9真蔓の記憶
「この真蔓こそ、私にこの印を与えた真蔓です」
ヒガンは自身の手の甲を私に見せ、そして、その手で茶色くなった蔓に触れた。見た目は既に枯れているようだが、微弱な魔力を感じた。
「ヒガン様、不老の魔法は、その真蔓から得たのですか?」
私は気になっていたことを尋ねた。ヒガンの年齢は見た目通りではない。ヒガンの見た目は十代後半くらいにしか見えなかったが、ヒガンの言動から私はそう確信していた。だいたい永久魔法の研究書をこの若さで書ける訳がないのだ。
「そうですね。ただ、正確には真蔓に触れることで、不老の魔法は完成したのです。それまで私は不完全な魔法で若さと寿命を長らえていました」
ヒガンは、真蔓の表面を優しく撫でた。労るような仕草だった。私はヒガンを見つめながら、新な疑問を口にした。
「何故そんなに若さを保ちたかったんですか? 死が怖かったからですか?」
私の言葉にヒガンは首を振った。
「いいえ。不老の魔法に手を出したのは、死を恐れたからではありません。すべては魔法の研究のためです」
ヒガンはきっぱりと言った。
「"この研究の続きは、後の世の才能ある魔法使いに任すとしよう"魔法書の後書きによく書かれている文言です。あなたも見たことがあるでしょう?」
ヒガンに言われ、私はうなずいた。確かに、完成に至らなかった魔法の研究書の最後はその文言で締めくくられることがほとんどだ。
「それを見るたびに思うのです。何故完成するまで励まなかったのかと。何故後に続くとも限らない後世の人間に自分の大切な研究を託してしまうのかと」
ヒガンは強い口調で言った。そして、フーッと息を吐いた。
「しかし、魔法の研究に時間がかかるのは承知しています。魔法式の構築、適切な呪文の選定、呪文の詠唱実験、効果の検証、失敗からの再考察。一人の人間が一つの魔法を研究するだけでも膨大な時間と労力を消費します。人の一生は魔法研究をするには短すぎる。魔力を持つ竜は千も二千も生きるというのに。情けない話ですね」
ヒガンはそう言うと口をつぐみ、空を見上げた。物思いにふけっているようにも、涙をこらえているようにも見えた。
「真蔓に残された不老の魔法は、それはそれは美しい紋様でした」
ヒガンはここでうっとりとした表情を浮かべた。そしてまた痛みに耐えるような顔になった。
「そして、真蔓は私にとてつもない厄介な感情をもたらしました」
「何、ですか?」
私は嫌な予感がした。この先は聞かない方がよい。そんな気がした。しかし、私の口は思考よりも先に動いてしまい、すでに問いを発っした後だった。
「恋心です」
ヒガンは答えた。それは予想外の答えではあった。
「あの真蔓には、ある恋が封じ込められていました。叶わぬ恋です。私はその恋心に共感をしました」
「一体、真蔓の記憶にあった、その記憶の持ち主は、誰に恋をしていたんですか?」
私の好奇心は止まるところを知らないようだ。知らない方がいいこともあるというのに。
「あの真蔓に記憶を複製された魔法使いは、あろうことか、真蔓の竜に恋をしていたのです」
「真蔓の竜? あの千年に一度生まれれば奇跡と言われるあの伝説の竜?」
私が驚いて聞き返すとヒガンはうなずいた。
「ええ、そうです。…………真蔓の記憶には、険しい道を進む魔法使いの記憶がありました。この魔法使いは真蔓の竜を追ってここまでやって来ました。しかし、真蔓に触れた後の記憶はありません。あの魔法使いがどうなってしまったのか、私にはわかりません。残ったのは実に様々で強力な魔法の数々と激しい恋心だけでした」
私とヒガンの間に沈黙が流れた。私は自分の中にある疑問を口にするべきか迷った。しばらく迷った末、私は口を開いた。
「質問があります」
私の声は少し震えていた。
「他人の恋心にそんなに共感できるものでしょうか?」
私の問いにヒガンは苦しそうに微笑んだ。
「ええ、少なくとも私は共感しましたよ。私も真蔓の竜に会ったことがあるせいかもしれませんがね」
ヒガンは目を細めた。
