17蛾の囁き、鳩の呼び声
また闇の中だ。今回は、痛みはなく、ただ寒さに震えていた。両手首・両足首は魔法を封じる呪具で縛られている。私は、身体を丸めた状態で横たわっていた。背中は壁に当たっており、足を動かすとつま先もすぐに壁に当たった。壁に身体を押し付けるようにして何とか立ち上がった。両手は身体の前側に、しかも、縛られているのは手首だけなので、私は、腕を上げて目一杯背伸びした。念のため、その場で飛び跳ねてもみた。しかし指の先が天井に当たることはなかった。暗闇でほとんど見えないが、天井はかなり高いようだった。私は、壁に背中を滑らせてずるずると腰を下ろした。ここは、王城の地下牢の中でも、重罪人が収容される終身牢と言われる場所だろう。ここに入れられたら最後、水も食事も与えられず、死ぬまで扉は開かないと聞いたことがある。普通の人間だったら三日かそこらで死んでしまうだろう。しかし、私はただでは死ねない。ヒガンが私に与えた黒い心臓は、呪われた魔力だった。他人に自分の呪いを分け与える行為を呪授と言い、呪いを受け取った者のことを呪受者という。この強すぎる魔法は、水と食事を与えない程度では、私を殺すことが出来ないほどに、私の命を強く守っていた。
私は、ほとんどの時間を眠って過ごした。目を閉じていても開けていても真っ暗なのだ。魔法も使えない以上、出来ることは何もない。そもそも、何かをする気力は残っていなかった。私は、ヒガンを世界を呪い滅ぼす永久魔法に変えてしまったのだ。私は、永久魔法を完成させれば、ひとまずヒガンの魂を、その自我を守ることが出来るのだと考えた。だが、それは間違いだった。あの時、ヒガンは世界を憎んだのだろう。生きながらに火をつけられ、苦しむ姿を大勢の人間にあざ笑われ、どんなに辛かっただろう。ヒガンを思うと胸が苦しくなった。ヒガンは火に飲まれ、人格が変わってしまった。あの優しかったヒガンは、もういないのだろうか。奴らは罪もない人間を永久魔法を作るために火刑にしたのだ。罪をでっち上げ、火刑を執行することの大義名分を得、北の国を攻めるための力を手に入れようとしたのだ。なんて傲慢で愚かな行為だろうか。ヒガンは、北の国と密通なんてしていないはずだ。王国魔術師団の師団長が持っていた手紙は、ヒガンの火刑を実行するために捏造したものだろう。そう思うと怒り、そして、悲しさと虚しさで何も考えたくなくなった。私はギュッと目を瞑り、身体を丸く縮めた。
どのくらいそうしていたのだろうか。暗闇の中では、時間の感覚が全く分からない。もう、自分が起きているのか、眠っているのかもわからなかった。と、水色に輝く何かが近づいて来た。寝ても覚めても暗闇の中の私にとっては、久しぶりの色彩だった。ああ、これは夢だな、と私は思った。夢を見るのも久しぶりだった。この地下牢にきてから、暗闇以外の夢を見ることは一度もなかった。
『闇、それは心鎮まる”地の底に御座す者“の腕』
水色に輝く何かは囁いた。落ち着いた穏やかな声だ。それは、私の顔のあたりまで近づいて来た。よく見ると、それは蛾だった。水色に輝く羽を持ち、身体は真っ白だった。まるで妖精のような姿だった。
『こちらへ』
蛾が言った。私は、蛾の言葉に従い、起き上がると、蛾について歩いた。いつの間にか、手と足を拘束していた呪具が外れていたが、これは夢だから当然だと思った。蛾はひらひらと優雅に飛んだ。次第にあたりが明るくなっていった。薄暗い地下から、明るい地上に出て、私は思わず目を覆った。ようやく明るさに慣れると、水色の蛾はすでにかなり先の方を飛んでいた。私は小走りに蛾を追いかけた。追いかけながら、随分奇妙な夢だと思った。と、まぶしいだけだった景色が輪郭を帯び、見覚えのある風景になった。そこは、元居た世界の交流公園だった。私とアライがボノさんと出会った場所だ。
