46.過去が残すもの
「ソフィ」
「!」
まだ空は薄く暗い。朝がゆっくりと背伸びをし、夜が床につこうとしている頃。
お庭で呼ばれたソフィが振り返ると、リヴィオがにこりと微笑んだので、ソフィの体はちょっと浮いた。ぴょんこ。
だって、まあ見てご覧なさいよ。珍しく。本当に珍しく、汗をかいたリヴィオさんの、ゆるく空いた服の胸元から覗く鎖骨の蠱惑的な美しさったら! いやまてやっぱり誰も見るな寄るな散れい! 有害指定! 有害指定につき緊急離脱すべし!!!
ガンガンガン、とご存知浮かれ脳みそくんがお鍋の底を叩きまくっている音がするのは無論幻聴であるが、汗がするりと流れる首筋となだらかに隆起する鎖骨がソフィの両目をぶん殴ってくるのは、現実である。オーケイ、これは戦だな。
レアリティ満載の悩ましき美貌にソフィが天に召されそうになっているなど、露ほども思わぬリヴィオはにこにことキュートな笑顔を浮かべている。ぬぬう。ソフィの両目は、限界突破すっぞと汗を流すギリギリサバイバーであった。
「おはようございます。早いですね」
「え、ええ……リヴィオは、随分早くから起きていたのね」
外はもう明るいが、屋敷の中はまだしんと静寂を保っている。にもかかわらず、すでに汗をかいているのだから、リヴィオはかなり早くから起きていたのだろう。リヴィオは、はいと頷いた。
「なまってる気がして……ちょっと身体を動かしてきました」
ちょっと。
体力と筋力が尋常でないこの青年の言う「ちょっと」とは、ソフィ何十人分のメニューなのだろうかと、むくりとソフィの好奇心が起き上がる。
「どれくらい?」
「ランニングメインです。街の外をぐるっと」
「ぐるっと」
「十周くらい走って」
「じゅおっ」
びっくりして悲鳴を噛んだソフィに気づかず、リヴィオはランニングメニューとやらを振り返った。
「森に良い感じの崖を見つけたので崖昇降して、傷んだ木が気になったので間引いて……」
なんだ崖昇降って。登るのか。崖を。登って降りるのか。崖を。木を間引くってなんだ。木こりか。森の管理者か。
ソフィ何十人分どころか、ソフィが何千人集まっても真似できなさそうなことを、リヴィオはなんでもない顔で続ける。自分がおかしい事に気がついていないのだ。うっかり森で遭遇した人は、さぞ驚いただろうなあ。筋トレする妖精の伝説とか生まれる前に出発しなくては、とソフィは決意を新たにした。
「そんな感じですかね」
「お疲れさまです?」
思わず疑問形になるソフィに、いえいえ、とリヴィオはどこまでもにこやかだ。
うん、今日も良い朝だわ。だってリヴィオが可愛い。
細かいこた考えるだけ無駄だと学んだソフィは思考を切り替える。
「朝食の準備をお願いしてきますね」
そろそろ使用人も起きる頃だろう、とソフィが告げると、リヴィオはゆるく首を振った。
「少しゆっくりしませんか? 昨日も遅くまで、リック様と作業をしていたでしょう?」
ピューリッツが事件を起こした証拠を揃えてハイ終わり、とはいかない。
城で待つヴィクトールやアドルファスが動きやすいように、状況を説明し、指示を纏め、かつスピーディーに事を進められるように公的文書もある程度つくって、ついでにこちら側の陣営にいる貴族に、根回し用の手紙も準備しておかなければならない、とエーリッヒは執務室の椅子に腰かけた。
本来であれば、ヴィクトールやアドルファスを始めとする、信頼のおける部下と共にする作業だ。
一刻も早く出発したい、という切羽詰まった状況で、たった一人でするには重労働すぎる。
そんなわけでソフィは、本気で兄の名を系譜から消そうとしているエーリッヒの手伝いを買って出た。
つくづく、過去というのはいつどこで役に立つかわからない。
いかにも貴族らしい回りくどい言葉を使いながら、一読した程度では内容がわからないように事態を説明するお手紙なんて、経験なくしてできるものではないのだから。いやあ、なんでもやっとくもんだね。
夜中過ぎまでかけてペンを走らせていたソフィとエーリッヒに、リヴィオは何度も紅茶や夜食を持ってきてくれた。