「幼い頃に私は偶然出会ったのです。真蔓の竜はとても魅力的な存在です。記憶の中の魔法使いが恋をした理由もわかります。当時幼かった私にとっても彼女は魅力的な存在でした。彼女は、私に魔法の才があると言ってくれた唯一の存在でした。私の魔法への執着もそこから始まったのです」
ヒガンは熱を帯びた声で言った。そして、私の表情を見ると、ふっと息を吐き、落ち着きを取り戻して話し始めた。
「もちろん、記憶の魔法使いが恋い焦がれた真蔓の竜と、私が出会った真蔓の竜は別の存在ですよ。それでも共感するものがありました。この恋を得なければ、私は幸せになることはないのでしょうね」
何故だろう。私はヒガンの恋を成就させなければならないのではないだろうか。それも、長い時間をかけて。そんなことになるはずがないのに、そんなことが起こる気がした。
「いかがですか? 私のことが嫌になりましたか?」
ヒガンは穏やかな声で私に尋ねた。ヒガンは不思議と読心の魔法を私にかけてこなかった。私の内面には不穏の雲がわいていたので、それは有難いことではあった。
「いいえ。改めて確信しました。私にはあなたの魔法の知識が必要です」
私は答えた。
「それでは、手を」
私がヒガンに右手を差し出すと、ヒガンはその手を握った。手の平が一瞬チクリと痛み、私はびくりと肩を震わせた。
「あなたは、もう私の弟子ですから、自由にここへ来て頂いて構いません。これからはあなたが私に会いたいと思いながら、鏡に触れることで、私の合図がなくても、ここに来ることが出来ます。帰りたいと思って鏡に触れれば、帰れます」
ヒガンは私の手を離した。私の手には転移魔法が宿っていた。
「しかし、私との交流が他者に知れることがないように細心の注意を払ってください」
ヒガンは穏やかに言った。しかし、その目付きは鋭く、目に見えぬ敵を見据えているかのようだった。
「私はパンを注文していません」
ヒガンはポツリと呟くと、「戻りましょう」と言って私に背を向け、小屋に向かって歩きだした。私はおとなしくヒガンの後ろを歩いた。つまり、誰かが私を利用してヒガンと接触しようとした、といことだろうか。でも、誰が何のために? 疑問を口に出来ぬまま、その日私はヒガンと別れ、家に帰った。
三連休の最終日、私は自分でヒガンの家にやって来た。私はパンのかごを鏡台に置いた。ヒガンは居間の作業台で薬を小分けに包んでいるところだった。
「おはようございます」
私は挨拶した。ヒガンは私を見ると声を出さずにうなずいた。息で薬の粉が散らからないようにしたかったのだろう。意外だな、と私は思った。家事全般を魔法で瞬時に片付けてしまうヒガンが手作業で薬を包んでいる。私はヒガンが薬を包み終えるまで待った。作業が終わると、ヒガンは私の方を向いて改めて挨拶した。
「おはようございます」
ヒガンは、きれいに並べた薬の包みを私に見せた。
「風邪を召されたんですか? ヒガン様?」
私が真面目な顔で尋ねるとヒガンは吹き出した。
「私が服用するものではありませんよ。これは、依頼品です」
てっきり風邪で魔法の調子が悪いから手作業をしているのかと思ったが、違ったようだ。ヒガンは窓を軽く叩いた。すると、窓の外に小鳥が十数羽集まってきた。手の平くらいの小さな鳥だ。小鳥たちの羽の色には統一性がなく、色とりどりだ。遠目に見たら鳥ではなく、花に見えたかもしれない。ヒガンが窓を開けると、小鳥たちは、ピヨピヨ鳴きながら中に入ってきた。つぶらな瞳が可愛らしい。ヒガンが小鳥たちに視線を送ると、いつの間にか小鳥たちの脚に薬の包みがくくりつけられていた。小鳥たちは、窓から外へ一斉に飛び立っていった。
「他国の知人たちに薬を売っています。小鳥たちは、依頼と報酬を私に届けてくれるのです」
ヒガンは窓を閉めた。こんな森の中でヒガンがどうやってお金を稼いでいるのか、気になっていたが、その謎がこれで解けた。
「何か聞きたいことがあるようですね?」
