1はじまりの日
そこでなぜ笑うのか、そう思ったことはないだろうか。 ここに来て真っ先に浮かんだのはその事だ。今の私の状況も笑いの対象になるのかもしれない。
闇は深い。黒々としているのに、まるで霧の中にいるかのように細かな粒子がうごめいているのがわかる。闇とは静寂のある場所。私はそう考えていたが、ここはそうではなかった。はじめは、落雷の音に似ていたが今では巨大な建造物が崩れるような轟音だ。耳の奥に突き刺さるようだ。耳を塞ぎたいが、腕の感覚がない。自分の手がどこにあるのかもわからない。何も見えないのだ。そして、唐突に身体が痛みだした。炎に焼かれているかのようだ。凄まじい自分の叫び声で喉が裂けた。倒壊する音が響く。
笑い声がした。
誰かが犠牲になった。なのに、何故。
対岸の火事だからなのか。
激しい痛みに私は再び悲鳴を上げた。が、もう声らしい声は出なかった。渦巻くような闇は、破壊の音を繰り返している。
私には、魔力があった。しかし、私の生きる世界に魔法はなかった。何に使うことも出来ない力を私は持て余していた。だから、私はおとぎ話に憧れていた。いつか、魔法使いの師匠が現れて私をこの平凡な生活から連れ出してくれることを願った。そんな日は訪れなかったけど。
平凡は、平和だった。いつしかそれでいいと思った。世間の目をある程度気にしながら、程々に人生を楽しめばいいと。時折、内なる魔力がうずいた。そんな時は、胸を締め付けられるような虚しさを感じた。そして、ある時夢を見た。それは、内なる魔力の使い道だった。
ふと、痛みを感じなくなったことに気がついた。音も聞こえない。おそらく、この静寂は、耳がおかしくなったことによるものだろう。おかげで、私の回想は続いた。
魔力の使い道に気づいたとき、私は自分の妄想を嘲笑った。なんと愚かだったのか。たとえ、おとぎ話のように魔法使いの師匠とやらが現れたとしても、私の魔力は指導に値しない。私の魔力の使い道は一つしかなかったのだ。それに気づいてからは、魔力が疼いたとしても、無視できるようになった。見ないようにしていれば、虚しさを感じずに済んだ。
そんな私に転機が訪れたのは、対岸の火事だと思っていた炎がこちらの岸にまで迫ってきたときだ。笑っていた者たちは、急に静かになった。ところで、私は政に興味はない。興味をもったとしても、私に何ができたのだろう。身分は低く、家族に従い、わずかな友人と馴れ合って生きるだけの私に。そんな家族や友人も、降りかかった火の粉によって、ひとり、また一人と姿を消した。
政とは、恐ろしい。為政者の判断一つで日常が崩壊するのだから。結果は見えているはずなのに、踏みとどまることが出来ない。理性を失った獣のように破滅の道を駆け抜けた。
運命の日、私は外を歩いていた。良く晴れた空に心を惹かれたのだ。本来は、決められた時間にしか外出は許されていない。決まりを破った友人は、監視者に棍棒で散々に叩かれた挙げ句連れていかれてしまったらしい。しかし、今は、どうだろう。道のあちこちに配備されていた監視者は、もうどこにもいない。私は遠くを見やった。ぼんやりと銀色の塔が空に刺さらんばかりそびえている。あそこに友人は連れていかれ、未だ帰らない。一体あの場所で何が行われているのか。私は塔から視線を外した。友人があちらに行ってから私は塔が目に入らないように努めた。しかし、あの塔には魅力があった。心が惹かれるのだ。私は大きなため息をついた。胸の疼きにともなう虚しさを吐き出すためだ。そして、ゆっくりとした歩調で生まれ育った街を散策した。
しばらく歩き回り、少し疲れを感じ始めた頃、地面が揺れた。地震かと思い、周囲を確認したが、倒れてくるものや落ちてくるものは無さそうだ。そろそろ家に帰ろうか、そう思った時、道端にうずくまって泣いている女を見つけた。女のそばには、中身が入った配給袋が落ちている。女は、愛してる、愛しているわ、と何かに話しかけていた。名前のような単語も聞こえたから、ここにはいない誰かに向かって言っているのだろうが、気味が悪かった。狂いめ、と心の内で舌を打って、女の横を通り過ぎようとした。と、急に女は立ち上がり、私の肩につかみかかった。
「あなた、あなたもどうか祈って!」
その手を振り払おうとし、私はようやく異変に気がついた。私を外に誘い出した青空が黒く染まっていく。私は銀色の塔を見た。黒は、その先端から吐き出されているように見えた。黒は空を覆い尽くし、銀色だった塔は赤く燃えていた。ああ、何ということだろう。私は絶望した。もし私が、身分が低いからと諦めていなければ、よくわからないからと目を背けていなければ、何かが変わっていたのだろうか。あの塔の先端から強大な魔法の気配を感じた。この世界には、魔法はなかったのではないのか。いや、違う。ここにあるじゃないか。私は胸に手を当てた。ならば、他に魔法が存在していてもおかしくはない。
「ああ」
思わず声が漏れた。不意に肩が軽くなった。女は、私の肩から手を離し、地面にへたり込んでいた。
滅びよ、世界!
爆音が轟いた。そして、私はなす術もなく闇の中に放り出されたというわけだ。
痛みも音も感じなくなった私はいよいよ決断を迫られていた。内なる魔法を使うか否か。答えは、決まっていた。正しさを求めよう。そこに私の心の平安があるならば、それに相応しい場所を求めなければならない。私は生まれて初めて内なる魔力に呼び掛けた。
「起きろ!」
音が戻ってきた。パァンという破裂音が胸のあたりからした。そして、そこから水が狂ったように溢れだした。生温い水だった。私は反射的に身体を丸めた。水は、私を包み込んだ。そして、私の意識は遠のいていった。意識が消える刹那、誰かの声がした。
お前も歯車の使いならば、世界を回しに行くが良い。
私は青い光を見、そして、消えた。