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1.澪とあまてらすの出会い①

 春の日差しうららかな四月、柳原澪はほろよい気分で桜並木を歩いていた。花より団子、団子より酒。買ったばかりのパック酒を、半分以上胃に流し込んだ。道行くカップルや家族連れに引け目を感じつつ、桜散りゆくベンチに腰掛け、無益な時を楽しむ。自分も世界も時も蝶々も、三回転半宙返り、ぐるぐる意味もなく回っている。

 研究所を出てから一年が過ぎていた。研究所は退屈で平凡で、ひたすら温かな檻だった。人工的な匂いのする花々に囲まれ、世界を何も知らずにいた。いつしか外の世界を見たいと願った澪は、希望に胸を膨らませ、初めて研究所を出た。その時姉と二人で見た空の青さは今でも忘れがたい。

 研究所を出た頃の夢と期待はどこへやら、澪はいつの間にかダラクしたラクダに変わった。今は異郷の単なるノンダクレイヤーだ。むろんだらけた生活をずっと続けるわけにはいかない。雪が溶けるころには、暖かくなるころには、桜が咲くころにはとカレンダーをめくるたび思ってきたが、季節は足早に過ぎていった。

 ぼんやりとパック酒をすすりながら、きらきら光る水面を見ていた。川が織りなす光の波は、さながら絹糸だった。それを見ていたら腹が減り、ベンチから立ち上がった。その時、

「子供がおぼれているぞ! 」

 と男性の声がこだまし、続いて甲高い女性の「助けてください! 」と叫ぶ声が辺りに響いた。澪は飲みかけのカップ酒をベンチの上に置いて川面を見る。すると確かに、小さな男の子がばしゃばしゃと川で溺れているではないか。助けなくてはと思ったが、泳げないことをすぐに思い出し、諦めた。近くにいた大人たちも犬たちも、みな声をあげるばかりで助けに行こうとはしない。

 川の流れはゆるやかで、深さもそれほどなさそうだった。ただ、昨日の雨で大幅に増水していた。酔った頭で、もし誰も助けないなら自分が行くしかないと心を決めた。ただ、その前にストレッチを……ともたもたしていると、突然川面を叩きつける大きな音とともに、水しぶきが高く上がった。誰かが助けに入ったのだ。英雄は、すぐさま子供の体を抱きかかえ、川から上がった。まさに一瞬の出来事で、周りも何が起こったのかわからない速さだった。男の子は母親に泣きながらしがみつき、母親は助けてくれた恩人に礼を言った。よく見ると、救出劇の主役は、若い女性のようだ。何度も礼をする母親に困った顔をして、首を横にぶんぶんと振っている。

「すごい人もいるもんだ。私にはできない芸当だね。さて帰るか」

 カップ酒を再びちゅうちゅうと吸いながら、桜散る美しい川べりを後にした。そして家に帰るころには、さきほどの救出劇も、すっかり忘れてしまったのだった。


 帰りに居酒屋に寄って、ちょっと一杯。路地裏の赤ちょうちんが澪の居場所だった。賑やかな人の群れを抜け、一番薄暗い店ののれんをくぐる。月が空を照らすまでビールと枝豆、それとなめろうをちびちびと食した。いつからか澪は店の常連になっていた。意気込んで都会に出てきたはいいが、友人もなく楽しみもなく、挙句の果てに怪しい投資詐欺に騙され、なけなしのお金を取られてしまった。そんな毎日の楽しみが酒だった。二十歳そこそこの女性が酒におぼれるなんて笑い話にもならない。自分が世間知らずだったのだ。澪は激しく自己嫌悪の日々を送っていた。

 部屋に帰ると現実が手を振って迎えてくれる。雑然とした2LDKが澪の城だ。掃除は月に1回、洗濯は気が向いたとき。食器洗いはコバエが出ない程度に行う。澪の家事能力は低い。いや、単に気力がなかっただけかもしれない。掃除洗濯料理片づけ、常に繰り返し。ルーティーンは澪の心を疲弊させる。入居当初はきれいだった部屋も、日に日に居住スペースが減ってきていた。棚の上に置かれたマトリョーシカやクマのぬいぐるみが、「おい、目をさませ。現実を見ろ」と迫ってくる。歯車が狂ったのはわかっていたが、直そうにも歯車が見つからないのだから手に負えない。白壁に凭れて、せんべいをかじりながら、つまらないテレビをぼんやりと見ていた。

 そろそろ寝ようかと思っていた十一時過ぎ、けたたましくスマートフォンが鳴った。手だけをにゅっと伸ばして、床の上のスマートフォンをたぐり寄せた。こんな時間に電話をかけてくるなんて迷惑もいいところだと、テーブルの上のナッツをつまんで、電話に出た。

 画面を見ると、「繭」と書かれている。姉の名前だ。珍しいなと澪は思う。ウェーブがかった髪をかきわけスマートフォンを耳に当て、

「もしもし、澪……だけど」

 まさか自堕落生活を咎められるのではないかと、澪はおそるおそる小声で言った。

「久しぶりだな、澪。元気にしてたか」

 と淡々とした口調で繭は言う。姉には感情があるのだろうか。まるでロボットだ。

「まあね。お姉ちゃんこそ元気にしてた。珍しいね、電話なんて」

「私は相変わらずだ。それにしても最近お前の噂を耳にしたぞ。昼間から酒を呑んでるらしいじゃないか。研究所の所員がたまたまお前の姿を目撃したのだが、どうなんだ」

 直球で澪の心を刺してくる。お説教は嫌い。折角自由な毎日を謳歌しているのに、誰に咎める権利があるのかと心の中ですごんでみせたが、実際部屋の家賃と生活費を出しているのは姉の繭なのだ。だから面と向かって大それた口は聞けない。

