魔法の言葉
「あら、どうしましょう」
それは魔法の言葉だ。
と言っても、メルリナは魔導士じゃあない。剣とか魔術とか、そんなん怖いじゃん。すぐ暴力に頼るのって良くないなあと、メルリナは思う。争いなんて怖いことしなくたって、みんなもっと平和思考でいくべきじゃない?なんだろう。潤いが足りてないのかしら。話し合いで解決すればいいのにね。と、メルリナは街で冒険者やら兵士やら騎士やらを見るたびに思う。
だってメルリナは、どうしましょう喉が渇いたわ。どうしましょうドレスが買えないわ。どうしましょう。どうしましょう。どうしましょう。
たったそれだけで願いが叶った。
たったそれだけを呟けば、王家御用達の紅茶も、綺麗なドレスも、素敵な旦那様と可愛い娘も、願いはぜーんぶ叶った。いつだって誰かがメルリナを助けてくれた。
人はみな優しくて尊い生き物だ。優しい人ばかりの世界が、メルリナは大好きだ。毎日平和。毎日幸福。毎日楽しいことだらけ!うふふとメルリナが微笑めば、誰もがメルリナに笑い返してくれた。
誰もがメルリナを愛してくれた。
なのに、旦那様の娘は、メルリナにちっとも優しくない。
メルリナは、とっても驚いた。メルリナに優しくない人なんて、初めて見たんだもの。まさか。ありえない。勘違いかな。体調が悪いのかな。たまたま機嫌が悪いのかな。
メルリナはその娘に、空洞な瞳を、心なんてちーっとも込もってやしなそうな笑顔を向けられる度に傷ついたけれど、一生懸命自分に言い聞かせた。ま、そのうち。そのうち。
でも、いつまで経ってもいつまで経っても、旦那様の娘、ソフィーリアはメルリナにちょっとも優しくしてくれなかった。全然。全然だ。鉄壁だ。うっそん。
お茶に誘っても、お買い物に誘っても、勉強があるから仕事があるからと首を振り、うっすらと笑うのだ。何あの作り笑顔。こわ。て、いうか。勉強ならともかく、仕事?仕事って?そんな嘘ある???
だってソフィーリアは、メルリナの娘よりも1つしか変わらない10歳の子供だ。愛娘リリーナは、習い事も勉強も刺しゅうも大嫌いで。あまいお菓子やぬいぐるみ。たくさんのご褒美でようやっと椅子に座るのに。仕事!言うに事欠いて仕事ですって!可愛らしいんだか生意気なんだかよーわからんが、よくもまあそんなすぐバレる嘘をついたもんだ。そんなに私が嫌いなのか、とメルリナは涙をこぼした。
「ソフィーリア。私はもう貧乏貴族じゃなくて、ロータス家の女主人で、あなたのお母様なのよ。だから言うけれど、ねえ、嘘をつくなんていけないわ」
人に嫌われたことのないメルリナにとって、これはとっても衝撃的な事件だった。
まーでも子供ってのは過ちを犯すもんだ。仕方が無い。リリーナも、家庭教師の先生が出した宿題を「やったもん」と後ろ手に隠して、目を逸らしたりする。その仕草がもう可愛いのなんの。頬ずりしてちゅーしたくなっちゃう。でも嘘は良くない。でも可愛い。
ううむとメルリナが「どうしましょう」と首を傾げると、リリーナは困る母を見てすぐに「ごめんなさい」と涙をこぼした。
「うそついてごめんなさい、おかあさま」
ああ!その可愛さったら!
