バンジージャンプと妖術師とわたし
保険会社に営業として入社した22歳のわたしは5月の新人研修に参加した。その研修で次のようなスローガンが掲げられていた。
「自らのコンフォートゾーンをぶっ壊せ! そして未知のゾーンを開拓せよ!」
新人は「失敗したくない」「怒られたくない」「どう動いていいか分からない」という不安が強くてコンフォートゾーンに閉じこもりがち。そんな思考や行動の枠を超えて、未知のゾーンに一歩踏み出す勇気を持ってほしい。そうすれば営業スキルが磨かれ、数字も結果もついてくるようになる。
そんな意味らしい。
その研修の一環で、週末に課題が出た。
「自分の限界突破のために、一番苦手なことに挑戦して、その体験をビジネスに生かす為レポートにまとめる」という内容だった。
提出日は週明けの月曜日だったんだけど、その期日を守らないと罰則があった。その内容がヤバかった。
みんなの前でモノマネの歌を披露しなくてはならないという、悪い冗談みたいなペナルティだった。
藤井風かヒゲダン、もしくはAdoかあのちゃんのモノマネをしながら、どれでも1曲まるまる最後まで歌い切らなくてはいけないという地獄のペナルティだ。
「ペナルティの難易度高すぎだろ!」
新人みんなの間で文句やら嘆きやらがわらわら湧いてきた。わたしはといえばすっかり途方に暮れていた。
一番苦手なことに挑戦だと……? 一体何をしたものやら。
見当もつかなかったので上司に相談することにした。上司は俳優のえな●かず●氏のそっくりさんだった。 上司本人は否定していたけど、髪型や笑う時の目の細め具合とか、自らえな●氏本家に寄せにいっているようにも見えた。
「えな●かず●さんですか?」
そういわれた時に、「いやいやいや」と言いながら胸の前で縦に立てた右手を左右に動かす仕草まで、えな●氏そっくりだった。でも残念なことに上司は本家のような穏やかで人当たりのよさそうな雰囲気はなく、イライラしがちで言うことがころころ変わる気難しい人だった。でも機嫌のいい時には世話好きで頼りになることもあった。今日のえな●氏は鼻歌を歌いながら何かの図面をスキャンしていて機嫌がよさそうに見えたので、課題の相談をしてみることにした。
「あの、研修で出された限界突破のアイデアが浮かばなくて困ってます」 「それは知らんよ」 えな●氏はわたしの話をぜんぜん取り合ってくれなかった。そして「それも含めて自分で考えないとダメでしょう」と至極真っ当な意見を言ってきた。
「はい」とわたしは答えながら、心の中で「ダッテショウガナイジャナイカ」とつぶやいた。
「ん? なんか言った?」とえな●氏。
「いえ、なんでも」とわたし。
いつまでも席に戻らずその場に突っ立っているわたしをみて、メンドくさと思ったのか、えな●氏は助け船を出してくれた。
「……宮田が死んでも絶対にやりたくないと思ってることってなに?」
「え~、絶対にやりたくないのは……バンジージャンプですかね。あれだけは死んでもやらないって誓ってます。もう単純に怖いし、それに意味わからないですもん。なんでお金払ってわざわざ高い所から落ちなきゃいけないのか」
わたしは小さい頃からジェットコースターやフリーフォールが大嫌いで、内臓の浮き上がる感覚をちょっと想像しただけでも気持ちが悪くなった。
「それじゃない? バンジージャンプ飛んでレポートに書いたら? 一番苦手なことがそれなら、それがいいんじゃない」とえな●氏が言った。
無理無理無理、そんなのあり得ないって反射的に拒否感がわいてきたんだけど、でもよく考えてみたら、そんなに悪いアイデアでもないと段々思えてきたんだ。
じつはわたしは失恋したばかりで、ここ最近ずっとウツウツモヤモヤとした毎日を過ごしていた。研修や残業や休日出勤が多くてここ2か月の間、彼氏のリクとのデートの時間がぜんぜん取れなくて、さびしいとか、俺より仕事の方が大事なんだろ、とかずっと色々リクから言われてたんだ。近いうちに必ず埋め合わせするからと謝っていたんだけど、この前とうとう「こんなんじゃ付き合ってる意味ないよね」とフラれてしまった。
今までバンジージャンプなんて死んでもやるものかと思っていたけど、このタイミングで一回死んだ気になってやってみるというのも、なんだかアリな気がしてきた。
今ならできるかもしれない。過去を吹っ切って新しい未来へと進んでいくために、今まで避けてきたことにトライするのも悪くない。
あんな理由で私のことをフったリクのことなんか、早く忘れてしまおう!
