22異変
大樹のうろに飛び込んだマツルは、白い少年の姿になった。魔力構造が震えているせいで、身体の動きがぎこちない。マツルはよろよろと花畑の部屋に入った。ハヤはまだ眠っていた。マツルはそろそろと慎重にハヤに近づいた。ハヤの寝顔は安らかだ。先ほどの影のように不穏な要素はどこにもない。姿を消したあの影がハヤの元に向かったのではと危惧していたが、杞憂だったようだ。良かった。マツルはほっと胸をなでおろした。マツルはそっとハヤの隣に腰を下ろした。そして、抱えた膝の上に額を押し付けた。そのまま意識を魔力構造の内側に向ける。先日起こった”共鳴”とは違い、呪われた影の存在は、構造に悪影響を及ぼしたようだ。震える構造を鎮め、修復と強化を行った。あの影に出くわすたびに、構造の震えが起こっていては、たまったものではない。あの影の強力な呪いの影響への防御を強化した方が良いだろう。意識を魔力構造に向け、修復・強化・組み直しを行うのは、非常に気を遣う。思考は、ああでもない、こうでもない、ああしよう、こうしようと忙しく動いているが、はたから見ていると、膝を抱えて休んでいるようにしか見えない。もしくは、ひどく気落ちしているようにしか見えない。少なくとも、目を覚ましたハヤの目にはそう映った。
目覚めたハヤはひどく珍しい光景を目にした。あのマツルが休んでいるのである。彼は抱えた膝に額をつけてピクリとも動かない。強がっていたが、やはり疲れがたまっていたのだろう。ハヤはのんびりとそんなことを考えた。なので、マツルを休ませてやろうと、自分は澄んだ泉のふちを歩いたり、咲き誇る花々の観察をしたりして過ごした。しかし、次第に退屈になり、マツルに何度か声をかけてみた。しかし、マツルに反応はない。その様子を見て、ぐっすり眠っているようだと、ハヤは勘違いした。ならば、彼が自分に対してそうしてくれるように、思う存分寝させてあげよう。ハヤは独りうなずいた。
ハヤはしばらくの間、マツルの隣に座ってマツルが動き出すのを待っていた。しかし、いくら待ってもマツルは微動だにしなかった。その内、ハヤは外の気配が気になりだした。ざわざわと細かな虫がうごめくような音が聞こえてくるのだ。不快感を伴い、そして不安な気分になる音だった。ハヤは外を覗きに行こうか悩んだ。マツルが早く起きてくれれば良いのに、と思った。マツルに視線を落とせば、彼はまだ自分の膝に額を押し付けたままだ。
「マツル?」
呼んでもマツルは動かない。
「マツル!」
少し強めに呼んでみても、反応はなかった。よほどいい夢を見ているのだろうか。それならば、起こすわけにはいかない。ハヤの勘違いはすさまじかった。ハヤはそろりそろりと静かに花畑の部屋を出た。緩やかな曲線を描く階段を上り、壁に等間隔にくぼみが開けられた部屋へ。この部屋も、マツルは一向に使う様子がない。マツルは何を考えているのだろうか。傍にいるのに、マツルの考えていることは、さっぱりわからなかった。しかし、それに対して苛立ちはない。むしろ、その行動は、驚きに満ちていて、飽きることがない。とても面白い存在だ。
さて、とハヤは天井付近の壁を見上げた。壁には穴が開いていて、マツルはそこから出入りしている。そこには、蔓で出来た梯子が設置されていた。この梯子は、もともとはついていなかったが、ハヤが自力で穴の外に出ることは出来ないので、マツルに作ってもらったのだ。一人で外に出る用事が無いのなら必要ないだろうに、とマツルは呆れた様子だった。しかし、マツルなしでは外を覗くこともできないというのは、まるでかごの鳥のようで。マツルにそう言うと、勝手に外に出ないことを条件に渋々梯子を付けてもらえた。ハヤはもともと独りで外にいた。ならば、また外に出ても問題はないと思うが、何故かマツルはハヤが独りで外へ行くことを嫌がった。マツルの言い分としては、マツルにとってハヤは正体不明の存在なのだそうだ。マツルが創ったこの世界で、マツルの意図に関係なく現れた存在。この謎を解き明かせない内は、離れて欲しくないとのことだった。