たまらずメルリナは、すぐに抱きしめて、ちゃんと謝れてえらいわね!って、いっぱいいっぱい頭を撫でてあげる。
リリーナはそうやって、ちょっとした悪さをするけれど、反省して謝ることの大事さも知っている、とっても良い子だ。子供はそんな風にして善悪を学び、大人になる。
だから、ソフィーリアもすぐに謝ってくれるだろうし、謝ってくれるなら抱きしめて頭を撫でて、お買い物に連れて行ってあげよう、とメルリナは微笑んだ。いつも流行遅れのドレスを着ているとっても可哀そうなソフィーリアは、滲む景色の向こうでメルリナを見上げている。
そうだ。可哀そうな子供だ。きっと、嘘をついてメルリナの気を引こうとしているのだろう。両親と仲良しのリリーナが羨ましかったに違いない。
そう思うと、この地味な顔も可愛く見えてくるではないか。なんといっても、ソフィーリアもメルリナの娘だもの。
うんうん、とメルリナは涙を拭いて腰を折り、ソフィーリアに目線を合わせた。
のに。
「ねえ、ソフィーリア。嘘つきは、一人ぼっちになっちゃうのよ?」
「はあ」
はあ。
はあ。はあ?はあ、ときたか!
メルリナはショックだった。こんなにも!言葉が!通じないなんて!!
まだ10歳なのに、この子供はもうすっかり歪んじまってるらしい。出てきた言葉が「はあ」だ。真剣に話している大人に向ける態度だろうか!
「ソフィーリア、あなたっ」
「あの、本当に申し訳ないのですが、わたくし国王陛下に謁見のお約束をいただいているのです。遅れるわけにはいかないので、帰ってからにしていただけませんか?お茶もお買い物も、事前に仰っていただけたら予定を合わせますから」
「まあ…!」
なんということだろう。国王!国王と謁見だって!!
ソフィーリアが王太子殿下の婚約者だという事は知っていたから、殿下と会うと言えばメルリナはまだ信じてあげることもできたのに。こともあろうに国王陛下のお名前を持ち出すなど、なんと不敬な娘だろうか。メルリナは、ショックで倒れそうになったけれど、これはいかん、と再びソフィーリアに視線を合わせた。
「ソフィーリア、貴女も寂しいのよね」
「……え?」
ソフィーリアの目が、大きく見開かれた。くる、とまんまるの瞳は、信じられないようにメルリナを見ている。いつも大人みたいに静かな笑顔を浮かべているソフィーリアの子供らしい顔は、ちょっと可愛い。メルリナが心を見抜いたもんだから、驚いちゃったんだな。
うんうん大丈夫。メルリナはちゃーんとわかってる。さみしくて素直になれなくて、誰かに構ってほしくて、それで悪いことをしちゃうんだよね。
メルリナはそんな娘を、見放さない。だって私は母だもの。
「大丈夫。私は、あなたのことも大好きよ」
「え、ちょ、あの」
ぎゅう、と抱きしめると、ソフィーリアが慌てたように身じろいだ。抱きしめられる事に慣れていないのかもしれない。メルリナの心臓がぎゅううう、と痛んだ。なんて可哀そうなのかしら。
旦那様は。ウィルソンは、ソフィーリアの母を気難しい人だと言っていた。冷たくて、気位が高くて、可愛げが無い。メルリナと大違いだ、と微笑んでくれる旦那様に、そんな大げさな、とメルリナは思っていたのだけれど、あながち嘘じゃなかったのかも。きっと、娘にもそんな風に接していたに違いない。
だったら私がこの子をちゃんとした子に育てなくっちゃ!
