3.やさしい呪い
「ラエル船長、頭を上げていただけませんか? わたくし、何を謝っていただいているのでしょう?」
がばりと下げられた小さな頭。
いつまでも、その旋毛を見下ろしている場合では無かろうとソフィが慌てて声を掛けると、ラエルはそろそろと顔を上げた。
「……不快な思いをさせただろ」
「不快?」
ソフィは首を傾げた。
綺麗な海に、美味しいごはん、ふかふかのベッドと、素敵な調度品。笑顔の船員とお客さんたち。
心をワクワクさせるばかりだった船旅なので、ソフィは眉を寄せた。
船旅、といってもたった一日ではあるが、おかげさまで船酔いに苦しめられることも無く、良いイメージを持って船旅を終えることができた。
これは、旅を始めたばかりのソフィにとって大変に喜ばしい事である。
ソフィは礼を言えど、謝られる覚えなどやっぱり無いので、不快? ともう一度呟いた。
ラエルは、きゅ、と眉を下げる。
「その、俺の言い方は、女に言うことじゃなかった、だろ。その、言い訳になるが、前に俺の言う事を聞きゃしねェ、浮かれたカップルがいてな。今回はガキもいたし、神経質になってたっつーか。アンタらがそうだとも限らねェのに、悪かった。俺は、あんたを傷つけたか?」
しゅん、と叱られたわんこのように見上げられて、ソフィはようやく、「ああ」と昨日の夕食に思い至る。
リヴィオに耳を塞がれ、アズウェロが吠えたあれだろう、と。
紳士淑女の皆々様に、陰口を叩かれ嫌味を投げつけられ生きてきたソフィは、乱暴ってだけの物言いなんぞ、気にもならないし。そもそも何を言われたかあんまり聞いていなかった。
セクハラ? ってやつもまあ、ソフィにとっちゃ今更だ。
婚約者との仲をあれこれ言われまくって生きてきたんでな。いやらしい、悪意と害意にまみれた視線と言葉に比べたら、おっさんの絡み酒くらい、ねぇ。
とは言え。
とは言えだ。ソフィだったから良かったってだけで、他のお嬢さん方なら傷ついたかもしれんし、リヴィオがいなけりゃあ、ソフィだって丸々聞いちまって、嫌な思いをしたのかもしらん。
船員とぎゃあぎゃあと揉み合っていたから、お綺麗な言葉で無い事は確かである。
しかも、彼は小さなナリをしちゃいるが、商船の船長である。
これだけ豪華な船であれば、それなりの要人を乗せることだってあるのだろうし。
決して褒められた振る舞いではなかろうなあ。
とか、思いつつも。
言っちゃ悪いが、この商団の今後なんてソフィの気にかけるようなことでは無い。ソフィは、自分を乗っけてくれた船の在り方にどうこう言えるほど驕っちゃいない。
言葉遣いどうこうではなく、彼の強さや人柄で、この船は幾千もの海を越えてきたのだ。たかだか十数年生きただけのソフィが口を出すなど、身の程知らずってやつでしょうよ。
だから、今、ソフィの関心はそこじゃあなくて。
多分、この謝罪の後ろには、誰かさんがいるんだろうなってことだ。
いや、誰かさんと誰かさんだろうか。
例えば、黒い髪にブルーベリー色の優しい目の騎士様と、白いもこもこに空色の優しい神様、とか、ね。
ソフィは、ちら、と隣を見やる。
リヴィオは、にこにことラエルを見下ろしているが、その笑顔のまあ温度の無さと言ったら。冬の女神様かな? ってお美しさである。やだ怖い。好き。
おかしいと思ったのよね、とソフィは内心ふかーく頷いた。得心がいった、ってやつ。
いくらリヴィオが負けず嫌いって言ったって、朝から寝ている人を叩き起こしてまで勝負を挑むほど礼儀知らずではないし。
いくら神様が人間の暮らしに興味津々と言ったって、朝までカードゲームにのめり込むかね。
つまりはあれは、報復ってやつだったんだろう。
ソフィに汚い言葉を聞かせた男に一泡吹かせてやろうって?
