30.取捨選択は利己的に
10日連続更新企画:9日目です!
「……エーリッヒには、言わないでくれ」
ぽつん、と落とされた言葉に、ソフィは顔を上げた。
ふ、と微笑むエレノアの笑顔は、ソフィには困っているようにも、苦しんでいるようにも見えて、胸に咲いたお花畑が一瞬で枯れ尽くすのを感じた。
そして、いっそうの罪悪感が滲んでいく。
「陛下も、ご存知なのではないのですか?」
わかりやすいし、とは言わないけれど。毎日一緒にいて気付かないもんだろうか。
エーリッヒはそんな鈍そうに見えないのだけれど。
「知らないと思うな。私が、すぐに狼狽えてしまうのは男性にエスコートされるのは慣れていないからだと言っているし」
「なぜそんな……」
婚約している二人が想い合っているのは、良い事ではないか。
婚約者からの感情の無い視線や、悪意のこもった視線は、ストレスだ。
小さな婚約者がエレノアを大切に想っているのは、これまでの様子を見ればわかる。王という立場がありながら、一緒に旅に出るくらいだものな。
そんなエーリッヒに想いを返すことに、なんの不都合があろうか。
けれど。
エレノアは、ぐ、と眉を寄せ、絞り出すように言った。
「まだ、12歳だぞ」
あんまりだ、とエレノアは、ソフィに首を差し出すように、顔を伏せた。
金色の髪が、はらはらと肩を落ちていく。
「今よりもっと小さい時から命を狙われ続けて、彼は尋常ではない覚悟を持って今の地位についた。なのに、未だ命を狙われ、それを当たり前だと思っている。誰かに疎ましく思われることを、当たり前だと思っているんだ。あんなに綺麗で、賢くて、思いやりのある人なのに」
なのに、とエレノアの声は震えていた。
「……なのに、人生を共に歩む伴侶すら、選べないなんて、あんまりだ」
流れ落ちていく金糸を見詰めながら、ソフィは言葉を探した。エレノアの揺れる声に、ソフィの心はたまらなく痛んだけれど、引きずられてはならんと、ソフィは、落ち着け、と心の中で繰り返す。
「……アレン、でも、彼が決めたのでしょう? 彼は、否を言える立場にあるお方です」
「選択権などなかったさ」
は、と小さく零れた笑いは、誰へ向けているのか。エレノアらしからぬ軽薄さがあった。
否定しなくては、とソフィは言葉を探して、だけど、
「式典も、演説も、外交も、騎士が側にいられないその時、隣に立つことができる唯一の存在が、婚約者だぞ」
ソフィは、それを、知っていた。
誰より誰より、ソフィは「婚約者」という肩書の利便性を、特性を知っていた。
「彼の命も地位も欲しないどころか、彼の命を守りきれる力がある。……彼の近くに、その条件に当てはまる女はいないよ。だから、ヴィクトールは私を推薦し、彼はそれを了承したんだ」
でなければとっくに婚約を解消されている、と言いたげな声だった。
いや、エレノアが何を考えているかなんてのは、ソフィにはわからない。エーリッヒの心だって、ソフィにはわからない。
引きずられるなと、ソフィは手をぎゅうと握った。
「でも、あのお方はアレンを大切にしています。たとえ、きっかけが利益のためであっても、アレンに想われるのなら、きっと幸せになれます」
想われたかった? と、声なき声が聞こえた気がして、ソフィは唇を噛んだ。
これは、エレノアの話だ。あたたかで、せつない、人を思いやる気持ちで成り立っている、エレノアとエーリッヒの話だ。ソフィーリアの、薄っぺらでみすぼらしい話ではない。
毎日楽しいのに、幸せなのに、その間もずっとそこにいたかのような顔をしてでしゃばる嫌な記憶に、ソフィは、エレノアに気付かれないよう、小さく息を吐いた。
「ソフィのような」
「え」
ぽとりと落ちた声に、ソフィは瞬く。
「ソフィのような、年の近い、可愛い女の子だったらそうだろうな」
ソフィは今15歳で、エーリッヒは12歳。
ソフィの記憶が正しければ、エレノアは17歳だ。たしかに、エレノアと比べればソフィの方が近いかもしれないが、いやいや。
「3つも5つもそんなに変わらないと思いますが……」
まあ、12歳と17歳と聞けば、若干、香ばしい匂いがしないでも、ないけれど、政略結婚なんてそんなもんだ。世界にはもっと年の離れた夫婦もいるし、3歳で婚約を結んだ王族だっている。
何より、二人が並ぶ絵はとてもあたたかで優しく、とても政略結婚には見えない。それで良いのだ。
ソフィはもっと、並んだ絵が香ばしいを通り越して、煙が見えそうなカップルを知っているが、あの二人だって、とても楽しそうだ。ソフィはあの二人を見ているのが大好きだから、そう思う人は大勢いるはずだ。
そう言おうとして、
「ソフィ」
エレノアが、のろのろと顔を上げた。
眉を下げて、いびつに唇の端を上げて、自嘲にまみれた顔で嗤うエレノアに、ソフィは言葉に詰まった。
「ソフィ、私だぞ……?」
胸に当てた手は、ソフィよりも大きい。
よく見れば、小さな傷がいくつかあることを、ソフィアは知っている。
「目つきは悪いし、美しくもない。エーリッヒよりもずっと背が高くて、手も足もエーリッヒより大きい。ドレスより甲冑の方が着慣れているし、ダンスや刺しゅうの稽古より、剣を振り回している時間の方がずっと長い。馬車に揺られて旅をするより、馬で駆けた方が良い。言葉遣いも、生き方も、何一つ、女らしいところなんてない」
でも、ねえ、それが?
