24.やさしいひと
ルネッタは生まれてから長い間、乳母にしか名を呼ばれた事が無かった。
この乳母が名を呼ばなけりゃ、ルネッタは自分の名前も知らんかっただろうなあ、と思う。
それが不幸なことだと知ったのは、随分と後になってからなのだけれど、正直、今もあんまりルネッタは自分が不幸だとは思っていない。
まあそりゃな。不満が無いこた無かったけれど、そういうモンだと思っていたからなあ。
怒っていい、嘆いていい、悲しんでいい、そう言われたものの、ルネッタとしては、はあまあそうなんですね、と。それっくらいの気持ちだ。
ヴァイスの城で暮らすようになって、自分がいた場所はなんかおかしかったんだなあと、心がざわつくこともあるけれど。それっくらいだ。まあいっかって。頭はすぐに切り替わった。
だってそんな事よりも、毎日のように驚く事があって、もうなんかルネッタの頭はすんごく忙しかったのだ。考えなくっちゃいけないことがこんなに多いなんて、びっくりだ。普通の人は、一日魔法の事だけ考えていればいいってわけじゃないんだって。普通の人って凄いんですね、と思わず漏らしたルネッタに、ヴァイスは「馬鹿か」と言った。意味が分からん。誰が馬鹿だ、とルネッタが静かに腹を立てると、なぜだか笑われたのでますますもって意味がわからんルネッタである。
ヴァイスの言う事はそもそも、難解なのだ。
なんで、どうして、とルネッタが聞くと嫌そうな顔をするくせに答えてくれるから、まあ、有難いんだけど。
ヴァイスと出会ってから、当たり前に名前を呼ばれる事とか、なんだかいっぱい食事をしなくちゃならん事とか、毎日いろんなドレスに着替える事とか、黒いドレスは普通着ない事とか、好きな場所に出かけられる事とか、もう、忙しい。目が回る忙しさってやつだ。
実際ルネッタは慣れるまで何度か倒れた。ヴァイスはその度に、「無茶をするな」とプリプリ怒りながらベッドの枕元にいた。
ちっともじっとしていない王様のくせに、一日中枕元でカリカリ書類仕事してさ。変わってんだあの人。
そんな時間を思い出すだけで、なんかムズムズしちゃうルネッタもすっかり変わっちまった。
だって、どう考えても自分の処理能力を超えている気がするのだけれど、ルネッタは嫌じゃなかった。いやあ、びっくり。いっぱいっぱいなのに、それが、ちっとも嫌じゃない。
失敗して、やっぱり部屋から出るべきじゃないって怖くなったりする事もあるけど、でも、多分、これが楽しいって感情なのだろうな、って。
気付いたことが、問題だった。
楽しいな。嬉しいな。そんな風に思う事に、ルネッタは、後ろめたさを感じている。
背中から誰かに見られているような、心臓をそっと、冷たい手で撫でられるような、そんな気持ちだ。
心が温かくなった瞬間に、「許されるわけがない」と、心臓を、冷たい両手に包まれる。
そう、許されるわけがないのだ。
この部屋を取り残して一人で逃げるなど、許されるはずがない。きっと一生、心はこの部屋にある。
だからルネッタは、ルナティエッタは、ここに戻ってきた。
「ルネッタ…?」
震えるような声に、ルネッタは振り返った。
ソフィが、茶色の瞳をまあるく見開いてルネッタを見ている。
ソフィの瞳は、ヴァイスの城で飲む紅茶みたいに、艶々して、やさしい色をしているので、ルネッタは好きだなと思っている。
これが「好きだ」という気持ちなのか、本当のところは自信が無いというか、よくわかっていないルネッタなのだけれど。
ルネッタにとって「好き」は、楽しいや嬉しいよりも難しい。自分なんぞがそんな風に思う事は、身の程知らずじゃあないかと。何様だと。ルネッタは思ったりするわけだ。
でも。
嫌な気持ちにならなくて、もっと見てたいな、とか、もっと欲しいな、とかそういう風に思うものが「好き」って気持ちで、そんなモンは自由で良いんだと言ったのは、ヴァイスだ。
だからルネッタは、「真面目だなお前。んなもん定義付けしなくていーんだよ。テキトーだテキトー」と笑ったヴァイスの笑顔を好きだと思っているし、優しいソフィを好きだと思っている。
そんな優しいソフィを連れてきてしまった事を、ルネッタは今更に申し訳なく思った。ちょっと考えればわかるのにな。
ソフィの、日差しの下で見る木の葉のような緑の髪は、ルネッタの青白い肌と全然違うぴかぴかの肌は、こんな薄暗い場所に不似合いだ。きっと嫌な思いをさせている。きっと嫌われてしまう。
好かれている、なんてそんな思い上がるほどルネッタは阿呆じゃないけど、でも、でも、
「…ルネッタ、わたくしも…わたくしも、そちらに行って、いいかしら」
「え」
凄い事を言う人だな、とルネッタは驚いた。