ヒガンは穏やかな口調で言った。そんなにわかりやすい顔をしていただろうか。図星だったのが、少し恥ずかしかったが、私は口を開いた。
「あの、昨日、家に帰ってから思いついた質問ですが、あの真蔓はいつから枯れてしまったんですか? そもそもこの森には真蔓が生きられるほどの魔力濃度はないように思います。森の魔力が薄まったことで、真蔓が弱ってしまったんですか?」
私の質問にヒガンはふむ、と口元に手を当てた。ヒガンはしばし考えた後、口を開いた。
「正直に申し上げますと、真蔓に何が起こったのか、私にもよくわかっていないのです。私がこの森にやって来た時、この森には濃密な魔力が宿っていました。魔法研究に勤しむ私にとってこの森は魅力的でした。真蔓を発見したのは、この森の調査を始めて二週間程経った頃でした。真蔓は、魔力をみなぎらせた美しい緑色で、表面の文字のような模様も、光って見えるほどでした」
ヒガンはうっとりとした表情を浮かべた。ヒガンは本当に魔法の紋様が好きなようだ。
「私は、吸い寄せられるように真蔓に近づき、気付いたときにはもう蔓の表面に手を触れていました。私に真蔓の記憶が流れ込みました。そして、その時に地震が起きたのです。真蔓の記憶の流入がおさまった頃には、大地には亀裂が入り、真蔓はゆっくりと茶色く変色していき、亀裂の上にその身を横たえました。気付くと、森の魔力は薄まっていました」
「森の魔力が、真蔓を通してヒガン様に流れたということですか?」
私の問いにヒガンは首をゆっくりと振った。
「いいえ。私が森の魔力を得た訳ではありません。何が起こったのかわからないのです。私が真蔓に触れたことと、森の魔力が薄まったこと、そして、大地に亀裂が入ったこと。これら一連の出来事が関係していることなのか、いないのか、私にはまだわからないのです。ただ、私の好奇心が多いに刺激されたのは事実です。私はこの森に住み、真蔓の観察をすることにし、今に至ります」
しかし、とヒガンは続けた。
「未だに謎は解けないままです。あの真蔓は、弱っていますが、まだ魔力を放っています。なので、回復させられるのではないかと様々な回復魔法を掛けてみましたが、元の状態になることはありませんでした」
ヒガンは肩を落とした。もしかしたら、真蔓が弱る前の輝く紋様をヒガンはまた見たかったのかもしれないと私は密かに思った。
「ところで、私も質問があります」
ヒガンの目の光が鋭い。私は少し緊張しながら、なんでしょう、と言った。
「あなたと初めて出会った時のことです」
私は初めてヒガンに会った日のことを思い返した。私はヒガンにパン届けに来たのだ。手紙にあった小川が見つからず、迷子になり、上空から大地の裂け目を見つけたのだ。
「あなたは大地の裂け目を覗き込んでいましたね。あなたは何を見ていたのですか? それとも聴いていたのですか?」
ヒガンに問われ、私は、うーんとうなった。その時の記憶はすでに曖昧になっていた。
「裂け目の底が青く光っているのを見ました。それから、聞き覚えのある声を聞いた気がしましたが、何を言っているかまではわかりませんでした」
「そうですか」
ヒガンは残念そうだった。
「あの裂け目の底は、いつも青く光っているわけではありませんよ。光っている時の方が珍しいのです。この森の謎のひとつです。あなたが魅入られたように覗き込んでいる姿を見て、私は謎の手掛かりが得られるのではないかと近づきました。しかし」
ヒガンは口ごもった。
「その直後に奇妙な衝動に駆られました」
ヒガンは困った顔で私を見つめた。そんな顔で見つめられても、私も困ってしまう。
「実は」
またヒガンは言いよどんだ。黙ったまま私を見つめている。私はヒガンがまた口を開くのを待った。急かしたい気分は我慢した。私たちは黙ったまま見つめあっていた。実に奇妙な時間だった。ようやくヒガンの唇が動いた。そしてヒガンは言った。
「私はあの時、あなたを裂け目の底に落としてやりたい衝動に駆られたのです」
「ええっ!」
私は驚いて後退り鏡台にぶつかった。