それが、なんだと言うのだ。
女らしくなければ、男らしくなければ、恋をしてはいけないのか。誰かの隣を望んではいけないのか。
ふざけるな。そんなわけがない。
恋をしないのも、誰かが誰かに恋をするのも、もっとずっと自由なはずだ。
だって、ソフィが王妃に借りた本には、そんなキラキラした話がたくさんあった。本当の世界には、ソフィがおとぎ話だと思っていたことが、たくさん転がっているんだ。
なら、恋の話だって、現実に決まっているじゃないか。
「彼はもっと、彼に相応しい令嬢と結婚するべきだ」
「それを決めるのは貴女じゃありません」
ぐ、とエレノアは唇を噛んだ。
「彼は優しい。……こんな私を、護衛ではなく、かたくなに婚約者として扱ってくれるくらいに」
多分、エーリッヒは気付いているのだろう。
エレノアこそ、かたくなに婚約者として振舞う気がないことを。
線を引いて、エーリッヒとの別れを見据えているエレノアに、そんなつもりはない、と絶えず言葉を重ねているのだ。
そして、多分、それは、恋情などと甘く艶めいたものではない。
自分を思いやるエレノアを大切に思っているのは本当。
自分の身代わりになる事すら厭わないエレノアを、歯がゆく思っているのも本当。
一人の女性として添い遂げるつもりがあるのも、本当。
でも、それは、親愛でしかない。
ソフィがリヴィオのことを考えるだけでベッドをのたうち回りたくなるような、可愛いリヴィオに思わず唇を寄せたくなるような、浮かれ倒す恋ではない。
エレノアが、自分を身代わりにすることを厭わないような、身体を引き裂かれそうな想いで身を引こうとするような、溺れそうになる愛情ではない。
誰よりもそれを、エレノアが知っているのだ。
想いを返してほしいとは、何があっても言葉にできぬほど。
「優しい彼は、決して自分から婚約の解消などしないよ」
縁談がなくなることは、女にとってそれなりに不名誉である。次の婚約の障害になることは間違いない。ただの貴族でそれなのに、一国の姫が婚約を解消したとなると、好き勝手に噂をする輩は数えきれないだろう。
なのに、たとえエーリッヒの暗殺を企てている犯人が捕まったとて、12歳と思えない程、理知的で思慮深いエーリッヒが、「それじゃ!」とエレノアを切り捨てるわけがない。
エレノアと同じ想いでなくとも、エーリッヒの覚悟は本物だろうから。向こうは向こうで、申し訳ないとすら思っていそうだ。
12歳らしくない優しい少年だからこそ、エレノアは恋をしている。
12歳らしくない優しい王様だからこそ、エレノアの手を簡単に放さない。
ま、ままならねえ……。これはやっぱり、エレノアが腹を括ってエーリッヒをどっぼんと、恋に落とすしかないと思うんだが。
「アレン、わたくしを可愛いと言ってくださるのは嬉しいけれど……わたくし、最近までよくブスと言われてましたのよ」
「は? そいつは目どころか、脳が腐っているんじゃないか?」
うお。口が悪いし目が怖い。
下がっていた眉が一瞬で吊り上がって、怒りを隠さない表情は迫力があるもんで、ソフィはちょっとだけたじろいだ。
「えっと、わたくしは適切な表現だと思うのですが」
「ソフィ。それは洗脳と言うんだ。洗脳されるならリヴィオにしろ。リヴィオなら、君を世界で一番可愛いと断言するぞ」
「それは彼がお花畑にいるからです」
「え、お花畑?」
恋ってのはそういうもんだもんね。
「リヴィオの可愛い、を真に受けていては、わたくしはとんだ勘違いナルシストになってしまいます」
「いいじゃないかべつに」
「わたくしにも羞恥心があります」
そういうものか? と首を傾げるエレノアは、いやしかし、とソフィの顔をまじまじと見つめてくるので、ソフィはそっと視線を逸らした。恥ずかしい。
