異界の邪眼
ゆらゆらと上体を揺らしながら、テルマを乗っ取った魔獣は、手近なところにうつ伏せているロザリーに近づいて行く。それを見ながらアノニムは、まるで体が動かせない。熱っぽくねばついたモノで、体がからめとられているような感覚だった。
「グゲ……」
「う……」
乱雑な手さばきでマスクをはぎ取り、ロザリーの素顔をさらす。彼女はきつく目を閉じて視線を合わせないようにしていた。この邪眼に対しては、か細い抵抗でしかなかったが。
形だけはテルマのままの唇から、たどたどしい声が漏れる。
「オンナ……チガウ……」
「あうっ」
興味を失ったと言わんばかりにロザリーを地に転がし、残る二人を眺め渡す。
地に伏せたまま、アノニムの脳裏に思考の火花が走った。
(検分している? こいつ、誰かを探すように、指示されているのか?!)
ひょっとして、その「誰か」が予想通りなら、こいつを誘導できるかも知れない!
フラフラと、位置的に近かったヴィードの方へ歩き出す魔獣。タイミングが重要だ。声をかけ、そこから真っ直ぐ俺の方に歩いてくるなら……今っ!
「ザルトクスの……悪魔」
ピクリと耳をそばだて、魔獣は歩を止めた。
まるで泥が詰まっているような肺腑をしぼり、アノニムは挑発する。
「探してるんなら、俺に訊けよ……」
「…………」
ほんの少し間を置いて、「ヤツ」はアノニムを次の標的と定めた。視線を向けられているだけで、全身の神経がかき乱されそうだ。だが、それでいい。真っ直ぐ歩いてこい。そのまま……そのまま……
アノニムの元まであと十歩ほどという所で、突然
「アギッ!」
魔獣は目を剥いて硬直した!
(かかった!)
それは――その地点は、機神聖竜と戦う最中にアノニムが仕組んだ『二次元座標支配』エリアの一角だった。竜との戦いでは、ついに「はめられ」る事はなかったのだが、エリアの支配権は継続していたのだ。
残念ながら、先に状態異常を受けてしまっている身では、完全に局面を反転させる事は出来なかったが、麻痺の効力が弱まっただけでもありがたい。取り戻したわずかな体の自由で、預かっていた神器を異空庫から取り出し、起動させる。
辺りは薄暮に包まれて、天空には異世界の星座が輝いた。その神器の能力は『異界の神話が支配する』。中でもその場を圧したのは、神話の英雄ペルセウスが掲げる呪いの相貌。怪物メデューサの首を顕すという変光星アルゴスの光。「こちら」の魔獣は、射すくめられたようにその星から目が離せなかった。その瞬間――他者に及ぼす邪眼の力は消えていた。
そしてヴィードも、ロザリーも、無論アノニムも、その隙は見逃さない。
◇
「ふう……」
思わず疲労の滲んだため息を漏らすソルヴェク。床にはバラバラになった人体が散らばっており、加えて念入りな事に青白い炎を上げ燃えている最中である。
(まいったねえ、切り刻んでもパーツ毎に『生きてる』なんて。こりゃあ、ヒトに似てるのは形だけで、中身はまるっきり別物だねぇ)
戦う前は、「誘拐団」の何人かは生かしておいて情報を取ろうなどと思っていたのだが……紛れ込んでいた希少種一体のおかげで、全て計画倒れに終わった。一応「人間」の遺体は異空庫で持ち帰って検分してみるつもりだが、大した事は判るまい。
冒険者ギルドから派遣された監視員の遺体に、簡単ながら弔意を示し、つぶやく。
「……初撃をしのげば、命拾いさせてやれたのにネ……さて」
階段を降りて二十五階の扉の前に立つソルヴェク。用途の知れない魔道具を扉の紋章部に着けていく。準備が済むと、二十四階層に侵入してきた時のように『光学迷彩』魔法を起動させた。
(バラバラになっても生きていけるヤツだったからね……。つまり、欠けていた左目は……)
この扉の向こうに送り込まれている可能性が高い、とソルヴェクは見る。酒場で会った仮面の冒険者たちを思い、せめて命はあってくれよと願いながら、扉に付けた魔道具類を起動した。
(……いける。典型的な条件鍵だ。条件を満たしたと擬装すれば……開いた!)
ソルヴェクはダンジョンのシステムを欺き、開かないはずの扉を開けてしまった。いわゆる『裏社会』界隈で、「マホロの闇導師の前で閉じ続けられる鍵はない」と言われる所以である。
そんな彼女が、開いた扉から忍び入り目にした光景に、驚愕の余り思わず固まった。
「テルマ! しっかりっ!」
「まだか、アノニム? もう……!」
「待て……っ! もう、少し……こんちくしょう……っ!」
床に大の字に拘束された少女。その周りを仮面の冒険者三人が取り囲んでいる。ヴィードという剣士は、剣を抜き打つ構えのまま焦燥の表情で控え、ロザリーは仮面が取れてしまった、その状態のまま、少女に魔法を――恐らくは体力回復だろう――かけ続け、そして少女の頭部をのぞき込むようにしてアノニムが、両手をかざして左眼窩をえぐろうとしている……
思わずソルヴェクは叫んだ。
「ダメッ! それに触れちゃいけないワッ!」