 繭に冗談やごまかしが効かないのは百も承知だ。堅物論理おばけの姉に立ち向かう武器を、澪は持ち合わせていない。しかし澪にも意地がある。言葉のほつれを適当にパッチワークして、自堕落生活をコーティングして、その場かぎりの取り繕いを続けた。

「何のためにお前を一人暮らしさせていると思っているんだ。研究所の所員も泣くぞ。あの日お前を笑顔で見送ったみんなの気持ちを忘れるなよ」

 繭は二十四歳にして理化学研究所の次長をしている。姉と過ごす日々は平凡で、何も不自由はなかったが、刺激が少なく退屈だった。姉のお許しが出て意気揚々と新生活を始めた澪だったが、投資詐欺に騙され身ぐるみはがされた澪は姉の監視下に置かれた。2LDKの部屋もパノプティコンのように監視の目が光っていて、酒だけが彼女の心の拠り所になっていた。

「お説教はここまでにしようか。本題だが、あまてらす計画は澪も知っているよな」

「あまてらす計画って、お姉ちゃんがやってる、アンドロイドプロジェクトだっけ」

「そうだ。世界に笑顔と幸福をもたらすアンドロイドの研究だ。もうすでに八割方は完成している。今年中にはお披露目できるはずだ。最後の仕上げとして、実地訓練を行おうと思っている。自動車教習でいう路上訓練だな」

 繭は淡々と話を続ける。彼女自体が一種のAIだなと澪は思った。

「でな、澪。しばらくアンドロイドを預かってもらえないか」

 厄介ごとの匂いがした。ささやかな一人暮らしの気楽さを失う危機だと、澪は警戒した。「いやだ」と言ったらどうなるだろう。しかし澪に選択肢はなかった。足の先がむずむずしてかゆい。

「アンドロイドは、ほとんど人間と変わらないレベルまで仕上がっている。命令すれば色々人間の役に立つだろう。だが、圧倒的に感情が足りていない。だから人間社会で経験を積ませて、人間の感情をしっかり学ばせてほしいんだ。プロジェクト名は、「はっぴぃあまてらすプロジェクト」だ。そのアンドロイドが無感情だったら、悪い冗談だろう。今はまだ反応が上手なロボットの段階だ。だから澪が人間の気持ちを教えてほしいんだ。たのむ」

 澪は体中から汗が漏れた。自分に他人の面倒を見る資格があるのだろうか。部屋にごみは落ちているし、洗濯物は干したまま。料理の「り」の字もなく、カップ麺こそ最高の主食。しかも他人に騙される体たらく。もし自分の不手際のせいでアンドロイドが誤った道に進んでしまったら。取り返しがつかない。

「私にとっても世界にとっても画期的な実験なんだ。だからしばらくでいいから、お願いできないか。もちろん私も協力する」

 繭の口調は強引ではなく、むしろ心からの頼みに聞こえた。断ったら姉にも申し訳ない。澪は自分から「YES」と言う自信がなかった。でも繭がためらいなく「YES」と言ってくれたら、胸を張って引き受けようと澪は思った。

「私にできると思うの」

 数秒の間が空く。やはり繭もできると思っていないのだ。預ける人が他にいないから、自分に仕方なく頼もうとしているのだ。そう思い、「ごめんなさい」と言おうとした時、

「大丈夫だ。お前ならできる」

 繭は電話越しに澪の背中を押した。繭の言葉は力強く、微塵も逡巡はなかった。その瞬間、澪は閉ざされた殻の中から飛び出して、スタートラインに立ったのだ。澪は不安ながらも、引き受けると繭に告げた。覚悟などできてはいない。しかし背中を押されたら、前に進むしかない。

「ありがとう。アンドロイドはじきにお前の部屋を訪れる。精々かわいがってやってくれ。頼んだぞ。お前は面倒だとか思っているかもしれないが、きっとお前にもいい影響を与えてくれる。人は人と出会うことでしか変われない。人生を変えるいい機会だと思って、頑張ってくれ」

 孤独な生活に慣れた澪には痛い言葉だ。他人を受け入れる土壌が自分にはあるだろうか。自己完結の人生でもいいじゃないか。繭に不安のたけを話そうと思った。しかし、

「とにかく彼女とうまくやってくれ。話はそれからだ」

 と言って電話は切れた。

「一方的に切らないでよ。ほんとにもう、いつもこうなんだから……」

 電話をベッドに放り投げる。外は雨が降り始めていて、桜の花も冷たそうだ。何一つまともにできておらず、片付かない宿題がだんだんと積みあがっていく。犬も花も育てた経験がない自分が、アンドロイドと生活なんてできるのだろうか。ベッドに横たわり、足をばたばたさせながら、明日への虚ろな不安におののいていた。

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