6疑念
私は、せっせと魔法でパンを包装し、同時に会計の対応をした。休日のパン屋は忙しい。開店同時から閉店までほとんど休む暇はない。なので休日の勤務を嫌う者が多く、休日は希望休の取り合いで従業員同士のケンカが勃発した。しかし、休日勤務は平日勤務よりも給料がいいし、平日に三連休を取ることができる。私は率先して休日勤務をこなし、休日明けの平日三日間の休みを楽しんでいた。わざわざ休みの日に働くなんて馬鹿な奴だ。恋人がいないのもうなずけるわ。あの人のお陰で休みが取れるんだもの、有効活用すべきよ。そんな陰口を聞いたことがある。確かにそうかもしれない。私はこの世界で何がしたいのだろう。陰口を叩く者たちのように、恋人を作って一緒に遊びたいのだろうか。結婚して、子供を作って、血を繋ぎたいのだろうか。私はため息をつく。血を繋いだところで、もし、世界が滅びの道を進んだら? すべてが無意味ではないか。この世界だって滅びない確証はない。あの時、私が求めた正しさは、この世界にあるのだろうか。私に正しさを為す力はあるのだろうか。私は学ばなければならない。もっと高度な魔法を。学校で学んだこと以上のものを。だから、彼女との出会いは私にとって運命的だった。私はあの日のことを振り返る。
「私はパンを頼んでいませんよ」
ヒガンは、慎重さを感じさせる静かな口調で言った。私は捧げもっていたパンのかごをゆっくりと下ろすと、跪いたまま顔を上げた。
「さて、私はあなたに聞きたいことと言いたいことがあります」
ヒガンは、あごに手を当て首をかしげた。美しい黒髪がさらっと音を立てた、気がするくらい滑らかだった。
「あなたも、私に聞きたいことがあるでしょう?」
ヒガンに問われた私ははっと我に返った。確かに聞きたいことがある。しかし、何から聞いたら良いかわからなかった。ヒガンもあごに手を当てたまま、まだ考えているようだった。
「ふむ。こうしましょう」
ヒガンは両手で布を広げるような動作をした。いつの間にか白く四角い布が地面の上に敷かれていた。ヒガンは靴を脱いで布の上に座った。
「さぁ、あなたも」
私は言われるままに靴を脱いで布の上に座った。ヒガンは、また小さな声で「ふむ」と言った。まだ何かを考えているようだった。
「では、そのパンをあなたが召し上がって下さい。私は注文していませんから」
「え?」
私は驚いてヒガンを見た。
「さぁ、私のことは気にせずに、どうぞ召し上がって下さい。ただし、味の感想もお願いします。それから、パンはここで、一つ残らず召し上がって下さい。お代は必ず私が支払います。では、まずこのパンから」
ヒガンは、パンのかごを私から取り上げると、かごに掛けてあった布を外した。ヒガンは、かごを自身と私が中を見られる場所に置くと、紙に包まれたパンの一つを指さした。パンの包み紙には、中身が分かるように印がついている。彼女が指したのは私の好物の葡萄のパンだった。私はヒガンの顔を見た。ヒガンは、穏やかな表情だったが、有無を言わせぬ雰囲気があった。ヒガンは私に向かってうなずいた。私はおずおずとパンに手を伸ばし包みを開けた。葡萄のパンは、葡萄の房の形をしている。丸い葡萄の実の生地の中には干しブドウが一粒入っていて、それが甘味の少い生地に絶妙な味の強弱を与えるのだ。私はパンを食べ終えると、ヒガンに味の感想を伝えた。ヒガンは、なるほど、と呟くと次のパンを指した。私は次のパンの包みを開けながら、自分一人でかごのパンを食べきることが出来るか不安に思っていた。自分の普段の昼食に換算するならば、三日分のパンがかごに入っている。全部違う味なので、味に飽きることはないだろうが、お腹がいっぱいで吐き戻してしまうかもしれない。私は二つ目のパンを食べ終えると、感想を述べ、ヒガンは次のパンを指した。淡々と、かごのパンが無くなるまでそれは続いた。パンを食べ進めるごとに、私が食べ終わるまでの時間は増えていった。私は、パンをかじっては、休憩し、時間をかけてパンを食べ終えた。食べ過ぎたせいか、頭がぼーっとしていた。
「あなたに言いたかったことがあります」
私が何とかかごのパンを空にすると、ヒガンは改まったように言った。