ロータス家の女主人としての使命感に燃えたメルリナは、けれど次の瞬間に突き飛ばされていた。
え。と思った時には、どん、と尻もちをついていた。それで、見上げると、ソフィーリアが、驚いたようにこちらを見ている。
メルリナも勿論、驚いた。まさか突き飛ばされるとは思わんて。まさかまさか。でも、それ以上にメルリナは悲しかった。
この子供は、こんなにも傷ついているのか。
そう思うと、また胸がぎゅうううと、締め付けられた。
「あ、その、ごめんなさ」
「いいの。びっくりしちゃったのよね」
ソフィーリアは、「いや、えっと」と視線を彷徨わせた。
きょろきょろとするソフィーリアに、メルリナはもう一度手を伸ばす。なんでもないのよ、そう言おうとして。でもソフィーリアがすいと一歩下がったので、手は空振りした。
怒られると思ったのかしら、とメルリナが瞬きすると、ソフィーリアは「あの」と鞄をごそごそとし始めた。あら、貴族令嬢が鞄なんてはしたない。そういえば侍女はどうしたのだろう。まさか侍女を置いて、うろうろしているの?後で叱ってあげなくっちゃ、とメルリナが瞬きすると、ずいと紙の束を見せられた。ぱちぱち。
「その、すみません。急いでいて、わざとでないにしろ突き飛ばしてしまったことも、謝ります。ですが、わたくしこの書類を陛下にお見せする約束なんです。お願いですから、そこを通していただけませんか」
「あ、あなた…!」
その紙の束は分厚く、表紙には「隣国との会談における3つの提案」と書かれている。
可愛いリリーナと毎日一緒にいるメルリナには、それが子供の字では無いことがすぐにわかった。だってリリーナの書いた字は、ミミズが何か恐ろしい目にあって逃げ出そうとしているような元気の良いもので、こんな、どうかしたらメルリナより綺麗なんじゃ?って字を、10歳の子供が?書けるわけがない。しかも。何。隣国との会談?提案??
「お父様の書類を持ち出してまで嘘をつくなんてあなた、なんて子なの!」
思わずその書類をひったくると、ソフィーリアは「かえして!」と両手を伸ばした。
「大事なものなんです!」
「ええ、ですからこれは旦那様にお返ししましょうね。大丈夫、あなたがちゃんと謝ってくれれば、内緒にします。ねえ、ごめんなさい、できるでしょうソフィーリア。あなた、賢い子だもの。ね?」
メルリナは、心を込めて語りかけた。
ソフィーリアにわかってほしい。自分を信じてほしい。その一心で。
ぐ、と黙りこんだソフィーリアは、うつむき、それからメルリナを見上げた。
その、瞳に。なんの変哲もない、茶色の瞳に、メルリナはなぜかしら。ぞくりと、背筋が冷えた。
これが、親を、大人を見る眼だろうか。
「…お母様、申し訳ございませんでした」
ぞ、と得体のしれない気味悪さを感じていたメルリナは、そう、深々とソフィーリアが頭を下げたので、ほっとした。ああ良かった。ようやく通じた。話して分かり合えない事なんて無い。どんな相手だって、心を尽くして語り掛ければきっと分かり合えるのよ。ね!
「…わかってくれれば良いのよ」
メルリナが心からの笑みを向けてやると、ソフィーリアはそろそろと頭を上げた。
栗色の瞳は、いつもの静かな色に戻っていて、うーんなんだろうな。メルリナは、ほっとしてしまった。子供相手に?変なの、とぱちぱち瞬き。
ソフィーリアは、お母様、とメルリナを呼んだ。メルリナは、「どうしたの?」と優しく聞いてやる。
「その書類、わたくしが書斎に戻してきます。場所が違うと、きっとお父様が困ると思うし、持ち出したのがバレてしまうでしょう?お母様、内緒にしてくださるんですよね?」
「…そうねえ」
こういうの、なんて言うんだっけ。とメルリナはちょっと考えた。
言っちゃいけんが、うーん、可愛くないな。よく頭が回るもんだなあ。あれだ、小賢しいってやつ。子供らしさが無いんだな。子供のふりしてる、って感じ。
あ、いやいや。なんて事を。良くない良くない、とメルリナは首を振った。
「ええ。では、すぐに戻してらっしゃい。それで、リリーナを呼んできてくれる?お買い物に行きましょう」
「はい!」
うん、良いお返事。そうよ。お返事はそうでなくっちゃあ。「はあ」なんて言っちゃいけないわ。ああ、改心してくれたのね。
なあんて、それに安心したのがいけなかった。
次の瞬間。書類を受け取った瞬間。ソフィーリアは走り出した。
はしたない!叱る間もなく、ソフィーリアが走る。あ、待って。待って、ちょ、早い。早いな?!慌てて追いかけても、ちっとも追いつけやしない。
そりゃあそうだ。メルリナはいくら貧乏貴族の生まれったって、走りまわるなんて野蛮な事はしなかった。ていうか美しいドレスとヒールの高い靴は走るに向いていない。無理。限界。
メルリナはホールまで辿り着けず、すぐにへたりこんでしまった。
「おかあさまっ」
通りすがったリリーナが、座り込むメルリナに気づいて、慌ててよってきてくれる。一緒にいる侍女も「いかがなさいましたか」と心配そうに見てくれて、必死についてきたメルリナの侍女も、ふうふうと汗をかきながらメルリナに手を貸してくれる。
メルリナはその優しさに、はらりと涙を流してしまった。
なんてひどい子だろう!
