43.日常の音
ワイズは、紅茶をぐいと煽った。
無作法であったが、それを咎めるような人間は、ここには誰もいない。
はー、と深く息を吐いたワイズは、カチャリとカップをソーサーに戻すと、「ところで」顔を上げた。
「事の顛末はわかりましたが、陛下はこちらで何を?」
領主が執務室として使っていた部屋に現れたワイズの第一声は、「何をしているのか」だった。
そりゃあそうだ。お部屋は荒れ放題。たった今、強盗に入られました! と言われりゃ誰も疑わぬだろう有様なのだ。
エーリッヒは、ワイズの問いに答えを返していなかった事を思い出したように、ああと笑った。
「証拠集めだよ」
「証拠?」
そう、とエーリッヒは長い前髪を邪魔そうにかきあげる。紺色の髪はさらりとすぐに額に落ちた。
「領主が犯人である事は間違いない。だが、兄上が糸を引いたという、証拠はない」
「領主が証言をしてもですか?」
不満そうに眉を上げるワイズに、エーリッヒは「そりゃね」と肩を竦めた。
「誰かの陰謀だとか、錯乱しているとか、言い逃れをされたら意味がないだろう。俺が言わせている、なんて言いだしたら最悪だよ」
「ですが、貴方は国王陛下です。王の言葉を、誰が疑うのでしょうか」
ソフィは、そうとわからないように、ぱしぱしと瞬きした。
ワイズは、エーリッヒをよほど信頼しているのだろうな。なかなか、王に面と向かって言える台詞ではない。
恐れも含みもないワイズの言葉に、エーリッヒは「期待してもらえるのは嬉しいけどね」と笑った。
「言い逃れをする兄を、いいやお前が犯人だと首を刎ねるわけにはいかないでしょう?」
エーリッヒの大人びた微笑みに、ワイズはむうと小さく呻く。理解はできる。けれど心情としては納得がいかない。そんな顔だ。
そらあ、まあそうだろうなあ。
ワイズは、この街の人々は、頭ン中をいじられている。おまけに騎士を侮辱され、街は踏み荒らされ、だのにそれらを企んだ人間は今もお城で呑気に笑ってる。優雅にワイングラスでも傾けて、楽しいパーティーの真っ最中かもしれんな。
にもかかわらず、剣は届かない、などと。
「許されていいわけがありません!」
「そうだね。でも、自分の判断だけで人を罰するのは王ではないよ」
ワイズの剣幕に対しエーリッヒは、静かに、静かに笑みを浮かべた。
「それはね、暴君と呼ぶんだよ」
海のように深く澄んだ青い瞳は、ただただ凪いでいる。青く、透明の膜一枚向こう側、しんと美しい。
けれど、その声は、佇まいは、決して只人にはない存在感に満ちているのだ。
──この世に線を引くように、ひたすらに美しく微笑む少年は、ゆっくりと瞬きした。
王という、まったく違う世界に在る生き物は、くすりと笑う。
「それでは先王と同じになってしまう」
「も、申し訳ありません」
弾かれたように頭を下げるワイズに、謝ることはない、とエーリッヒは手を振った。ふふ、と軽やかな声に、現実感のない空気は飛散してゆく。
ほ、と小さく息を吐いたのは誰だったか。
エーリッヒはソファの背にもたれ、足を組んだ。
その一挙手一投足は、容易く人の視線を奪う。知ってか知らずか、エーリッヒは楽しそうだ。
「ま、そんなわけでソフィ嬢に手伝ってもらっていたんだ。ああいうタイプは、指示された手紙なんかをとっておくものだからね」
「クズほど人を簡単に裏切る。だから、同じように他人も簡単に裏切ると思っている。──ずる賢い奴ほど、いつ自分が裏切られても良いように、保険かけてるもんですよね」
エーリッヒに続いて言ったリヴィオは、なんてことでしょう。ニヤリと笑う悪戯な顔がとってもキュートだったので、性懲りもなくソフィの胸はキュンと喜んだ。シリアスな空気が緩和される瞬間を見逃さない浮かれ脳みそくんは、ある意味優秀である。空気を読め。いや読んでいるのか?