交流公園とは、交流日に、上層区民と下層区民が交流することが出来る場所だ。交流公園は、上層区と下層区の境のあちこちに設けられていた。私たちの国では、生まれてすぐに選別があり、上層区民となるべきか下層区民となるべきか判断される。それは血縁ではないため、生みの親と離れ離れになることも多々あった。上層区民の子でも、選別で下層区民と判断されれば、親元を離され、適性診断で選ばれた下層区民の親に預けられるのである。逆もまた然りである。交流日は、上層・下層に分けられた家族や友人たちが交流を許される日だった。私とアライは幸いにも生みの親と同様に下層区民だったため、交流日でないと血縁の家族に会えないような境遇にはなかった。しかし、交流日にしか解放されない整備が行き届いた美しい公園で遊ぶことが出来るのは、数少ない楽しみの一つだった。その日、私は、アライと一緒にバドミントンをして遊んでいた。別に勝負をしているわけではなく、ただ延々と打ち合うだけの遊びだ。気分によってはキャッチボールをしたり、サッカーボールをパスし続ける遊びをしたりしたが、その日は、バドミントンだった。しかし、風が出てきてシャトルが飛ばされてしまうので、遊びは中断した。飛ばされたシャトルを拾い、まだ時間があるからサッカーにしようかと、アライと私が話していると、何枚もの紙が飛ばされてきた。私とアライはそれを反射的に捕まえた。取り損ねたものも追いかけて拾った。見ると、それは病気の診断書やら薬の説明書、交流日のカレンダーに、配給日のカレンダーなど重要な書類ばかりだった。私とアライは持ち主を探した。すると、木陰のベンチでおぼつかない動きで立ち上がり、足元の紙を拾い上げている人物がいた。あの人のものに違いない。私とアライは駆け寄ると、その人物に書類を渡した。その人物は、ほっとした顔をした。
「ありがとう。わたしは、身体がこんなだから、動きが鈍くって。助かったよぉ」
その人はゆったりとした口調で言った。上層区民の服を着ていた。年齢は、私とアライよりも少し年上に見えた。痩せて青白い顔をしていた。首には桃色の貝殻の形をしたポーチを下げていた。その人はベンチに置いてあった布のカバンの口を広げると書類を中に入れて欲しい、と私たちに頼んだ。そのカバンを広げる仕草もこちらがじれったくなるほどぎこちない動きだった。アライは、書類をきっちりと向きをそろえて中に入れてあげた。
「ありがとう。お礼がしたいけど、どうしようか? そうだ、自動販売機って知ってる? 下層区にはないって聞いてるよ。おいしいジュースをご馳走してあげよう。さぁ、いこう!」
その人は、意気揚々と、しかし、よろよろと歩き出した。
「あの、お礼なんて大丈夫ですよ」
私は言ったが、その人は「いいの、いいの」と先に歩いて行ってしまった。
「どうする?」
私とアライは顔を見合わせた。
「悪い人ではなさそうだよな……」
結局、アライと私は、その人の後についていくことにした。よろよろと今にも倒れそうに歩くその人に追いつくことはいとも容易いことだった。アライは、その人に追いつくと、身体を支えて歩く補助をしてあげていた。私はというと、アライの真似をしようにも身長が足りなかった。
自動販売機とやらは、交流公園と上層区の境界辺りにあった。私とアライはこの辺りまでは来たことがなかったので、気が付かなかった。いくら交流公園といえど、下層区民は、上層区に近い場所に入ってはいけないと言われているのだ。しかし、その人は、にこにこしながら、私たちに手招きをした。服装を見れば、私たちが下層区民なのは明らかだが、その人はあまり気にしていないようだ。
「どれがいい?」
私とアライは戸惑った。自動販売機には、飲み物の名前と思しきものが書かれた、円柱状の入れ物が展示されているが、名前を見てもどんな味がするのか私とアライでは全く見当もつかなかった。
「じゃあ、わたしのおすすめでいいね?」
その人は、貝殻のポーチからお金を出すと、自動販売機に入れ、ボタンを押した。ボタンを押すと、下の受け皿に飲み物がゴロンと転がり出た。その人は、その動作を繰り返して、飲み物を三本買った。私とアライは、興味津々にその人の動作と自動販売機から吐き出される飲み物の様子を眺めた。その人は、出てきた飲み物を私とアライに渡した。受け取った筒状の飲み物の容器は、とても冷たかった。動いて汗をかいた後の私とアライにとっては、それだけでおいしそうに思えた。
「一緒に公園のベンチで飲もうよ」
その人は、またよろよろとベンチの方に戻った。アライが再び歩く補助をしてあげた。役に立てない私は、大人しくその後ろを歩いた。
何故か私を真ん中にして、三人でベンチに腰掛けた。その人は、飲み物の容器の開け方を私たちに説明した。私たちは、説明通りに容器を開けた。口が開くと、プシュッと音がした。恐る恐る口をつけて見ると、その飲み物はピリリと刺激がある甘くて爽やかな飲み物だった。何より冷たさが熱を持った喉に心地よかった。