え、だって。ここ。ここですよ。冷たい石みたいな床に、古びた机、ベッド、本棚、それしかない。
ソフィのような普通の、綺麗なお姫様が居ていい場所じゃない。違和感というか、申し訳なさというか、こう、いたたまれないので止めてほしいなあと、ルネッタは首を振った。
「寒いし、汚いですよ」
「だからですよ」
なんだろうな。
なんだろうな、とルネッタは首を傾げた。
来てほしくない、と思うのに。ソフィが、だからだ、と微笑む顔を見て、嬉しい、と思ってしまう。自分たちが触れちゃならんと思うのに、近づいてくるソフィに「来るな」と言えんのだ。
嫌わないで。側にいて。なんて。
「あ」
ソフィは、ルネッタがそうしたように、大きな穴からよいしょと、鉄格子をくぐって入ってきた。
ルネッタは、どうしていいかわからなくて、ぎゅう、と胸元を握った。
「…ねえ、ルネッタ」
ソフィの声は、優しかった。
ルネッタが、のろのろと顔を上げると、ソフィの瞳が優しく細められる。
蜂蜜を垂らした紅茶みたいだ、とルネッタは瞬きした。いつもルネッタに「お茶にしましょう」と笑いかけてくれて、「ルナティエッタ様、蜂蜜お好きですよね」って綺麗な侍女が淹れてくれるお茶だ。彼女がそう言うから、そうか自分は蜂蜜が好きなのか、ってルネッタは気づけたんだ。
「今、ここで何が起きているんですか?」
今、今。今、そうだ。今だ。
この部屋をどうにかしろと。
国に呪いが蔓延していると、言われて、ルネッタはここにいるのだ。
みんなにも、外を見せてあげること。全部ぶっ潰すこと。
それが、今のルネッタの役目なのだから。
しっかりしなくっちゃ。ルネッタは落ちてきた髪を、肩の後ろに払った。
「……私たちは、生まれた時から魔女でした」
さて、どこから語ったものだろう。
ルネッタは、話すことにまだ慣れていない。うまく話せるだろうか。きゅっと左手で右手を握った。
「国殺しの魔女。それが、私たちの名前。それが、私たちが生きる意味でした」
「………ねえ、ルネッタ。私たちって、貴女が時々言うそれが関係あるのですか?」
「……そう」
ソフィは、静かにルネッタの言葉を待っている。
ルネッタの魔法が効いているんだろうか。想いと魔導力が渦巻く場所にあっても、ソフィの微笑みが変わらないことにルネッタは安心した。
「私は、国殺しの魔女は、何人も、何人も、数えきれないくらいここにいました。私のように名前がある魔女は一部で、ほとんどの魔女が名前を持っていませんでしたが、どのみち国殺しの魔女は一人しかいないから、問題はありませんでした」
「その時代に一人、ということ?」
「そう、そうです。国殺しの魔女は、王族に一人、突然生まれます。一人生きている間は、次は生まれません。死ねば、また次が生まれる。時代に一人必ず生まれる、禍の魔女、黒い髪と黒い目の魔女、それが国殺しの魔女です」
王妃の腹から出た瞬間、目を開けた瞬間、ルナティエッタは王女ではなくなった。
黒い髪と黒い目の王女は、代々そうして、無かったことにされてきたのだ。
「髪と目の色が、違うと、ただ、それだけで…?」
「…そうとも言えるし、違うとも、言えます」
難しいな、とルネッタは言葉を探した。
髪と目が黒いからハイ国殺しの魔女誕生!ってそれは間違いじゃない。でもただ色が違うってだけじゃなくて、本当に、ルネッタたちは特別だった。誰よりも強い魔力を持って生まれてくるのだ。
まるで、魂に刻み付けられたように。
「ずっとずっと昔。始まりの魔女は、髪と目が真っ黒で、恐ろしい程の魔力を持っていたそうです」
魔女の名前は、サーネット。美しい容姿と声を持った彼女の名は、この国では忌み名として扱われている。誰ももう、名前を呼ばない、始まりの魔女。
「…魔力と同様に、とても恐ろしい魔女であった彼女は国を乗っ取る事を企み王に呪いをかけ、その罰を受け処刑されたと言われています」
「処刑…」
はい、とルネッタは頷いた。
「そのすぐあと、1年間もの間、毎日雨が降り続け、洪水、土砂、飢饉、と国は大荒れしたそうです。……人々は魔女の呪いだと恐れ、ようやく全てが落ち着いた頃、次の魔女が生まれました」
金色の髪と目の王族から、あり得ない色を持って生まれた二番目の魔女。彼女には、すぐに特別な部屋が与えられた。
「彼女もまた、国を呪って処刑され…そしてやはり、その後1年間、次の魔女が生まれるまで、雨は止まなかったそうです」
そうやって繰り返すうちに、人々は気付いた。
魔女が死ぬと、呪われるのだと。
ならば、少しでも長生きさせなくてはならない。
1年でも、1日でも長く。目の届く場所で、けれど誰にも目のつかない場所で。ひっそりと、生かさなくてはならない。