メルリナは涙が止まらなかった。
その夜。泣きすぎて疲れてしまったメルリナがベッドで休んでいると、帰宅した愛しのウィルソンが「大丈夫か」と優しく聞いてくれるので、メルリナはまた泣いてしまった。
「私、ソフィーリアにすっかり嫌われてしまっているみたいなんです」
ウィルソンは、「苦労をかけるな」とメルリナの頬をそっと撫でた。
「あれは駄目な娘なんだ。あいつに、よく似ている。顔も、口ぶりも、仕草も。視界に入れるだけで不愉快だが、王太子の婚約者だからな…。追い出すわけにもいかないんだ」
「まあ、そんな酷いことを仰らないで。あの子も、あなたの娘でしょう?」
「娘?」
は、とウィルソンは嫌な笑い方をした。亡くなったソフィーリアの母親について話す時、ウィルソンはいつもこんな顔をする。メルリナはこの顔が、好きではない。優しいウィルソンがどこかに行ってしまうような、自分ではない誰かの事を考える顔だ。
「あれを娘だと思ったことはないさ。あれは、ただそこに在るだけだ。だが、役には立つ。だからメルリナ。お前には我慢ばかりさせてすまないが、辛抱してくれないか」
「まあ、我慢?」
メルリナは、ぱちぱちと瞬きした。
我慢。そんなもの、メルリナはしたこともない。ウィルソンはいつだって優しくて、メルリナを心から思いやってくれた。
そりゃあ、出会った時は誰かの旦那様で、少し、ちょっと、苦しかったけれど。貴族だもの。抗えない婚姻は、誰だってある。メルリナは、望まない結婚と家門の重圧に苦しむウィルソンが、いつだって可哀そうで、少しでも楽にしてあげたかった。
「あなたが、あの人のところへ行く背中を見るのは辛かったけれど、でも、こうして私を迎えに来てくれたじゃない。私、幸せすぎて怖いくらいよ」
「メルリナ…」
ソフィーリアの母が亡くなったのは事故だったらしい。お茶会に出掛けた帰り。馬車に乗ろうとして、馬が突然暴れたんだとか。大人しい馬が暴れだすなんて、何をしたんだろうなあ。淑女として、ちょっとどうかとメルリナは思う。だから、ソフィーリアはあんな風に育っちまった。ああ、可哀そう。
「ねえ、ウィル。私、ソフィーリアをちゃんとしたレディに育ててあげたいわ。でも、仲良くなれないの。どうしましょう…」
くすん、と涙を零せば、ウィルソンは「君は本当に素晴らしい女性だ」と、うっとりと頬を染めた。するりと首を撫でる不埒な手を、メルリナは「もう」と握る。ごつごつとした、家門を支えるこの男の手が、メルリナは大好きだ。
「私が悪かった。私もあの子と向き合おう。…言っても聞かないのだから、仕方が無い。もっと厳しく当たろう」
「まあ、痛いのは嫌よ」
「だが、それもあの子のためだ。そうだろう?」
そうかしら?そうかもしれない。きっとそうだ。メルリナは頷いた。