「あなたは、私のことを魔女ではなく、大魔法使いといいましたね。この森で、私が出会った人間で私をそう呼ぶ人はいませんでした。私は嬉しかったのです。しかし、それは、あなたが私を大魔法使いと称えたからではありません。あなたがよく勉強していることがわかったからです。あなたが何を以て私を大魔法使いと判断したのか、言ってみて下さい」
「それは、その右手の甲の紋様です」
ヒガンの右手の甲には、赤黒い紋様があった。二重の螺旋のような模様を中心に四枚の葉が描かれている。葉には葉脈まで描かれているが、その葉脈は迷路のように複雑だ。
「それは、真蔓に辿り着いた証です。真蔓は並の魔法使いでは近付くことも出来ない場所に生息します。その紋様をあなたが得たということは、あなたは真蔓に近づくだけの能力を持っているということ。すなわち、あなたは大魔法使いです」
私の答えにヒガンは満足げにうなずいた。
「ええ、その通りです」
私はふとヒガンに聞かなければならないことがあるような気がした。しかし、それが何か頭に浮かんでこなかった。とにかく頭が回らない。
「さて、パンのお代はいくらですか?」
ヒガンに尋ねられ、私は反射的に金額を答えた。ヒガンは空になったパンのかごにお代を入れた。
「さぁ、あなたはもう帰りなさい」
ヒガンに言われ、私はすっと立ち上がった。私はてきぱきと靴を履いた。私の意思ではない。身体はヒガンに操られていた。私はこの場を去りたくなかった。私は必死に声を絞り出した。
「まっ、待ってください!」
「待つわけにはいきません」
ヒガンは地面に敷いた布を手に取り、畳む仕草をした。布はその手から消えていた。私はヒガンに背を向けて歩きだした。私は叫んだ。
「私をあなたの弟子にしてください」
背後でヒガンがため息をつくのが聞こえた。
「駄目です。私から魔法を学んでもあなたのためにはなりません」
「どうしてですか!」
私は足を止めようとしたが、どうしても止まれなかった。私の足は軽快に森の中を進んでいく。
「私とあなたは、色々な意味で相性が悪いのです」
ヒガンの声が遠くから聞こえた。私は焦った。この機会を逃してはならない。あの滅びの日を繰り返さないためにも、正しさを求めるためにも、私は学ばなければならないのだ。
「嫌です。お願いです!」
私は泣きそうになりながら叫んだ。
「私にも考える時間が必要です。時間が経ち、冷静になってなお、あなたの気持ちが変わらないようならば、機会があるでしょう」
私の足は急に止まった。私の目の前にヒガンが立っていた。私の目をヒガンの琥珀色の目が覗き込んでいた。私は息が出来なかった。身体が猛烈に熱くなった。
「私は息を吸うように魔法を使います。あなたはこうなるべきではないと思いますよ」
ヒガンは私の背後に回ると背中を押した。私はまた歩き始めた。獣避けの鈴がけたたましいくらい激しく鳴った。そして、あっという間に森の外に出てしまった。意外にも馬車は待っていた。御者の男は心配そうに私に駆け寄った。
「大丈夫かい。日が暮れる前に出て来てくれて、本当に良かった」
私は御者の男を見つめ、泣き出した。
「申し訳ありません。道に迷ってしまって。途中でお腹がすいてパンを食べてしまったんです。だから、お代をかごに入れておきました」
私は涙をぬぐい、鼻をすすった。
「申し訳ありませんが、このかごをパン屋の店主に届けて頂けますか? そして、私のことは家に送って下さい」
「わかったよ。さぁ、馬車の中で眠るといい」
「申し訳ありません」
私は馬車に乗り込んだ。途端に嘘臭い涙が止まった。私はハンカチで涙と鼻水を拭いた。しかし、今度は恐ろしく眠くなった。
「まさか、辿り着けないとは! くそ、期待外れだった」
馬車の外で誰かが怒鳴るのを聞いた。御者の男がなだめている。
「まぁ、まぁ。旦那、落ち着いて下さい。まだ成人前の子供なんだ。無理があったんですよ。全くかわいそうに。あんなに疲れ果てて帰って来て。パンを持っていて良かったですよ。空腹で歩けなくなっていたら、ここまで帰って来られなかったでしょう」
「ふん、役立つめ!」
誰かはまだ怒っている。
「旦那、もういいでしょう。あっしは、へとへとのこの子を家に送り届けなければ。さぁ、帰って下さい」
私はここで、意識が飛んでしまった。