研修課題をこなしながらプライベートの悩みも吹っ切れるなら、一石二鳥というものだ。
よーし、やってやろうじゃないの!!
そんなこんなで、わたしはバンジージャンプに挑戦してみようと決意したのだった。
5月末の晴れ渡ったバンジー日和の日曜日、多摩丘陵に広がるA遊園地に向かった。本当は土曜に行く予定だったんだけど、雨が降っちゃったので日曜日になった。すぐ家に帰ってレポートをまとめれば明日の締め切りには間に合うはずだ。たぶん。
A遊園地の園内に掲げられた地図を見てみるとバンジーのジャンプ台は一番奥にあった。楽しそうに賑わっている他のアトラクションにはわき目もふらずに奥へ奥へと突き進んでいった。景気づけに「Pump It」をガンガン聴きながらアドレナリン全開にした。Ha, ha, ha! 無理やりにでも気合を入れないと、バンジーなんかやってられない、マジで。
遥か先に赤と黄色のツインタワーが並んで見えてきた。そのとんでもない高さに茫然とした。
えーーーーあんな高さから落ちるなんて無理じゃない?
戦意を失いかけながら手元の園内マップを見てみると、60メートルあるそのタワーは別のアトラクションだった。黄色い方は座席が一気に垂直上昇するアトラクションで、赤い方は逆に一気に落下していくことで2Gのスリルを味わうものらしかった。その赤いタワーの隣に、高さ3分の1くらいのこじんまりとした鉄塔がひっそりと立っていた。それがバンジーのジャンプ台だった。
な~んだ、あんな低いところから飛ぶのか。よかった~タワーの方じゃなくて。あれならぜんぜん楽勝っしょ!
わたしはホッと胸をなで下ろした。
バンジーの受付で料金を支払った後、まずは地上で係員に手伝ってもらいながらハーネスを装着した。
「このまま階段をのぼってください。上にスタッフがいますから、その指示に従ってください」と係員が言った。ジャンプ台の高さを聞いたら、22メートルの高さでビル7階建てに相当すると教えてくれた。
階段は金網みたいなスケスケのタイプで、風が下からダイレクトに吹きあがってきた。スケスケなのは空気抵抗を少なくして塔の倒壊を防ぐためらしかった。途中で過呼吸なのか茶色の紙袋を口元に当てながら下りてくる男子高校生風の子とすれ違った。その子を両脇から支えている友達二人が「足元平気か」「少し休むか」と声をかけていた。リタイア組を見たら急に自分の動悸が激しくなって及び腰になっていくのがわかった。手すりにぎゅっとしがみつくようにしながら階段を一段一段ゆっくりとのぼっていった。いやに太陽がまぶしかった。
ようやくジャンプ台までたどり着くと、コンド●ハルナ似のベテランスタッフが待ち受けていた。銀縁のメガネを掛けた遊園地のコンド●ハルナは、もし誤って22メートル下のアスファルトの地面まで落下したとしても、ノーダメージですぐに起き上がってそのまま通常業務に戻れそうな頼もしい雰囲気があった。ベテランそうに見えたが、よく見たら同い年くらいかもしれなかった。コンド●ハルナはわたしのハーネスにゴム製のコードを接続した。
「つま先を台の端よりも外側に出すようにして下さーい」
ハルナの指示を聞いたわたしはへっぴり腰のまま、右のつま先を恐る恐るジャンプ台の端から外に出してみた。その瞬間、反対の左足がその場に釘打ちされたようにしびれて動かなくなった。どうやら恐怖で体が強張ったらしい。わたしは右足だけを前に出した、昔ながらの仁義を切るようなポーズのままフリーズしてしまった。しかたなくそのままの姿勢でスケスケの台から少しだけ下を見てみた。ジャンプ台の足元から地上までの間に、まったく何もない空間がひえびえと広がっていた。
「左足の方も出して、両足の指先をそろえて外に出すようにしてくださーい」とハルナが重ねて言ってきた。
ハルナよ、君の言いたいことはわかってる。そりゃそうさ、本当はわたしだってそうしたいさ。でもね、どうにもならんのよ。だって、この左足は1ミリも動かないんだから。
そのうちわたしの全身は生まれたての小鹿のように前後左右に震え始めた。自分の手が滑稽なほどブルブル揺れていた。知らなかったよ。人間って本能的にギリギリの恐怖に直面するとこんな風に体がおののくんだ。
楽勝なんてとんでもない! 22メートルの高さをナメたことをはげしく後悔した。ビル7階の高さはハンパじゃなかった。下界の保護用のマットがやけに小さく見えた。
今じゃないだろ! っていう変なタイミングでいろんなことを考え始めるのがわたしの悪いクセなんだけど、ここでふと思ったんだ。
なんでわたしはこんなに「怖い」って感じるんだろうって。我ながら不思議だった。
なんだかんだいってもマットはあるわけで、不思議と死やケガは怖くなかった。本当に怖いのは、そこじゃあない。じゃあ、一体なにがそんなに怖いんだろう?
