9.一歩前進
しばらくしていつものようにあまてらすが永田の家に行くと、庭で誰かと話している声が聞こえた。永田は怒りの形相で、眼鏡をかけたスーツ姿の若い男に怒鳴っていた。眼鏡の男は永田の言葉を軽く聞き流し、表情のない目つきで、永田を見ていた。
あまてらすが二人に声をかけると男は、あまてらすの方を見てばつが悪そうに、また来ると言って車に乗りその場を後にした。
「あの、永田さん……今の方はどなたですか」
あまてらすはおそるおそる永田に聞いた。あまてらすの言葉に、永田は急に力が抜け肩を落として、「息子だ」と言った。
「息子さんがいらっしゃったんですね」
あまてらすがそう言うと、永田は視線を落として、「ああ」と言い、誰に話すふうでもなく、自分の身の上話を始めた。
「わしには息子が二人と娘が二人いるんだ。だが、わしの妻が死んでから、家族はばらばらになってしまった。わしは昔から仕事ばかりで、子供たちなど目もくれなかったからな。特に長男はわしを恨んでいるのだ。自分なりに精一杯やったつもりだったんだが、正しく愛情を与えられなかった罰だな。息子たちはこの家を売りたいそうだ。ここは一等地だし、こんなごみ屋敷にしておくより、よっぽど有益な使い方だと言う。さて、どうしたもんかな」
永田は自嘲気味に笑った。澪とあまてらすは何も言えなかった。ごみ屋敷になったのは理由があるのだろうと思ってはいたが、いざ話を聞いてみると、踏み込んではいけない領域だとわかった。言葉が見つからず立ち尽くしているあまてらすに永田は、
「というわけだ。わしに関わったところで何もいいことはないぞ」
と雑草をむしりながら言った。あまてらすは、
「実は、おだんご買ってきたんです。一緒に食べませんか。食べればきっと元気になります」
と持ってきただんごの袋を見せた。永田は、あまてらすの的外れな慰めにぽかんとしていたが、かえって心の緊張がほぐれたようだった。二人を縁側に座るように促し、お茶を淹れに台所へ行った。澪とあまてらすは縁側に座り、庭を眺める。どこもかしこもごみだらけだ。よくわからない機械のパーツ、着なくなった服、布団、年代物の家具、壊れた電化製品、正体不明のごみ袋。
「不思議な景色ですね」
「そうだね。壮観だ。においもなかなかだ」
大きく息を吸うと、どこから発せられているかわからない臭いが二人の体に入ってくる。空気は生温かく、ごみの風呂のようだ。
どうぞと永田が麦茶とアイスバーを出してくれたが、三人は言葉少なだった。澪は何か話した方がいいと思ったが、深入りしてまた追い出されるのが怖かった。
「広いお庭なんですね」
あまてらすがぽつりと呟く。今はごみと、無造作に草と木が広がる砂漠でしかない。
「昔はよくここに家族みんなで座ったもんだ。ここからだと夏の花火大会の様子がよく見えるんだ。妻がすいかを切ってくれてみんなで食べたものだよ。あの頃は子どもたちも小さかった。
春にはひなまつり、端午の節句。七夕、お盆……。冬はクリスマスツリーを飾ってお祝いだ。
でもいちばんは子どもたちの誕生日だな。誕生日のたびにケーキを買ってお祝いした。口には出さなかったが、わしも楽しかったんだよ」
永田の目は遠くを見ていた。この庭が美しかったころの思い出をひとつひとつ思い出しているようだった。彼の姿を見て、あまてらすはなぜだか涙がこぼれ、永田の幸せを願わずにはいられなかった。ささやかでもいい、この老人が幸せに暮らせるための手伝いができればと思った。この時初めてあまてらすは、自分本位の考えを捨て、他人のために何かしてあげたいと心から思った。それは、今までの気負いと、身勝手なお節介を正すきっかけとなった。
「永田さん、今まで私は傲慢でした。あなたの考えなど知らず、とにかくこんなごみの多い家はよくないと思っていました。でもお話を聞いて、考え方が少し変わりました。永田さんには永田さんの人生があって、積み重ねで今がある。簡単に人を変えようなんて思ってはいけないのだとわかりました。私は大きなことはできません。でも永田さんの人生に少しでも寄り添いたいと思っているのです」
「こんな老人に関わってもいいことなんてない。それでも寄り添いたいと思うのかい」
あまてらすはこくんと頷く。永田との間に、細いほんのわずかな橋がかけられた。橋はまだ小さく、たやすく壊れてしまいそうだったが、それでも永田の心に一歩近づいたのだった。
その日から、ごみを片づける方法を具体的に考え始めた。一階は南向きの居間、寝室、客間、それと水回り。ごみは各部屋にまんべんなく、足の踏み場もないぐらいに散乱していた。二階は四部屋あったが、一階に比べてごみは少ない。まず、玄関を入ると、ごみの歓迎を受ける。袋に入っているものもあるが、だいたいはそのまま捨ててあった。空き缶やペットボトルもあちこちに落ちている。
あまてらすは永田に見られないように、鼻をつまんで部屋の中を見回した。ごみ屋敷の片づけを積極的に行おうとするあまてらすに対して、澪は彼女のお供だと自分で思っているので、積極性を欠いていた。なぜ自分がこんな面倒ごとを引き受けなければならないのか、内心面倒臭かった。つまるところ、澪は早く帰って酒が飲みたかったのだ。
突然何かが目の前を横切った。間違いなく、あの黒い昆虫だ。澪も当然大嫌いで、この家の至る所にあの虫がいると思うと、落ち着かない。エイリアンの襲撃を受ける宇宙船のクルーのように、神出鬼没の敵に怯えながら作業を行うのは、つらい。
「このまま朽ちていくのもおつなもんだろ、ははは」
永田はごみの中で茶を飲みながら、感慨深げに天を仰いだ。呑気だなと澪は永田の白髪頭を叩きたかったが、自重した。家主本人がもう諦めているなら、わざわざ手助けする必要もない。彼にとってはこの現状こそが最も安定した生活なのだ。それを変えるのは、ジェンガタワーから無理やりブロックを引き抜くようなものだ。若者ならいざ知らず、変化を求めない老人には酷かもしれない。
その夜、二人は作戦会議を行った。
決定事項。必要な物品の買い出しを行う。具体的には丈夫なゴミ袋、モップや消毒剤などの掃除用具。手袋、マスク、安全ゴーグルなどの保護具、カッターやひもなどを準備する。常に計画的に作業を行い、作業の際には防護具などを着用し、健康管理に気を付ける。これで万全。
「作業物品だけでもかなりの出費だね。お金ある? ごみの搬出もお金がかかるよ。うーん、お姉ちゃんの力を借りるか。打出の小づち。頼れる者は身内」
澪が電話をかけると珍しく繭が一コールで出た。お金の件を話すと、
「わかった。ほしいものはこちらで買ってやる。ほしいものリストをメールで送れ。翌日の夜には届くようにするから。というかお前らごみ屋敷の片づけなんぞしているのか。まあいい、頑張ってくれ」
姉妹で話す話題もそれほどなく、電話は数分で終了した。あまてらすに物品購入の件を話すと彼女は喜んでくれ、その笑顔を見て澪も少し安心した。二人は掃除道具、ゴミ袋、マスク、手袋など必要物品のリストを繭に送る。明日には作業セットが届くだろう。澪はほっと息をつき、明日の作業に備えて早めに休もうと思った。ゴミ屋敷の片づけは大変な作業になるが、あまてらすと協力して少しずつ進めていけば何とかなると自分に言い聞かせた。