3.澪とあまてらす、はじめての朝
翌朝、台所から騒がしい音が聞こえてきた。パジャマのままリビングに行ってみると、あまてらすが何やら料理を作ろうとしている。昨日のことは夢ではなかったのだ。ぼさぼさの髪を掻きながら澪が朝の挨拶をすると、あまてらすも包丁を握りしめ深々と頭を下げた。相変わらず口調は厳めしく表情も硬い。だが澪に対する姿勢は柔らかかった。朝の光とあいまって、彼女の顔がひときわまぶしく映る。
「あんた、料理できるの」
「はい、基本的なレシピなら可能です。今日からわたくしが料理を担当させていただきます。居候の身ですから、少しでもお役に立ちませんと。日本のポピュラーな朝食といえば、ご飯と焼き魚と味噌汁と聞いておりますので、今完成を目指しております」
しかしキッチンには料理は何もできていない。それどころか、材料すら出ていない。何を作ろうとしているのだろうか。澪は訝し気にあまてらすの顔を見た。彼女には迷いはなく、料理の成功を微塵も疑っていないようだった。澪は冷蔵庫を覗き込む。焼き魚も味噌汁の具もない。必要最低限の食材と、ビールがあるだけだ。本当にご飯を作る気があるのか澪が聞くと、あまてらすは、
「材料が足りていないですから…朝十時にご近所のスーパーが開くそうです」
澪が時計を見ると朝九時だ。あと一時間も待たなければならないのか。近くのファーストフードの店で食べた方が早い。澪はあまてらすに外食の提案をしてみた。しかし朝からジャンクフードは体に悪いと、彼女は即座に却下した。
「お腹空いちゃうよ。十時まであと一時間あるのに」
澪は少し苛立って強気な言い方になる。
「困りました。対処方法がわかりません」
あまてらすを見ると、任務に失敗した兵士さながら、申し訳なさそうに胸に手を当てうなだれていた。アンドロイドなのだから、即座に解決策を見つけてもよさそうだ。それができないなら人間と変わらない。しかし彼女にきつい言葉を浴びせるのは酷だ。澪はふっと息を吐き力を抜き、あまてらすに、
「そんな顔しないで。とりあえず冷蔵庫にある材料で作ろう」
澪は卵二個とパン二枚、小さめのトマトを取り出した。澪の言葉にあまてらすは体の緊張を解き、表情も緩やかになった。普段家事を面倒くさがっておろそかにしている澪だったが、あまてらすの体たらくを見たら自然と体が動いた。卵を割り、あまてらすにはパンをトースターに入れるよう指示した。
「あとは卵焼きだね。こうやって作るんだよ」
フライパンに油を敷き、卵を割って入れるだけの簡単な料理だ。澪は手際よく割った卵にしょうゆを加え、かき混ぜた。フライパンで卵を熱すると、じゅわっと香ばしい匂いが広がる。フライパンの上で踊る卵を最後にくるくると巻き、澪は皿に載せた。あまてらすは、形作られていく卵焼きを興味深く眺めていた。
「あっ、パンが焼けたみたいです」
あまてらすはパンを取り出し、いちごジャムを塗った。あまてらすのひとつひとつの動きは、無駄がなく、澪は感心した。
二人は向かい合わせに座り、いただきますを言って朝食を食べた。
「卵焼きは、初めて食べました」
研究所では何を食べていたのか、澪は気になりあまてらすに聞く。
「研究所ではいつもひとりで食事をしていました。まっしろな四角い部屋で、小さな窓がひとつあるだけでした。決まった時間になると配膳用ロボットがわたしの部屋の前に来ます。ドアの前で食事を受け取って、終わったらドアの外に置きます。それだけです。食事は主に「かろりぃふれんず」という固形栄養食でした。とても体にいいのだと研究所の方々はおっしゃっていました。生まれたときからそんな生活でしたから、わたしはとりたてて何も疑問に思いませんでした。むしろ今日の食事のほうが驚きです」
まるで囚人だ。研究所ではあまり大切に扱われていなかったのか。愛情のないただの研究対象では、人間の情緒は育たない。澪は彼女の境遇にいささか同情し、不憫に思った。
「ほかの時間は何をしていたの」
「そうですね。研究所の外には出ず、基本的にはラボ003と呼ばれる部屋でさまざまな実験を行っていました。研究員の方が毎日データを取るんです。私は脳波を調べられたり、体の状態を調べられたりしました。また、人間が学校で習う勉強をどれくらいできるのかとか、コンピューターゲームにどれだけ対応できるのかなどを測りました」
「研究所の人はあんたに対して優しかったの」
「はい、大変よくしていただきました」
彼女の言葉に嘘はないようだ。澪は、研究所では蝶よ花よと特別待遇だった自分を思い出した。食事はいつもたっぷりと用意され、布団も高級羽毛、部屋も冷暖房完備の何不自由ない暮らし。あまてらすが受けた待遇は、天と地の差だ。
食事のあと、二人は食材の買い出しを兼ねて外出した。四月なのに外は汗ばむ陽気だ。澪は鞄の中からカップ酒を取り出し、汗を拭きながらストローで吸った。
それは何かとあまてらすがカップ酒を指さして言う。澪は、酒はこの世でいちばん素晴らしい液体であると力説した。澪にとって酒は世界が全てバラ色に見える、魔法のアイテムだ。しかし、澪の言葉を聞いたあまてらすはわなわなと震え出し、酒を取り上げた。
「昼間から酒を飲んでいいと思っているのですか。アルコールは人を狂わせる飲み物ですよ。幸せな気分になるのも、幻です。自重してください」
そう言われたら飲むわけにもいかず、澪は酒をバッグにしまった。今度からはあまてらすがいないときに酒を楽しもうと密かに思う澪だった。