どうやらわたしが恐怖を感じた対象は、死やケガといったものではなく、自分の足元の下にすっぱりと広がる「空虚」の方だった。何の安心も支えも存在しない、その得体のしれないうつろの空間に底知れぬ恐ろしさを感じていた。そんな信頼できない空間に身を預けるなんて、とても考えられなかった。
向かい風がびやうびやうと強く吹き付けてきた。まったく飛べる気がしなかった。リタイアという文字が脳裏に浮かんだが、それはどうしてもしたくなかった。自分に藤井風やあのちゃんのモノマネが出来るとは到底思えなかった。音痴のわたしがまったく似ていないモノマネをしながら一曲歌い切る。そのあとのドンズベリの空気を思うと、それはそれでゾッとした。「空虚」も「ドンズベリ」も、どっちも同じくらい地獄だった。
わたしは大好きな食べ物はすぐに口にせず一番最後までとっておくタイプなんだけど、イヤなことはさっさと先に済ましたい方なんだ。だから同じ地獄なら今目の前にある地獄をクリアすべしと考えた。とするとここは何とかして今ジャンプできるように気持ちを切り替えるしかなさそうだった。そしてレポートを仕上げて、モノマネ披露を回避するのだ。
そうだ! 恐怖に対抗するために、心の中にしめ縄を巡らせて「結界」を張るというのはどうだろう? 「結界」によって、恐怖が心の内側に侵入するのを防ごうというアイデアを思いついた。
飛べないのは22メートルの高さのせいではなく、高さや空虚を感じることによって生じる「恐怖」のせいだ。だから「恐怖」に心を支配されなければ、飛べるはずなのだ。
だけどエアしめ縄だけだと心細かったので、印も結ぶことにした。伊賀忍者の末裔だという小学校の用務員のおじさんに教えてもらった魔除けの印だ。一人あやとりの糸が絡まってほどけなくなってしまったような変な形の印なのだが、今は手が震えて印を結べそうになかったので、心の中でエア印をしっかりと結んだ。
「印」というのは結局「情報」なのだ、と忍者末裔のおじさんは言った。本来は当然手で結ぶものだけれど、どうしても手で出来ない場合には心で結んでも効果は同じだ。ただし本当にちゃんと結べるのであればな、と。
エアしめ縄とエア印が功を奏したのかわからないけれど、少ししたら気持ちが落ち着いてきて、なんとか両足のつま先を揃えることができた。下を見ると怖くなるので意識的にあご先をあげて遠くを見つめるようにした。今日は空気が澄んでいるのか、斜め前方はるか先にある新宿の高層ビル群がよく見えた。ハルナが次の指示を出した。
「はーい、オッケーでーす。揃いましたねー。では今度は左右のサイドバーを握って下さーい」
指示に従ってサイドバーを掴んだ時、姿勢的になんとなくうなだれる格好になってしまい、そのまま下の地上に視線のピントが合ってしまった。
しまった!!