が、これでエレノアの気が逸れた。
何の解決にもなっちゃおらんが、気分が浮上したならひとまず良かったということにしよう。
「……わたくし、妹がいたのですが」
「ふむ。過去形なのはつつかない方がいいな?」
「ええ、そうしていただけますと」
そうか、と笑う顔は、すっかりいつものエレノアだ。
エレノアの笑い顔は、どこか子供のように無垢で、愛らしい。
「……その妹は、本当に可愛らしかったんです。100人が100人、彼女を可愛いと、美しいと言うに違いありません。わたくしは100人が100人、顔を忘れる平凡な顔ですわ」
「その評価は納得しかねるが……少なくとも、リヴィオがいるから99人ではないか?」
「ええ」
頷くのはこっぱずかしいが、ソフィは熱い顔を隠さずに、エレノアに向き直った。
「リヴィオは、平凡で、なんにも持たないただのソフィの手を、握ってくれました。誰もが私の顔を忘れても、リヴィオだけは、わたくしを可愛いと言ってくれます。……彼が、その、わ、わたくしを、好いて、くれているから」
ぽぽぽ、と脳みそまで赤く染まるような気分でソフィが言うと、エレノアは優しく目を細めた。
聖母の像のように無垢で愛情深い笑みが美しくないなどと、誰が言えようか。なんか腹が立ってきたソフィである。
「わたくし、他人の、評価なんて、感情に左右される、その程度なのだ、と。思うようにしようと、しています」
「ソフィ……」
自分を見るためには、鏡が必要だ。
鏡を見ずに化粧をしたり、髪を結ったり、服をコーディネートしたりするには、そりゃもう海山と積み重ねた技術と、自信がいるはずだ。
自分が今、人からどう見えているのかを気にしないで生きるなんて、できっこない。
それじゃあなんで、お洒落をするんだ。
お洒落は自分の為のもの。それはそうだな。ソフィだって楽しかったし、その言葉で服を選ぶ勇気をもらった。
でも、誰かに自分を見られることを、本当に、一瞬も、砂粒一つ分も、意識していないのか?
それこそが、綺麗ごとなんじゃないのか。
ソフィはリヴィオからどう見えているか、気になって仕方がないもの。
なのに、人の評価なんて気にするな、なんてソフィには言えない。
だから、エレノアの鏡の一つになれたらいいな、とソフィは言葉を重ねた。
「……アレン、わたくしは貴女がわたくしを可愛いと仰ってくださるように、わたくしも貴女を格好良いと思うのと同じくらい、可愛いと、美しいと思います」
「……有難う、ソフィ」
それは簡単な話ではない。ソフィは十分すぎるほど、知っている。
ソフィだって、リヴィオの可愛いを、真正面から受け止めているかって言やあ、まだまだだものな。
長期戦は覚悟よ。
ソフィは今、やる気に満ちていた。
だって、エレノアはエーリッヒに対して、消極的どころか、婚約の解消を願うほど思い詰めている。
いや、思い詰めている、という表現は正しくないかもしれない。きっと、婚約を受け入れた最初から、そのつもりだったんだろうから。そんなの見過ごせるわけが、
……待って。
待ってちょうだい。つまりは、もしかして、そういうことなの?
思わず、またも考え無しに口から言葉が出そうになって、ソフィは息を吸った。
ひゅ、と小さく音が零れるが、そろそろ寝る支度をするか、と立ち上がったエレノアは気付かない。
良かった。
言えるわけが無い。
もし。
もしも頷かれたら、そうだと、またあんな苦しそうな顔をされたらどうしたらいい?
『まさか、このままリトリニアには帰らないおつもりですか?』なんて。
ソフィはただ、自分の思い過ごしだと、浮かんだ言葉を飲み込んだ。
ラスト1日よろしくお願いします!





