1 婚約破棄は「ついで」だった
王城の大広間には緊張感が漲っていた。
王太子ジョンの名で重大な発表があるとの書状が緊急に国中の王族貴族に届けられたのだ。
何事が始まるのか? ざわめく王族貴族たち。
それにしても奇妙だ。当のジョンの姿は見えない。壇上にいるのはいかにも「武闘派」と言った若手貴族たち。本来そこにいるべく閣僚である貴族たちは何も知らされず、普通の席にいる。みな当惑顔だ。
いや壇上にいないのは閣僚たちだけではない。王太子の弟妹である第二王子リチャード第一王女エレノアもだ。しかし、閣僚たちに比べ、落ち着いているようにも見える。
そして、ここに普通の席にいる女が一人。ジョンの婚約者イザベラ侯爵令嬢。隣にいるのは彼女の父リンコン侯爵。それに彼女の弟アルフィー侯爵令息。
閣僚である貴族たちは当惑顔だが、リンコン侯爵はそれどころではなかった。
顔面蒼白。体中の血が消え失せてしまったかのようである。
そして、同じ台詞を何度も繰り返す。
「イザベラ。何でおまえはここにいるんだ? 王太子殿下から重大な発表があるのであれば、婚約者のおまえは王太子殿下と一緒にいるはずだろう」
「お父さま。何度同じことを言わせるのです」
何度も繰り返される同じ質問にイザベラも不機嫌になる。
「私は殿下から何も聞かされていないのです。もらったのは他の王族貴族のみなさまと同じ書状だけです。そして、この席に案内された。分かっているのはそれだけです」
「それだけっておまえ、大丈夫なのか? 婚約破棄されるんじゃないだろうな?」
(それはある)。
イザベラは思った。
イザベラはスリムと言えば聞こえがいいが、それが行きすぎて「痩せぎす」と言えなくもない。
また、陶磁器を思わせる透き通るような白い肌は美しいが、健康的でないと評する人間もいるだろう。
そして、イザベラを痩せぎすで健康的でないと言い続けてきた者、それがジョンだった。
「そんな貧弱な身体ではこの国の王太子妃としてふさわしくない」
ジョンは何度もそう言った。
この婚約はジョンの父である国王とイザベラの父であるリンコン侯爵が取り決めたもので、イザベラが望んだものではない。そして、ジョンはイザベラが好きな化学には「俺はそんなものは嫌いだ」と言い、全く知ろうともしなかった。
それでもイザベラは頑張った。たくさん食べ、運動にも励んだ。
しかし、持って生まれた体質には限界というものがある。
体が望む以上の食事は嘔吐をもたらし、かえって体重を減らした。美しい白い肌は長時間強い陽光の下で運動すると真っ赤に腫れ上がった。
こういう事実を知るにつれ、ジョンは次第にイザベラとの交流を減らしていった。
「王太子とその婚約者がうまくいっていないらしい」。
その情報はあっという間に貴族社会に伝播し、ジョンは次々に婚約者のいない貴族令嬢と浮名を流した。その中でも貴族令息たちが陰で「豊穣なる肉体」と呼ぶアイラ男爵令嬢には極めてご執心だった。
リンコン侯爵が懇願したこともあり、国王はそんなジョンに何度も苦言を呈した。しかし、ジョンの行状は収まらなかった。
そんな中、理由は分からないが、国王名でなく王太子名での重大な発表があるとのことである。腹を括っておく必要は否が応でもあるだろう。
「なあっ、イザベラ。大丈夫なのか? 本当に大丈夫なのか?」
そんな父リンコン侯爵の言葉も最早イザベルには届かない。
「まあまあ、リンコン侯爵。イザベラの言うとおり、何が起ころうとしてるかなんて、今は分かりようがないじゃないですか。ここはまずは待ちましょう」
「黙れ。アルフィー」
見かねて声をかけたイザベラの弟アルフィーをリンコン侯爵は一喝する。
「王太子殿下とイザベラの婚約に、わしがどれほど骨を折ったと思っておるのだ。イザベラが王太子殿下と結婚して、未来の国王陛下を産めば、わが侯爵家は安泰なのだぞ。これは次期侯爵であるおまえのためでもあるのだ」
(わが侯爵家が安泰ねえ)。
アルフィーは内心苦笑した。
(わが侯爵家どころか、この国全体に危機が迫っているんだけどなあ)。
◇◇◇
ざわっ
ざわめきが上がる。
王太子ジョンが入場したのだ。
そしてその左腕に右腕を絡ませているのは、やはりと言うかアイラ男爵令嬢だった。
「あわわわわ。どういうことだ。あれはっ? イザベラッ!」
リンコン侯爵の血を吐くような叫び。
(うるさいっ! どういうことか私が聞きたいくらいだよ)。