だってメルリナは、あんなにも人の話を聞いてくれなくって、ずる賢くって、ついには暴力まで振るう人を見たことがない。ちょっとやそっとじゃ、あの子のひん曲がった性根は治らんだろう。メルリナはロータス家の女主人だ。やらねばならん。
「私、つらいけど頑張るわ」
「有難う、メルリナ」
ああ、だがしかし。
メルリナの決意むなしく。
ソフィーリアは全くもって変わらなかった。ちっともだ。ちぃっとも変わらんかった。
いーっつも、人形みたいに同じ笑顔を浮かべて、いつ誘っても勉強だ仕事だ訓練だと、嘘をついた。
そんなに毎日、勉強なんてあるわけないし、仕事ってなに。しかも訓練。そう、ソフィーリアは、庭を走ったりトレーニングしたりするらしい。全然ちっとも淑女らしくなってくれない。あんなんで王太子の婚約者なんて、務まるんだろうか。メルリナは心配でならんかった。
だもんで、ソフィーリアを叱るけれど、すでに手遅れって感じで。「前もってお誘いいただけましたら、予定を調整いたしますのに」なんて言うのだ。言い方にトゲがある。可愛くない。
ていうか今行きたいなって思ったんだもの。明日の気分なんて、明日にならないとわからないじゃない。
と、いうか。メルリナが怒っているのはそこじゃない。嘘をついたり、淑女らしからぬ振る舞いをしていることなのだ。
だから、メルリナは心を鬼にした。
ウィルソンがそうするように。
これは、教育だから。仕方が無いのだ。
そんなわけで、リリーナが「殿下が、わたしを好きだって仰ってくださるの」と、頬を可愛らしく染めてうっとりと言った時に、メルリナは少しも驚かなかった。
だって、私の子の方が可愛い。
リリーナは本当に素敵な淑女に成長した。可愛くて、おしとやかで、誰にでも優しい。一緒にお茶会に行けば、老若男女が集まる人気者だ。
なんて可愛い。素敵な娘さんね。あんなに美しいレディは見たことがない。奥様によく似ておいでですね。
うーん、これがすっごく気持ちが良い。もうメルリナは嬉しくって仕方がなかった。
月に一度の殿下とのお茶会すらまともにできないソフィーリアと、まあ大違い!
殿下がリリーナを望んだとして誰が責められよう。ああ、けれど悲しいかな。貴族の、王家の婚姻とは、簡単ではない。
「あの子の願いを叶えてあげたいわ…。私がウィルといて感じる幸せを、あの子にも感じてほしいの。どうしましょう…」
涙ながらにメルリナが相談すると、ウィルソンは「そうだね」と優しくメルリナの髪を撫でた。
「殿下と少し話してみよう。リリーナが婚約者になるなら、晴れてあれを追い出せる。だが、いいかメルリナ。わかるね。簡単な話ではない」
「ええ、もちろんよウィル」
「きっと私がなんとかするから、その時を待っていておくれ」
「有難うウィル」
ああ、ウィル。さすが私のウィル!
