28ふたりの思い
目を覚ますと、必ず傍にはマツルがいた。マツルの微笑みを見て、ハヤは安堵する。私はまだ彼の傍にいられるのだと。
しかし、この生活が終わりを告げようとしていることは、薄々と感じていた。眠りが深くなってきているからだ。目覚める瞬間が最も辛い。粘性のある液体からもがきながら浮かび上がるような感覚だ。抗うことを許さないとでもいうように、その感覚は不快なほどに身体に絡み付く。目蓋が重く、胸が重く苦しい。そして、やっとのことで目を開けた。
「大丈夫かい?」
微笑むマツルにハヤは笑みを返した。またここに戻って来られたことが、嬉しく、その安心感につい口元が緩んでしまう。マツルがいつものように手を差し出し、ハヤはその手を取った。自然な動作でマツルは、ハヤを助け起こす。起き上がれば、視界に広がるのは美しい花畑。そしてその中に埋もれるように清らかな水を湛えた泉。まるで楽園のような光景だ。あまりに現実離れしている。それが、無性に悲しかった。ハヤは自身が醜い人間なのだという自覚があった。あの影に出会ってからは特にそう思うようになった。だが、マツルは違う。あの時、闇に満ちた世界の中でさえ、マツルは黒に染まることなく、目映く、清浄で美しかった。まるで自分と対極な存在だ。しかし、その傍にいることを乞わずにはいられない。もし、目覚めた時、彼がいなければ、自分は間違いなく絶望するのだろう。その時に、何が起こるのか? ぞわり、と胸の内がざわめいた。嵐の前の、木々の葉の身震いにどこか似た感覚だった。
「どうしたんだい?」
至近距離でマツルに覗き込まれ、ハヤの渦巻く思考は急停止した。マツルの冴えた空色の瞳に意識が吸い込まれそうになる。そして虹彩を縁取る赤い光。なんと神秘的で艶やかなのだろう。
「きみの瞳はいつ見ても美味しそうだね。樹の蜜を連想するんだ」
うっとりと見つめてくるマツルに、ハヤは頬が熱くなるのを感じた。
「からかわないで下さい。そもそもあなたには、食事の必要が無いでしょう? それなのに美味しそうなどという感覚はあるのですね?」
意図せず皮肉めいた響きを持った言葉にハヤは自己嫌悪した。だが、マツルは気にしていないようだ。それに安堵する自身の気持ちに気が付かないほど、ハヤは愚かではなかった。
「きっと真蔓の竜の記憶なんだろうね。オレを生んだ真蔓の竜は、ちゃんと生き物だったから」
マツルは、ふとハヤの背後に視線を送った。つられて振り返ったハヤだが、もちろん、誰がいるわけでもない。ハヤはマツルにまたからかわれたのだと思った。ハヤはなんだか振り回されているような気分だった。しかし、ハヤはマツルにその意図がないことをわかっている。わかっているのに、不満を覚えるのは、感情を持て余しているからに他ならない。
「ところで、マツル」
ハヤは口を開いた。
「なんだい?」
ハヤを見つめるマツルの視線はどこまでも優しい。それに、胸の痛みを感じるのは何故か。ハヤは言葉を続けた。
「私が眠っている間、あなたは何をして過ごしているのですか?」
ハヤに問われ、マツルはうーんとうなった。
「色々、という答えではきみは納得しないね」
「勿論です」
答えながら少し傲慢だったかしら、とハヤは思った。
「そうだね。世界の見回りをしたり、世界に成長を促す魔力を落としたり、卵の様子をみたり、未来について考えたり……」
マツルはにっと悪戯っ子のような笑みを浮かべた。ハヤは警戒した。
「きみの寝顔を見つめたり」
ハヤは顔がかぁっと火照るのを感じた。マツルは穏やかにハヤを見つめている。その言葉に、その視線に、意図がないと言うのであれば、それはハヤの思い込みに過ぎず、しかし、意図があるならば、意地悪と言っても、罪ではあるまい。
「……っ!」
ハヤは何も言葉に出来ず、ただマツルを見つめた。マツルは目元を緩めた。
「寝顔なんて、何がそれ程面白いのでしょう?」
気恥ずかしさを押さえつけ、やっとの思いで声を絞り出したハヤだったが、マツルは直ぐには答えなかった。マツルは片手で口元を覆い、心なしか俯いた。それに伴い、白いマツルの髪がわずかに揺れた。そんな些細な動作さえ、ハヤには息をのむ程、魅力的に思えた。何故、何故ここまで心惹かれるのだろう。
「面白い、とは違うんだ」
マツルは口元から手を離し、一音一音確かめるように言った。心なしか、その頬が淡く染まっているように見えるのは、ハヤの気のせいだろうか。
「ただ、きみを見つめているだけで、心が満たされるんだ。不思議、だね」
マツルは困ったように頬を掻いた。それを見て落ち着きかけた頬にまた熱が戻るのをハヤは感じた。ハヤは誤魔化すように口を開いた。
「あなたの想像する未来とは何なのでしょう?」
ハヤは尋ねた。マツルはどこか悲しそうに、寂しそうに、首を傾げた。その表情に喉がつかえるような、胸が詰まるような、そんな気分にハヤはなった。マツルの手がゆっくりと伸ばされ、ハヤの頬に触れた。そのまま、マツルは動かず、ハヤもまた、動けずにいた。マツルの冴えた空色の瞳が、ハヤの琥珀色の妖艶な瞳がしばらくの間、互いの色を確かめるように見つめあった。徐にマツルの手がハヤの頬を離れ、そして。気が付いた時、ハヤはマツルの両手に抱き締められていた。ハヤは息をする余裕さえなかった。
「ただ、オレは」
マツルの声は掠れていた。
「幸せを願っているんだ」
どうしてなのだろう。ハヤは思った。きっとこの気持ちは、傲慢なのだろう。ハヤはマツルの背に腕を回した。そして、その腕に力を込めた。どうして。ハヤは歯を食い縛った。マツルは、誰の幸せとは言ってくれなかった。"ハヤの幸せを"と言って欲しかった。ハヤはうなだれた。この感情は、己の傲慢だ、わかっている。ハヤは自分に言い聞かせた。ハヤは漏れそうになる嗚咽をこらえた。ただ、自分だけを見て欲しかった。ただ自分だけを認めて欲しかった。傍にいる存在として。共に生きていく存在として。この望みは叶わないのだろうか。マツルの腕の中にいるにも関わらず、ハヤは微妙な距離を感じずにはいられなかった。
ハヤの身体から力が抜けるのを感じながら、マツルはその腕に力を込めた。駄目だとわかっていながら日に日に強くなる思いは、マツルを戸惑わせるばかりだった。共に過ごした時間、交わした言葉、それら一つ一つが大切なものだと思えるようになった。だから、悔しかった。本音を言えないことが。しかし、その本音を言ってはいけない。それは間違いなくハヤの迷いとなるのだから。ハヤの人生は、これからだ。ハヤが自身の肉体を得てから。何もかも、そこからがハヤの人生の本番なのだ。未来の世界でハヤは出会う。ならば自分は、その腕をつかみ引き留める存在ではなく、その背を押し歩みを促す存在であるべきだ。だから、マツルは言えなかった。それだけで、相手の人生を左右するその言葉を。
あいしてる
ただ、ただマツルはそう伝えたかったのだ。