家に到着すると、私は御者の男に起こされた。私はお礼を伝えると家に入った。私は疲弊仕切った様子で、両親に事情を説明した。両親は私を心配し、部屋で休むように言ってくれた。私は部屋で一人になるとベッドに飛び込んだ。馬車で眠ったにも関わらずまた眠気が襲ってきた。
「いつまで続くの? これ」
呟いた直後、私は眠っていた。
「ぐっすり眠っているわ。スープを作ったけど、いらなそうね」
夢うつつ母の声がした。
「夜中に空腹で目覚めるかもしれないから、置いておこう」
父の声もした。
「それにしても珍しいわね。この子が道に迷うなんて。初めての配達先だって絶対に迷わなかったのに」
「無理もないさ。あの北の森に行ったんだろう? 獣の気配に慌てて逃げて道を外れてしまったのかもしれない。それに、手紙がイタズラで目的の人物はいなかったのかも」
「確かにそうね。優秀なこの子が。何だか、この子らしくないもの」
「僕は、誰かこの子を悪く思う奴がイタズラしたのではないかと疑っているよ。仕事が出来る子で魔法の才能もあるから、誰かが嫉妬してやったのかもしれない」
「そういうことは、憶測で言ってはいけないわ。でも注意は必要ね。大事な我が子だもの」
「ああ、そうだね」
父か母、おそらく父の手が私の頭を撫でた。そして、二人はそっと部屋を出た。やっぱり良い両親だなぁ、と私はしみじみと感じながら、眠った。
翌日目を覚ましてから、楽しみにしていた三連休を私はひたすらに落ち込んで過ごした。時間の無駄である。休みが終わり出勤の日になってからも落ち込んでいた。魔法の性能もいつもより悪い。調子の悪い私への反応は様々だった。心配したり、哀れんだり、馬鹿にしたり。放っておいてくれればよいものを。店長の同情を買うために芝居をしているという者もいた。そう見えても仕方がないと自分でも思う。ヒガンは、私を操ってまで自分と接触した事実を揉み消そうとしている。いや、それなら私の記憶を消せば良い話だ。呼吸をするように魔法を使えるのだから、記憶操作も可能だろう。私に嫌な思いをさせて、弟子入りする気を失くさせようとしているのだろうか。私は仕事をしながらひたすらそのことを考えていた。
その日の夜、私はヒガンの魔法が少し薄れていることに気がついた。あれから、四日目だ。そろそろ試してみよう。私はベッドに仰向けになると、呪文を唱えた。集中して十五分くらいは、唱え続けた。そうしてやっとヒガンの魔法が綻んだ。私は淀みなく呪文を唱えた。さらに十五分くらいして、私はようやくヒガンの魔法の一部を解くことに成功した。解けたのは、精神操作の部分だ。これで落ち込んで元気のない状態から回復できた。次は、私の魔法を制限している魔法を解かなければならないが、すっかりくたびれてしまった。続きは明日にしよう。私は眠りについた。
次の日は、平日にも関わらず、客が多かった。試しにパンを魔法で包装できないか試したが、やっぱりうまくいかなかった。私も同僚もずっと動きっぱなしだった。仕事が終わる頃には、しゃべる元気もなく、何とか終わりの挨拶をして家に帰った。ヒガンの魔法を解く気力はなかった。
次の日は、余力を残して帰宅することができた。私は眠る前、またベッドの上で呪文を唱えた。しかし、先日の倍の時間を使っても半分しか解くことができなかった。私は疲れきって眠った。
そして、その次の夜、私はようやくヒガンの魔法を解いた。一時間以上呪文を唱えてやっとだった。魔法が解けた瞬間は、身体が一気に軽くなり、頭の中もすっきり爽快だった。何かの気配を感じ、私は鏡台の前に立った。そこには、ヒガンが映っていた。
「もう解いてしまったのですか?」
ヒガンは驚いていた。目を丸くしたその顔も見惚れるほど美人である。
「あなたを野放しにして置くのは、愚策ですね。あなたの弟子入りを認めましょう。あなたの次のお休みはいつですか?」
ヒガンに尋ねられ、私は明日から三日間だと答えた。
「では、明日に合図を送りましょう。決して自分で森を目指さないで下さい。必ず私の合図を待って下さい」
ヒガンはそう言うと鏡から消えた。鏡には間抜けな顔で立ち尽くしている自分が映っていた。念願の弟子入りが叶ったのはいいが、釈然としなかった。私はベッドに戻った。心の内はもやもやとしていたが、疲れが勝って私はいつの間にか眠っていた。
私はいつも大事なことを忘れている。