過保護だなあとソフィは腹ん中がくすぐったくって、笑い転げそうだったけれど。
つまりつまりは、ここですんなり許すのは、誰かさんと誰かさんに申し訳ないな、と思い至ったわけである。
そんなソフィに気づいたのか、ラエルは違うぞ、と頭をかいた。
「それが理由のひとつってのもあるが、延々と説教されりゃ、俺だって反省もするさ」
もしかしなくても、誰かさん方は、カードゲームしながら説教してたんだろうか。
だとしたら、この船長様もよく付き合ったものである。良い人なんだろうなあ、とソフィは笑った。
「では、わたくしから二つだけ」
おう、と姿勢を正す、見た目は子ども中身はおっさんな船長。猫のような瞳が、存外真剣にこちらを見ているので、ソフィは微笑んだ。
「次に出会う女の子たちにも、素敵な旅を提供して差し上げてください」
「え」
まあるくなったラエルの瞳は、海を閉じ込めたように輝いている。
過保護なナイトたちの想いは嬉しいけれど、ソフィはこの男がつくりあげた船での旅がとっても楽しかった。
男の飾らない言葉も、ノリも、嫌いじゃない。
かたっくるしいお貴族社会じゃお目にかかれない、これまでのソフィの人生には在り得なかった存在は、ソフィの自由を象徴するかのようではないか。そう、ラエルはまるで、本で読んだ冒険譚に登場する、海賊の船長みたいだ、とソフィは笑った。
商船の船長様に失礼だろうか。いや、きっとこの男なら笑ってくれるだろう。言葉も振る舞いもがさつで乱暴で、けれど、真摯であたたかい、彼の国の王のような男なんだもの。
「それで、もしもラエル船長のいう事を聞かない不届き者がいれば、その時こそ海に放り投げちゃってください」
楽しくなったソフィがおどけて言うと、ラエルはぱちん、と瞬きして、それから声を上げて笑った。
「あっははは! いや、驚いたさすがは坊の気に入りだ! アンタ、良い女だなあ!」
「せんちょー、そういうとこッスよぉ」
はあ、と隣で昨夜ラエルと揉みあっていた船員は頭を抱えているし、リヴィオとアズウェロはなんか冷気を漂わせているけれど、ソフィは笑った。
良い女、だって。さっぱりした物言いで褒められて、照れっちまうソフィに、ラエルは猫のように目を細めて笑った。
「ソフィ嬢、悪かった。長く生き過ぎて、俺の目は曇っちまってたみてェだな。アンタを侮辱したこと、改めて詫びる」
「わたくし、聞こえていませんでしたもの。なんのことか、よくわかっていませんから」
「そうかい」
くく、と喉の奥で笑う子供の体躯とアンバランスなラエルは、隣の船員を見上げた。
「おい」
「言うだろうと思って。とびっきりのヤツ持ってきてますよ」
「わかってんじゃねェかザッツ」
ザッツは子供のように、ニッ、と歯を見せて笑った。
ザッツがラエルに渡した小さな箱は、彼のその金髪のように、キラキラと太陽を反射する美しい金色の細工が施されている。
ラエルは、ぱかりと蓋を開け、中身をソフィに見せた。
「もらってくれ」
「え」
中には、銀の腕輪が入っていた。
波のような見事な意匠が施された、ほっそりとした腕輪には、よく見ると薄い青色の、海のような魔石がいくつか埋め込まれている。
箱を持っているラエルの指に、同じようなデザインの指輪をソフィが見つけると、ラエルは頷いた。
「俺たちの指輪と揃いだ。この腕輪をつけてりゃ、『銀色の海』の団員が、必ずアンタたちの助けになる」
なんでもないようにサラリと言ったラエルにソフィが驚くと、ザッツはにこりと笑った。
「むかーしむかし。せんちょーが、遭難しかけたところを助けてくれたお婆さんに、腕輪をプレゼントしてね。その話を聞いた団員たちは、その腕輪をつけたお婆さんに出会うと、せんちょーを助けてくれたお礼をしたんだ。それ以来、恩を受けた人や、せんちょーみたいにお詫びをしたい時に、この『銀の雫』を渡すのが、ウチの習わしになったんス。持てる力全てを持ってあなたにお返しします、って」
そういうことだ、とラエルが頷き、ザッツはちなみに、と腕輪を指した。
「これはせんちょーだけが渡せる特別製なんで、受け取っといて損は無いッス!」
「ま、まってください」
これに狼狽えたのは、ソフィである。
なんだか笑い話ですまなくなってきたぞ、とソフィは思わず腕に抱えたアズウェロを抱きしめた。
「そんな凄い物いただけません!」
「まあまあ。せんちょーのデリカシーの無さはどうなんかなって、内心思ってたオレのお礼の気持ちもあるんで受け取ってほしいッス」
「おい」