ちなみにアズウェロは、エレノアの寝かしつけ担当だ。体力が落ちればその分、呪いへの抵抗力が下がってしまう危険がある。体内の魔力を常に安定させておくために、睡眠は重要なのだ、とはアズウェロ様の弁である。
自分だけ休むわけには……と、しょぼんとするエレノアがベッドから出てこないように見張るという、非常に重要な役割をこなしたアズウェロは恐らく、まだエレノアの枕元に丸まっているだろう。
「アレン様はまだ休んでいらっしゃるんですよね」
「え? ええ。多分」
ソフィとエレノアの部屋は別々だが、近い場所にある。ソフィが起きて、庭を散歩するまでの間、挨拶を交わしたのはリヴィオだけだ。
ソフィが頷くと、リヴィオは「じゃあ」と、腰を曲げた。ソフィに視線を合わせる、どころか上目遣いで、白い頬をうっすらと赤く染めて、それで、照れ隠しをするように、拗ねる小さな子供のように、密やかな声で、「ね」と。あまったるい音で言う。
「もう少し、ソフィを独り占めさせて」
「っっっっっっ!!!!!!!」
ぼん、とソフィの顔面が音を立てた。
「な、なに、なにを言って!」
「だって、ソフィ、最近ずっとアレン様やリック様に夢中だし」
「!!!!!」
だって! だって?!
つーんと尖った唇ふくれたほっぺ! ソフィはもう息切れしそうだった。あんさんその可愛さほんとどうにかしておくんなよと、浮かれ脳みそ君がひっくり返っている。
何それーーーー! とソフィは大絶叫が転がり出そうで、思わず口を押さえた。
「ちょっとだけ座って、お話ししませんか?」
首を傾げるリヴィオのお誘いを断れる人類は、果たしてこの世にいるのかしら!!
ソフィは、首が千切れんばかりに何度も頷きながら思った。
絶対いない。
「白んできましたねえ」
ベンチに座ったリヴィオが、空を見上げる。
それにならったソフィが空を見上げると、グラデーションの中で濃いブルーが占める割合が減ってきている。
そして、遠くに見えるオレンジ色の朝日。
朝の訪れを、リヴィオと並んで見ている事に、ソフィはちょっとだけ不思議な気持ちになった。
「綺麗ですね」
小さく零すと、リヴィオは「はい」と笑った。
「……ソフィ」
「………はい」
ふいに、ソフィの左手が握られた。
すっかり慣れたようなちっとも慣れないような大きな手の感触に、ソフィが隣を見ると、リヴィオは「ソフィ」ともう一度名前を呼んだ。
「大丈夫ですか」
「え?」
なんの話だろう、とソフィが首を傾げると、リヴィオは眉を下げた。しゅん、とする顔すら世界で一番かわいいソフィの騎士は、「苦手でしょう」とソフィの手を握る手に力を入れる。
「本当は、誰かを追いやるための作業なんて、気が進まないでしょう」
「……城でもやっていたわ」
ソフィが「ソフィーリア」と名乗っていたころ、ソフィーリアの側には、ソフィーリアを王太子の婚約者という地位から引きずり降ろそうとする輩や、ソフィーリアの父に牙をむく人間、私腹を肥やすことに命を懸けている人間……挙げればキリがないほどに、王が「蹴散らしていいんだよ」と笑う獣たちがいた。
いいんだよ、ってまるで自由意志があるように王は言うが、ンなもんあるわきゃない。ソフィーリアに拒否権はなかった。
だから、大臣や役人をどっかの未開の土地に送るくらい、ソフィーリアにはいつものことだった。なんてこたない。
良心の呵責なんて、毒にも薬にもならぬ。民が涙を零すその前で、何を言えようか。
民が、国が死んで、それで気付くなんて阿呆な真似するくらいなら、とソフィーリアは何度も、懲りない馬鹿共の不正を王に報告した。
「国の益にならない歯車は、取り換えなくてはなりません」
国の平穏を守る義務がソフィーリアにはあったから。
だから、
「それ、誰の言葉ですか」
「え」
連続投稿ウィークこれにて終了です!
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明日は感想のお返事をさせていただきますね。
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また来週お会いできますように頑張ります。