「そういえば、まだ自己紹介していなかったね。わたしは、ボウノだよ。ボウノ=ノボリ」
ジュースを飲み終えた頃、その人は言った。
「アライ」
アライが答え、私も「シマ」と名乗った。するとその人は、フルネームを教えて欲しいというので、私たちは改めてフルネームを名乗った。すると、その人は、目を見開いた。大きく開いた目は、何故か涙で潤んでいる。
「アライグマ君とシマリス君じゃない! これを運命と言わずして何と言うのだろう!」
確かに言われてみると、私たちの名前はアライグマとシマリスに近い名前だった。しかし、何故それが運命なんだろう。私たちが首をかしげていると、その人はカバンの中から漫画本を取り出した。
「これ、わたしの愛読書なんだぁー」
その人は、漫画本を開いてみせた。そして、私たちは納得した。その漫画の登場人物にアライグマとシマリスがいるのである。主人公はいまひとつ何の動物かわからなかったが、アライグマとシマリスは主人公の友達のようだった。
「シマリス君には、ボクのこと”ボノボノちゃん”か"ボノちゃん"って呼んで欲しいなぁ」
その人は私の顔を見ながらそう言った。その人は、青白かった頬を幸せそうに赤く染めていた。そんな顔で頼まれては、断りにくかったが、しかし、年上の人を「ちゃん」付けで呼ぶには抵抗があった。
「”ボノさん”でもいいですか?」
「いいよー」
ボノさんはにこにこして言った。それがボノさんとの出会いだった。
私はいつの間にか泣いていた。あたたかい涙が冷たい頬をいくつも伝い落ちた。よりによってボノさん達の夢を見るなんて。
『君には、まだ心が残っているね。ならば、ここから出るべきだ』
水色の蛾が言った。どこかで聞き覚えのある声だった。闇が戻ってきた。何かが崩れる轟音が響いている。まるで地震が起きたかのように足元も揺れていた。私は壁にしがみついていたが、それは地下牢の壁ではなかった。硬質で滑らかな何かだった。私は何かに守られるように体を覆われていた。まるで巨大な生き物の翼の内側に匿われているようだ。轟音がやむと、私は急に体の力が抜けてしまい、気絶した。
私は再び闇の中に戻って来た。寒さは感じなかった。むしろ、身体が暖かい。手足の拘束が解けたのは夢の中のはずだったのに、手足は自由に動かせるようになっていた。と今度は、鳥の鳴き声がした。
クックッポー、クックッポー、クックッポー
鳩の鳴き声である。私は地下牢にいるはずだ。今まで鳥の声はおろか、人の声だって聞こえて来たことはなかったはずだ。夢で蛾に話しかけられた気がするが、それだって夢の中の出来事だ。
クックッポー、クックッポー、クックッポー
鳩はしつこく鳴いていた。少しうるさく感じられた。鳩は近くにいるようだ。私は目を閉じていることに気が付いた。しかし、目を開けてもどうせ暗闇の中なのだから、別に閉じたままでも構わないだろう。ここは、地下牢なのだから。それにしても、横たわっている床は柔らかいように感じた。
クックッポー、クックッポー、クックッポー
鳩はまだ鳴いている。一体どこにいるのだろうか。私は、気を失う前に地震があったことを思い出した。多分、建物の一部が崩れて、地下牢付近まで亀裂が入ったのだろう。そこに鳩が入りこんだに違いない。しばらく鳩の声を聞いていると、鳴き声が違うように聞こえて来た。まるで、人間が話しかけているように聞こえるのだ。いや、そんなはずはない。私は耳を澄ませた。
おチビさん、起きたかい? おチビさん、起きたかい?
私は目を開けた。明るい! 見覚えのある天井だ。私は起き上がった。私は小さなベッドの上にいた。見間違うはずもない。ここは、ヒガンの部屋だ。私はベッドからふらふらと下りると、居間に向かった。空の鍋が吊るしてある暖炉、窓辺の作業台、ヒガンと一緒にパンを食べたテーブル、そして鏡台だ。なつかしさに思わず涙が込み上げた。私は袖で目をぬぐい、鏡台に触れた。鏡台は扉の姿に変わった。私は転びそうになりながら外に出た。すると、近くの木に鳩がとまっていた。鳩はしっかり私の方を向いていた。
「クックッポー。起きたね、おチビさん!」
嬉しそうに鳩が言った。ああ、と私はその場に座り込んだ。この声は聞き覚えがある。
「どういうことですか、ドバト!」
鳩はうるさく羽ばたくと、人の姿に変身した。見間違えるはずもない。ドバトだった。