「せんちょーには拾って育ててもらった恩も感じてるし尊敬してますけど、呪いを受けるようなトコはどうかと思ってるッス」
「タイプじゃねェって正直に言って何が悪い」
「もっと優しく言ってフれば良かったんスよぉ」
え。とソフィは二人の軽快なやり取りに瞬きした。
ラエルは神様に喧嘩を売って呪いを受けたらしいが。まさか、ここでも神様を挟んだ恋の騒動があったのだろうか。深く聞きたいような、もうお腹いっぱいなような。
思わず遠い目で海を眺めるソフィの腕にいるアズウェロに、リヴィオは「ねぇ」と声を掛けた。
「神様って人を呪いすぎでは?」
「神は人よりも力が大きいからな。感情の起伏が世に影響を及ぼしているだけで、呪っている自覚が無いものも多い」
「マジか」
もはや災害である。
いや、災害は神の怒りだと祭事をすることもあるわけで、つまりあれは、本当に神の怒りだったパターンもあるということだろうか。気付かなかっただけで、案外近くにいるかもしれない神様の存在を感じて、ソフィは少し恐ろしくなる。
喋るもこもこ熊さんを抱えといて何言ってんだって感じだけれど。
「アズウェロも僕たちを呪うかもしれないってこと?」
「主と主の番には害は及ぼさぬ」
は、って言った。は、って言ったぞこの神様。じゃあ、ソフィとリヴィオ以外はどうなるのか。
番、という言葉にも反応できず、ソフィは胸に誓った。
アズウェロを怒らせない。
世界平和のための大事な誓いである。
「なあ、ところでその神だが」
「む」
すい、とラエルはアズウェロに近づいて、猫のようにじっとアズウェロを観察する。
ちょうど、ソフィの胸に抱えたアズウェロとラエルは同じ背丈で、じいと見つめ合うと、「ああ」と頷いた。
「なるほど、随分とこのお嬢さんの魔力と馴染んでるな」
「ほう。ぬし、目が良いな」
まあな、とラエルは肩をすくめた。
「俺は神の呪いを身の内に飼ってるからな。かなり高位の神なんだろうってことはわかってたが、ならなぜ言葉がわかるのか少し気になってたんだ」
「あ」
そういえば、とソフィはアズウェロを見下ろした。
初めてアズウェロと出会った時、アズウェロの言葉はソフィにしかわからなかった。
アズウェロが加護を与えたことで、リヴィオもその言葉がわかるようになったのだ。なのに、この船で出会ったばかりのラエルはアズウェロと言葉を交わすどころか、カードゲームをしていた。
「いろいろありすぎて、アズウェロと出会ったばかりのころなんて、遠い昔みたいです……」
「神の主になるんだから、まあ色々あったんだろうな」
はは、と笑うラエルにソフィとリヴィオは笑い返した。なんとも返す言葉が見つからない時のアレである。
「普通、高位の神の言葉は、よほど素養が合うか、神の意志が無ェと人にはわかんねェんだよ。でも、この神様はアンタを余程気に入ってんだろうな。アンタの魔力と随分馴染んでる。言い換えりゃ、人の世に馴染んでるってことだ。だから、俺達でも言葉がわかんのさ」
ソフィは、再びアズウェロを見下ろした。
青い目の白い神様は、もふん、とソフィの腕を叩いた。
「……ほんとですか?」
「…………間違っては、おらんようだ」
なんだそれ。
素直じゃない神様に、ソフィは思わず笑った。
そんなに好いてもらうような大層な事をした覚えは無いが、もふもふと腕を叩くアズウェロはとっても可愛いので、嬉しくて堪らない。
そんな、ソフィの心がふよふよと柔らかく揺れた隙に、カチャリ、と金属が音を立てた。
ハッとして腕を見ると、さっきまで箱の中で鎮座していた腕輪が、ソフィの腕で輝いているではないか。
やられた! とソフィが顔を上げると、ラエルとザッツは良く似た笑顔を浮かべた。
してやったり、とでも言いたげな、悪戯が成功した子供の顔である。
「船長!」
「どうしても申し訳無ェって思うなら、同じ腕輪をした奴を見かけたら親切にしてやってくれ」
にか、と快活な笑顔に、ソフィが眉を下げると、「良いじゃないですか」とリヴィオが笑った。
「僕が船長に勝った戦利品ってことで貰っちゃいましょ」
「次は勝つからな」
「このまま勝ち逃げさせてもらいますよ」
「馬鹿言うな」
フン、とラエルは笑った。
「海に出たけりゃ、いつでも乗せてやる。嫌だつっても、勝ち逃げなんざさせるかよ」
「せんちょーに気に入られたが最後。死ぬまで追っかけられますからね!」
「なんて呪いですかそれ」
聞いたことが無い、あんまりに優しくて元気な呪いに、ソフィはたまらず声を上げて笑ってしまった。





