2.澪とあまてらすの出会い②
草木も眠る丑の刻、夜は一時を過ぎていた。五階建ての堅牢な鉄筋コンクリートアパートは、外部からの音をシャットアウトして、静かな眠りを保障してくれた。澪は城の最上階に住むお姫様だ。しかし穏やかに過ぎていくはずの夜は、一瞬にして破られた。
インターホンが鳴る。そしてドアを数度叩く音。こんな夜中に来るとは、一体どこのセールスマンか。眠い目をこすりながら、玄関先へ急ぐ。しかし澪ははっとする。まさか強盗。まさか変質者。うっかりドアを開けたら、明日には鍋の具になってしまうかもしれない。ドアの前で足が竦む。
覗き穴から外の様子を見てみると、若い女性が立っている。必死にドアを開けようと、がちゃがちゃドアノブを回し、鍵穴を覗き込んでいる。ますます恐ろしくなり110番に電話しようと、携帯を取りにリビングに戻ろうとした。すると外から、
「澪さんはおられますか」
と澪の名前を大声で連呼した。近所迷惑はなはだしい。チェーンをつけて、ゆっくりドアを開ける。
「こんばんは。私はあまてらすです。繭次長の命により本日よりこちらに起居することになりました。どうか中にお入れください」
と軍人を思わせる直立姿勢で、微動だにせずそう言った。ああ、これがお姉ちゃんの言っていたアンドロイドか。夜中に来るとは非常識だなと、澪は内心腹を立てた。人の都合も考えず、ずかずかと他人の領域に踏み込んでくるのは、姉の繭に似ている。さすがに「血」は争えない。澪はチェーンロックを外し、あまてらすを部屋の中に入れた。
部屋に引き入れ彼女の顔を初めてしっかりと見る。澪の中に突如不思議な感情が湧き上がった。初めて会うのに懐かしい。どこかで会ったことがあるのだろうか。澪はもう一度彼女をよく見てみたが、記憶になかった。
彼女はなぜか体中泥で汚れ、格闘でもしてきたかのように服もところどころ破けている。野蛮なのは勘弁だと、彼女が玄関に上がるのをいまいましく眺めた。
「フローリングだからあんまりバタバタ歩かないでね。夜中だし、下の人に迷惑かかるから」
と澪は彼女を見ずに、部屋に入っていった。彼女は「はい、わかりました」と言って、規則正しい足取りでついてくる。
「ずいぶんと泥だらけだね。猫とでも闘ってきたのかな」
ソファーに腰掛け、澪は皮肉っぽく言った。彼女はリビングに入らず、ドアの前に立ったままだ。澪が「座って」と言わなければ、ずっと立ちっぱなしなのか。彼女の恭順な態度も澪には癪に触った。
「猫と闘ったわけではありません。今日の午後、川で溺れている子供を助けました。夕方、探し物をしているご老人をお手伝いし、藪の中に入っていました。そして夜はひったくり犯を一キロ追跡し、めでたく捕まえました。気が付けば服は汚れてしまっていたようです」
川で溺れている子供。澪は、はっとした。今日桜並木で見た勇敢な女性はこの子なのか。まったく不思議な縁だ。
「名前はえーと、アンギラスだったかな」
「あまてらすです。日本神話に出てくる天照大神から取った名前だそうです。世界を照らすためのアンドロイド、それが私です。どうぞよろしくお願いいたします、澪さん」
少しどや顔であまてらすは答える。
「汚い格好でうちの中うろうろされても困るから、シャワー浴びてきてくれる」
澪はシャワーの場所をあまてらすに教えた。そういえば着替えは持っているのだろうか。澪がたずねると、何も持ってきていないと言った。仕方なく澪は自分のパジャマをクローゼットから出し、彼女に渡した。「ご協力ありがとうございます」と警察官のごとく敬礼をして、あまてらすはバスルームに向かった。澪は彼女の背中を見送りながら、先々の生活に不安を覚えたのだった。
澪は自分の思考を整理しようとした。あまてらすが風呂に入っている間、ソファーに座り込んでぼんやり天井を見つめる。飲みかけのパック酒をストローで吸うと、多幸感に包まれた。しかしすぐさま未知の生活への不安と、姉とあまてらすに対する苛立ちが湧き上がってきた。
やがて、あまてらすがバスルームから出てきた。風呂上がりの彼女は髪をおろし、美しかった。どことなく雰囲気が繭に似ている。もしかすると、姉に似せて作ったアンドロイドなのかもしれない。だとすると、相当悪趣味だ。
澪は客用のパイプ椅子にあまてらすを座らせ、自己紹介をした。すると、柳原という名前にあまてらすは反応し、「どこかで聞いたことがあります」と言った。繭と姉妹であるとあまてらすに言うと、合点がいったようだった。
「そうでした。繭次長の苗字は柳原でしたね。ずっと繭次長、繭次長と呼んでいたので、失念してしまいました」
「でもあなたのほうがお姉ちゃんに似てる気がするよ。あまてらすのモデルはお姉ちゃんなのかな」
あまてらすのぴんと張り出した、情報収集に適した耳や、真実を射貫く目も姉に似ている。もしかすると目の中に監視カメラが入っていて、いつでも繭が見ているのではないかと澪は身震いした。
「ありがとうございます。次長と似ていると言われるのは光栄です。彼女は私の母であり先生であり師匠ですから。繭次長ほど素晴らしい方はいません」
繭が褒められると、澪は自分の尊厳がけなされたようで嫌になる。姉の賛辞は色々な所で聞いた。その度、澪は身の置き所がない気持ちになるのだった。研究にまい進する若き才媛と、飲んだくれの妹。姉妹を知っている人はきっとそう思っているのだろう、そしてあまてらすもそう思う。姉と向き合うと、悲しみのあぶくが胸の中にあふれてくる。
時計を見ると四時になっていた。部屋の外でバイクの音が聞こえる。朝が近い。さすがに眠くなった澪は、あまてらすに早く寝るよう言った。あまてらすには普段使っていない荷物部屋をあてがった。部屋は2LDKだが、澪はもっぱらリビングにいるので、一部屋空いていた。広い部屋はいらないと契約するとき言ったのだが、繭が「大は小を兼ねるからな」と謎理論を押し通してしまった。それで、分不相応な広さの部屋に住むことになったのだ。
あまてらすは「澪さん。また明日」と言い回れ右をして、隣の部屋に入った。やれやれと澪はソファーにどかっと座り、ひときわ大きなあくびをした。「多幸感、タコーカン」と酒のパックを探してみても、どこにも見当たらない。仕方なく眠りに就こうとしたが、しばらくして隣の部屋から、得体の知れない声がした。ドアに耳をあて聞いてみると、
「あついよ、こわいよ、つらいよ、たすけてよ」
とあまてらすが悪夢にうなされているようだった。澪は、床が変わったせいで悪い夢を見ているのだろうと思い、声をかけなかった。あまてらすのうわ言はしばらく続き、澪は布団をかぶって彼女を声をシャットアウトした。