イザベラの心の叫びは声にならなかった。
ざわざわざわ ざわざわざわ
ざわめきは大きくなる一方だ。
「静まれっ!」
「静まれっ!」
予め壇上にいた「武闘派」若手貴族が声を張り上げる。
その効果で場が静まると、ジョンは満足そうにアイラ男爵令嬢を伴ったまま、壇上の中央に出た。そして、叫ぶ。
「みなの者っ! 王太子のジョンだっ! 今日は重大発表をするっ!」
ざわざわざわ
ざわめきはぶり返す。
しかし、またも「静まれっ!」の声に静まる。
「わが父、国王ヘンリー二世は昨晩の夕食の後、飲酒中に昏倒し、今もって昏睡中だっ! 医師の話ではいつ目覚めるか分からない、いや、眠ったまま死んでしまう可能性も大きいとのこと」
ざわざわざわ ざわざわざわ
今までの中で最大のざわめきが起こった。当然「武闘派」若手貴族が鎮めんとするが、ジョンはそれを右手で制し、声を更に張り上げる。
「折りも折り隣国の軍事力の脅威が懸念される中でのヘンリー二世の昏倒。この国難にこの王太子ジョン、自ら王位に就くこととしたっ!」
ざわざわざわ ざわざわざわ ざわざわざわ
(無茶苦茶だ。隣国の軍事力の脅威が懸念されるのは事実ではある。しかし、国王が昏睡状態になったと言え、回復の見込みがないわけではない。独断で即位するなど普通では考えられない)。
その場にいる多くの王族貴族の思いをよそにジョンの演説は続く。
「余が王となった以上言わせてもらうが、父のやり方は甘すぎる。あのやり方では隣国の脅威には通用しない。これからは武を貴ぶ国を作る。それで隣国に対抗できる国とするのだ。そのためにまずはヘンリー二世の任命した閣僚と将軍は全員解任する。武への鍛錬を重視しない奴は余の側近にはいらんっ!」
「そんな馬鹿なっ!」
「それはあまりにも横暴ですぞっ!」
「陛下は、ヘンリー二世陛下はこのことを承知されているのですかっ?」
さすがに次々抗議の声を上げる貴族たち。
「黙れっ!」
ジョンはあらん限りの声で一喝する。
「今の王は余だ。ヘンリー二世は関係ないっ! そして、余の周りには既に新しい閣僚と将軍がいるっ!」
その言葉に壇上にいた「武闘派」若手貴族は一斉に立ち上がり、場は圧倒される。
「どうだ。この新閣僚に将軍。鍛え上げられた者ばかりだ。もう一度言う。ヘンリー二世が決めた閣僚は全員無役とするっ! ヘンリー二世が決めた将軍は全員予備役とするっ! 以上だっ! これにて会合は終了だっ! 解任された奴はとっとと帰れっ!」
どよめきの中、場に背を向け、アイラ男爵令嬢を伴い、新閣僚と将軍を引き連れ、颯爽とその場を去ろうとするジョン。しかし、突然、壇上で立ち止まると振り返った。
「忘れていたわっ! イザベラ・リンコン侯爵令嬢。余はおまえとの婚約を破棄するっ!」
「ぎゃああああ」
何とも言えぬ悲鳴を上げるリンコン侯爵の陰で、イザベラは右手の平で額を押さえた。
(忘れていたのかよ)。
(とは言っても、ここで何も言わないわけにはいかないか)。
イザベラは声を張り上げる。
「理由を聞かせていただきとう存じます」
「理由だあっ?」
語気を荒げるジョン。それはさながら「武を貴ぶ」より「荒くれ者」のそれを思わせた。
「その貧弱な身体では王太子妃としてふさわしくないのだっ! それを何度も言ってきたのに、おまえは鍛錬を怠りおって。それに比べてアイラのこの見事な身体を見ろっ!」
(それは戦闘のために鍛えた身体ではなくて、別の目的のため鍛えた身体でしょう)。
イザベラはその思いは口に出さない。
「分かりました。婚約破棄受けましょう。但し、今回の婚約破棄は私が不実な行動を取った故のものではありません。慰謝料の支払いや修道院行きなどは一切お断りします」
「余はアイラと結婚できればいいのだ。おまえの慰謝料などはいらんっ! それとも余に慰謝料を払えとでも申すのかっ?」
「そのようなものは要りません。私に家に戻り、社交から引退して、静かに過ごすことをお許しいただきたいのです」
「ふん。好きにしろ」
ジョンはそのままアイラ男爵令嬢を伴い、新閣僚と将軍を引き連れ、去って行った。
「おっ、おっ、王妃になるはずのイザベラが行かず後家に」
その場に崩れ落ちるリンコン侯爵。
イザベラは凜とした姿で気丈にもその場に立ち続けていた。
しかし、実はその口角が少し上がっていたことに気づいた人間は極めて少なかった。
次回第二話「化学の天才イザベラは実験室に籠る」