あわてて顔をそむけたが手遅れだった。すでにビル七階建て分の高さを、ありありと認識してしまっていた。立体的な視覚情報が脳内に投影されたことで「結界」は破られた。
無防備な両の眼から恐怖が怒涛のごとく侵入してきた。猛々しい恐怖は脳内を我が物顔に土足で踏みつけながら辺りをつぎつぎと占領していき、わたしの精神を溶かすように蝕んでいった。
上空からひときわ強い風が吹いてきた。顔をあげて新宿方面に目をやると、今度は荒ぶる風の向こう側から無数のイメージの断片が小鳥みたいに、わたしの瞳めがけて飛び込んできた。
崩れ落ちゆく高層ビル、あっかんべーするあのちゃん、さらにスケていく階段、突風に高く飛ばされる紙袋、リクのはためくコートの裾、砕け散った青空の切っ先、破けてしぼむエアーマット、初夏のアスファルトのギラつき、角野卓造のはじける笑顔……
それらがコラージュされた断片が魔除けのお札みたいなものに変じていって、わたしの全身のいたるところにびっしりと貼り付いた。金縛りにあったように体の動きを封じられて指一本動かせなかった。閉じることも許されない目を見開いたままピン留めされた標本みたいにその場に固まってしまった。
ああ、もう今日は飛べないかもしれないな。わたしはいよいよあきらめ始めていた。恐怖で心と体を封じられたせいか、次第に弱気な自分が頭をもたげてきた。
なんかさ、そもそも無理して頑張る必要なんてどこにもないような気がしてきたわ……
そうだよ、限界突破なんかクソくらえだよ。いいんだよべつに突破なんかしなくて……
未知のゾーンなんてのも危ないから行かない方がいいし。現状維持上等だよね……
ホメオスタシスの力をなめんなよ! そんな簡単に人間なんて変われないよ……
そんなことを思いながらも、このままレポート提出が出来ずに研修室で地獄のモノマネを披露させられている自分の姿を想像すると、動けないまま震え上がった。
ヤダヤダヤダ、ソンナノヤダ! モノマネ、ゼッタイ、ヤタリタクナーーーイ!!
ハルナはわたしの異変に気付かないのか、普通に声を掛けてきた。
「はーい、それじゃあ、そろそろいきますよ!」
ハルナの声を聞いた途端、なぜか首まわりの縛りが解けた。あっ、瞬きもできる! 金縛りの一部が解けてホッとしたのも束の間、ハルナはさらにジャンプをせかしてきた。
「カウントダウンいきますよ。いいですかー?」
よくないよくない! 首しか動かないのにバンジーなんか出来るわけないでしょ!
「待って!」って言おうとしたのに、喉の奥がきゅっとしまっていて何の声も出せなかった。せめて動く首を使ってハルナとコミュニケーションを取ろうとして、何度もダメだと首を横に振ってみた。ハルナはそんなわたしを見て、なぜかニヤリと笑った。
「下にギャラリーもたくさん集まってきていますよー。カッコよく一発でキメてくださいねー」とハルナは追い打ちをかけてきた。
このハルナ、かなりのドSとみた。
そしてハルナは拡声器をおもむろに持ち上げると、カウントダウンを始めた。
「ハイ、いきますよー! サン、ニー、イチ!」
その瞬間、ハルナのメガネの銀縁の一点に収斂した太陽がギラリと反射した。その妖刀の一閃のような鋭い光を浴びた途端に、わたしの全身にキツく貼り付いていた無数のお札が霊力を失って瞬く間に剥がれ落ちた。すると体の縛りがゆるんで、恐怖があっという間に霧消していった。こわばりが解けて弛緩した体に新鮮な活力がみなぎり渡ってきて、視界が晴れ晴れとクリアになった。
「バンジー!」
ハルナが高らかに叫んだ。
ハルナ……こやつ、何者? 太陽の光を操り、わたしの恐怖の鎖を断つとは! こんなところにスゴ腕の妖術師がいたなんて……。
カウントダウンの一発目でキメなければ、二度と飛べないのは分かっていた。なんとか、このままいけそうな気がした。
遊園地のコンド●ハルナよ、ありがとう。
どうやら君のお蔭で、月曜日にレポートが提出できそうだ。
この借りは、必ず返す。
いづれまた会おう!
わたしは万感の想いをこめてハルナにニヤリと笑い返した。
別れの挨拶を済ますと、両腕で頭をしっかりと抱えこみ、スローモーションのように頭から全身を前傾させた。そして空虚の深淵の底に向かってどこまでも、どこまでも落ちていった。遠くでハルナの笑い声が聞こえたような気がした。
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