春が必ず訪れるのだと思います。


以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
綾芽さんや店長さんとの関わりで、少しずつ自分の居場所と自信を見つけていく僕。その過程の揺れる心情が伝わってきました。自分のいいところってなかなか自分じゃわからないものですよね。 ゆで卵トッピングのタマ…
挫折を味わい、失敗を暴露され、このまま寝取られまでいってしまうんじゃないかとハラハラしてたけど、そんな事はなかったぜ。ふう~。 最後まで読んだら、頭の中で綾芽が告白するシーンが勝手に浮かび上がる~。…
挫折を味わい色々な居心地の悪さを抱いていた主人公ですが、自分の居場所を見つけられましたね。 青春のほろ苦さ・温かさを感じられる作品でした。
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