「そういうところは、ちょっと傲慢ですよね」
ハヤは呟いた。そして、蔓の梯子に足を掛けた。ふとハヤは動きを止めた。自分の透き通った手では、握った蔓が手を透かして見えてしまう。それでも触れることが出来る。身体が透けているのなら、触れられないほうが自然なのだろう。こういうところがマツルがハヤに対して不思議に思うことなのだろう。ハヤはそんなことを考えながら、梯子を上っていた。足場に足を掛けて踏み込めば、蔓がしなる音がする。地味に体重を実感する。透けているけれど重さもある。それは、自分が幻ではなく、確かに存在している証明だ。考え事をしているうちにハヤは、穴のふちにたどり着いていた。外から聞こえる虫がうごめくような音は、疑いようもなくはっきりと聞こえた。ハヤは恐る恐る穴から外を窺った。
外は暗闇が広がっていた。光は何一つない。夜ならば、本来、水面の瞳とマツルが名付けた星が柔らかな光で大地を仄青く照らしているはずなのに。そして暗闇からは、細かな虫の羽音のような、甲虫が身体をすり合わせてうごめくような、不愉快な音にあふれていた。これが正常な状態なわけがないだろう。一体どうしてこうなってしまったのか。マツルは、自分が眠っている間に何をしていたのか。マツルが動かないのは眠って休んでいるのではなく、何か失敗してひたすらに現実逃避をしているだけなのではないだろうか。そう思うと、憤りが湧いた。ハヤは物事を半端に投げ出すことは嫌いだった。やるからには徹底的に最後までやり抜かなければ気が済まない。と、ハヤは視線を感じた。暗闇の中に何かがいる。白熱した一対の瞳が、ハヤを見据えていた。それにひどく心を惹かれた一方で、感じたのは、嫌悪だった。
「あなたのモノですよ?」
恭しくそう告げられた。ハヤは首を振った。閉ざされている記憶から、何かが浮かび上がろうとした。それは、暗く醜い感情。伸ばされた手を振り払い、しかし、差し出された手にすがりつく浅ましさ。されど、あの子は。自分を引き留めようといつもそばにいてくれた。そして、彼らは。行く先にあるものを信じて共に歩いてくれた。浮かびかけたものは、すぐに記憶の泥に沈み始めてしまう。それらが沈み切る前にと、ハヤは思いを声にした。
「抗えと、言ったのです!」
ハヤは叫んだ。あの子は誰だったのか、どこへ行ったのか。彼らは何者だったのか。何処へと消えたのか。泥に沈んだ思い出は、すでに黒に侵され、何一つハヤに映してくれない。抗えとは? その根拠は? 今のハヤにはこの思いを裏付けるものが何も無いのだ。
「夢見る乙女は捨てなさい。あなたは、魔女なのですよ? さぁ、目を覚ますのです」
残酷な言葉は、しかし暗闇から誘うような甘い猫なで声で紡がれた。
「嫌です!」
思わず拒否の言葉を口にしたハヤだったが、甘い声色に心が惹かれ始めていた。暗闇から招く甘い声が紡ぐ言葉は真実なのだと思われた。正しいのはあちらのだと感じていた。その手を取れば、きっとぼんやりと生きることしかできていない自分は生まれ変わることが出来るだろう。ハヤの心の迷いを察したのか、白熱した目は満足そうに細められた。ハヤに向かって真っ黒な手を伸ばした。ハヤは蔓を握る手を緩めた。伸ばされた手を握り返そうと透き通った白い手を伸ばす。逃げなければ。ハヤの頭に警鐘が鳴り響く。しかし、ハヤの手はすでに黒い手に触れようとしていた。この手を握れば、すべての憂いや悩みから解き放たれ、すべてを無に帰すことが出来るだろう。瞬間、穴の内と外との境界で柔らかな白い光が黒い手を阻んだ。マツルの防護壁だ。呪縛から解かれるように身体が動いた。そして、自身が今しがたしようとしていたことに激しく嫌悪した。ハヤは、梯子から手を離し、足場を蹴って飛び下りた。着地の瞬間、足裏と膝にそれなりの衝撃を受けた。ハヤは歯を食いしばり、痛みに数秒動きを止めた。ハヤは何とか立ち上がると、情けない気分になりながら、マツルの元へ走った。