メルリナは、自分をそっと抱きしめてくれるウィルソンを少しも疑っていなかった。
ね。だってウィルソンはいつも、メルリナだけを愛してくれて、リリーナという宝物をくれて、そして本当にメルリナを奥さんにしてくれたのだもの。
毎日三人で楽しく笑いあって、優しい侍女に囲まれて、たくさんのメイドや執事がお世話をしてくれて、メルリナは幸福だった。
幸福だった。
「なんて事をしてくれたんだ…!!!」
つい。さっきまで。
ほんの、ついさっきまで。
幸せだった。ウィルソンが怒鳴る声なんて、怒った顔なんて、向けられたことが無かった。
王家主催の夜会にみんなで招かれて、二人でダンスを踊った。何曲も踊って、仲が良くて羨ましいって。たくさんの人に言われた。幸せだった。
リリーナが、王太子殿下と城の一室で見つかるまで。
「うぃ、うぃる」
「黙れアバズレが!」
ばしん、て。どん、て。足がぐらついて、ソファに倒れこんでメルリナは愕然とした。
え、ばしん、って。今。私。え。殴られたの?え。ね、まって。まって。え。ねえ。
これじゃあ、あれみたいじゃない。
「待てと、待てと言っただろう!隣国の王も招いているような夜会で、なんて、なんて事を…!あんな大勢に見られては、もみ消すこともできんだろう!」
「わ、私、なにも」
「やめてお父さま!ごめんなさい!私が殿下を拒めなかったの。だって、愛しているから!私たち愛し合っているのよ!」
「愛?時と場合を考えることもできずに盛っておいて何を言う」
メルリナの前に立ったリリーナに、ウィルソンは、は、と笑った。
「所詮は淫売の娘だ」
「ウィル…?」
メルリナは、ぽかん、とウィルソンを見上げた。
凛々しくて、優しくて、大好きなメルリナのウィルは、メルリナの嫌いな笑い方をして言った。
「わたしを、あいしているのではなかったの…?」
「愛していたさ。お前とリリーナの美しさを、愛らしさを、馬鹿なところを、心から愛しているよ」
俺の思い通りになっている間はな、とウィルソンは拳を握った。
メルリナが思わず目をつむると、ウィルソンは「殴らんさ」と笑った。
「今のは、ついうっかりだ」
ああ。そうだ。そうよね。ウィルソンが、こんな酷いことをするはずがない。
だって、
「リリーナを落ち着かせろと与えられた部屋だ。城でお前達に手を出すわけにはいかんだろう」
あれ?
あれれ??それじゃあ、まるで、屋敷に帰れば何をしてもいいと言っているように聞こえるな???
そんな馬鹿な。ウィルがそんなことを?
いや、きっと聞き間違いだ。メルリナのウィルはそんなことを言わないもの。
ぶるぶると震える身体を抱きしめるメルリナに、ウィルソンは興味をなくしたとばかりに視線を外し、はあと深くため息をついた。
「…リリーナを殿下の婚約者にする方向で、どうにかするしかないな。ロータス家の重要性を陛下とてわかっているだろう。これくらい、まだ何とかなるはずだ」
「お父さまっ、どうしてですか?お父さまは、お姉さまを嫌っておいででしたでしょう?私が殿下と婚約するのは、お嫌なのですか?」
「ああ、馬鹿で可愛いリリーナ。お前はお父様が待てと言った意味が、本当にわからないのだな。馬鹿すぎるのも困ったものだ」
はは、と笑うウィルソンの顔には、優しさなど、探しても探しても、どこにも見つけられなかった。
メルリナは、ウィルソンがバタンと激しい音を立てて隣室の扉を閉めても、そこから一歩も動けない。どうして。どうして。どうして。そればかりが頭をまわっている。
メルリナには、ウィルソンが何を怒っているのか。これからどうなるのか。自分はどうなってしまうのか。何一つわからない。
しくしくと涙を流す愛娘が、そっと振り返った。
自分とお揃いの琥珀色の瞳から、ぽろぽろと真珠のような涙が零れ落ちている。甘い水蜜桃のような頬を、きらきらと滑り落ちていく。
薔薇色の唇は、ゆっくりと弧を描いた。
「だいじょうぶ。お父さまが、殿下が、なんとかしてくださるわ。みんないつも私を可愛いねって、なんでもしてあげるよ、って仰るもの」
世界で一番かわいい娘は、それにしても、と涙をぬぐった。
「どうして謝ったのに褒めてくださらないのかしら。ねえお母さま」
ふふ、と涙を浮かべて笑う顔は、自分の生き写しのようだ。とても愛らしい。
なのに、どうしてかしら。
「どうしましょう?」
メルリナは、その笑顔が心底恐ろしかった。
番外編は二人の周囲の人たちのお話です。
次は誰か、のんびり待っていただけたら嬉しいです。