「なるほど……それで、証拠は見つかったんですか?」
そわりと揺れるソフィの心臓も脳みそも、当然知るはずのない不安そうなワイズに、エーリッヒはにこりと笑った。
「ソフィ嬢のお手柄だ」
「とんでもないです!」
驚いたのはソフィ本人だ。
突然名前を呼ばれ、浮かれ脳みそくんが鈴を放り投げる。何を仰いますかとソフィが両手を振ると、リヴィオは身体を乗り出し、ワイズは瞬きし、エレノアは「ほう」と声を上げた。ほう、じゃないじゃない。嬉しそうな声に心はスキップするが、そんなん言うとる場合じゃないのですよ。
だけれども、エーリッヒ様はにっこにこ笑うばかり。
「これを見てくれ」
エーリッヒは、テーブルに放っていた手紙をワイズに渡した。
ワイズは、そのしっかりした紙の感触に気づいたのか、ぴくりと眉を上げる。
「高級そうな便箋ですね」
そこに滲む不愉快そうな感情に、どう返すべきかソフィが迷っていると、テーブルの上に他の手紙があることに気づいたリヴィオとエレノアも、手紙を持ち上げた。
表面をさらりと撫でたエレノアが「加工しているのか」と驚いたように言う。
それに頷いたエーリッヒが視線をよこすので、ソフィは仕方なく口を開いた。
「表面を特殊な薬剤で加工しているんです。とても滑らかでしょう? ペンが引っかからないので、美しい文字を書くことができるんです」
貴族はよく、人に宛てた文字を書く。とにかく書く。
生涯、招待状だお手紙だと、某様に宛てた文章を何百何千と書きまくるのだ。
かつてソフィーリアも、数え切れないほどの手紙を書いたもんよ。いやあ懐かしいね。誰かさんの文字を真似て、大急ぎで大量の代筆をした日にゃ手首が動かなくなったことも……なんて話はまあ置いといて。
「貴族社会では、美しさはただそれだけで、大きな価値があります」
なんつっても、美には金がかかる。
美しい屋敷、美しい庭、美しい絵、美しいドレス、美しい髪、などなどなど。
そこには初期費用もさることながら、人件費だとか材料費だとか、維持するために莫大な金と時間が必要なのだ。
それを叶えるためには当然、財力が求められる。
さらには、期待に応えるだけの実力を持った人間を揃える人脈や、指示する者のセンスも問われるわけで、つまりは美しさは、貴族の権力と品格をわかりやすく示すバロメーターだった。
例えば、エントランスにどんな絵を掛けるのかという判断一つとっても、その人物の考え方が丸見えになる。
陽気な絵を掛ける人は明るい空気を好み客人を楽しませたいと考えるのかもしれないし、家族の絵を掛ける人は家族が自慢の愛情深い人物なのかもしれないし、絵を掛けない人は質素倹約を主張したいのかもしれない。
或いは、そう見せたいのかもしれない。
こちらのお方はどんな方かしらん、てのはそういう「見かけ」に出ちまうので、貴族にとって見栄えってのは非常に重要であった。
無論、目に見えるものだけで全てをわかった気になるのはお馬鹿ちゃん極まりないがね。まあそれはそれとして。
「だから貴族にとって、『美しい文字を書ける便箋』というのは、喉から手が出るほど欲しいものなんです」
「便箋でそんなに変わりますか」
「試してみられますか?」
首をひねるワイズに、ソフィが声をかけ立ち上がると、それよりも先にリヴィオがデスクのインク壺と羽ペン、それから白紙の便箋を持ってきた。
あまりにスマートなのでソフィの胸はきゅきゅきゅーんと鳴いたが、ソフィはそれの鳴き声をびゅんと無視する。ソフィちゃんは何も聞いていない。
「そちらの便箋は、伯爵がお使いになっていたものです。比較的高価なものでありますが」
「あ」
「いかがでしょうか?」
ガリッ、とペンが硬い音を立てたのは無視せずソフィが問いかけると、ワイズは眉を下げた。
「早速、しくじりました」
「よくあることですわ」
タイミングばっちりで有り難い、とは言わずにソフィが笑うと、ワイズも笑った。
「私信はさておき、身分ある方に送るものであれば、一度書き損じてしまった場合、初めからやり直さなくてはなりません」
ぐちゃっとインクが跳ねたままとか、不格好なまま送るわけにゃいかん。ああ悔しいと、高級な紙であろうと後一文字で完成だろうと、屑箱へさようなら。
一枚の文書を美しく仕上げる。
それは恐ろしいほどの集中力と鍛錬が必要だ。ただの手紙と侮るなかれ、である。
「まあ、家令に代筆を頼むこともありますが、重要なものほど自分の手で書かなくてはなりませんから、貴族は便箋選びにもひどく気を使います」
「大変ですね」
面倒ですね、とは言わないワイズに好感を持ったソフィは、「ええ」と思わず笑った。
「ですが、幼い頃からそういう環境にあれば、それが当たり前になります」
紅茶を飲む。
文字を書く。
そうした行為と同じように、生まれたときから当たり前である事を、改める事は容易ではない。
ソフィは、「では」とゆっくりと発音した。
聞いてくれている人の頭の中で、ガリっと嫌な音を立てて引っかかるように。
「一介の貴族がそうなのです。王族の皆様は、いかがでしょうか?」