「病死でも、他殺でも、自然死でも駄目だったそうです。何代にもわたって、王は厳重な封印魔法を開発し、少しずつ死の呪いは薄れ、魔女が生まれる間隔は開いたそうです。…それでも、魔女は生まれ続けました」
どんな気分だろうなあ、とたまにルネッタは思う。
魔女を産む気持ち。
名前を考えて、十月十日を指折り待って、けれど腹で育っていたのは歴史に残る悪魔だ。自分と似ても似つかない、絶望の色を持って生まれる我が子を見た母は、何を思うだろうか。
ルネッタの母は、数年間魔女が生まれることは無く、姉が母ソックリのそれはもう美しい少女であったから、油断してたんだって。
名前を考え、手編みの靴下をこさえ、それで、ルネッタはたった七か月で生まれたそうだ。
ルナティエッタという名が忌み名になった瞬間、ルネッタの母は自死を選んだらしい。まあ一命を取り留め、今も元気に生きているけれど。
一度だけ会ったことがある母は、ルネッタと全く似ていない美しい人だった。うん、まあ、多分だけど。
自分と乳母しか知らないルネッタは、美しいの定義がよくわからんが、キラキラしていたからあれが美しいってことなんだろうなあと思っている。
ほら、宝石とか朝日とか、人が綺麗だっていうものは大抵、キラキラして眩しいから。そうなんだろうなと。ヴァイスが聞けば、そんなんに定義は無ぇ、と眉を寄せるんだろうな、と思って。ルネッタはなんだかヴァイスに会いたくなった。へんなの。
ルネッタは、本棚にぎっしり収まったボロボロの本の、背表紙を撫でた。
「……国が平和であるために、私たちはここで生きて、呪いが発動しないように死ななくてはいけなかったんです。…長い、長い年月をかけ、何人もの魔女が静かに死ぬ方法を探しました。でも、誰も成功しなかった。何重にも封印が施されたこの部屋で、たくさんの魔女が死に、その度に国は揺らぎました」
ここが魔法を扱うものだけの国でなければ、とうに終わっていただろう。国殺しの魔女が何代も研究を繋いできたように、国民もまた、何代もに渡って国を繋いできた。
ルネッタは、人差し指をよいしょと差し込み、一冊の本を抜き出した。
それは、何十人目かの魔女の手記だ。
この魔女の字は、汚くて少し読みづらい。あまりちゃんと字を教えてもらえなかったらしいのだ。なのに、とてもおもしろい魔法をたくさん思いつく魔女で、びっしり書いているから本当に読み辛い。読みづらいのに、読みたくなるところが良い。ルネッタは読みづらい魔女、と呼んでいる。
「私たちは、すぐにでも国を殺せる、恐ろしい魔女です。だから、国殺しの魔女と呼ばれているんです」
「違うわ」
はっと顔を上げて振り返ると、ソフィはぎゅうと眉を寄せ、顔を真っ赤にしていた。
「ぐ、具合が悪いんですか…?」
「…違う、違うわ。違うわよルネッタ!」
「え、ええ?」
なんだろう。自分は何かしたんだろうか。いや、変な話を聞かせたせいだきっと。
どうしよう、とルネッタは頭を回転させるけれど、ルネッタに魔法の事ならなんでも教えてくれた先輩たちは、背後の本棚でひっそり沈黙している。
そりゃあそうだ。命令でも懲罰でもなく、自分でこの部屋に入ってきた人なんて、今までにいなかったのだから。国殺しの魔女が何百人束になっても叶わない綺麗なお姫様は、「違うのよ」と涙をこぼした。
え、涙? うん、涙だ。うそ、え、泣かした。泣かしてしまった。どうしよう。
ルネッタは混乱した。大混乱だ。
あの夜。他国で開催される夜会だなんて、意味のわからない場所になんだか勢いで参加してしまったルネッタは、あちこちで、ヒソヒソといやーな感じで見られていた。
それくらい、なんてこたないし、隣でヴァイスは「お前有名人だな」と笑っていたので、気にもしていなかったけれど。
ソフィは、そんな中で、キラキラ光る宝石とドレスで、流れるようにお辞儀をして、優しい声で「お会いできて光栄です。何かお困りの事はありませんか?」と微笑んでくれたのだ。場違いなルネッタを笑うことなく、本当に心配そうに、優しく声をかけてくれたのだ。
ルネッタに、のんびりいきましょう、とマナー教育をしてくれる先生みたいに、完璧で優しい、綺麗なご令嬢。
そんなソフィが!泣いている!
あわあわと本を抱えたままルネッタが手を伸ばすと、ソフィは「違うのよ」とルネッタの手を握った。
何が違うんだろうか。何だろう。どうすればいい。もしかして寒いんだろうか。毛布をかけた方が良い?いやでもこの薄い毛布は、城を逃げ出してそのままだからきっとカビ臭くて汚い。いつもルネッタは浄化魔法をかけていたけど、今そんなことをしている人はいないだろうし。じゃあ魔法をかけて暖めてあげたらいいのか。困った。困ったぞ。
ルネッタは、むむむ、と眉間に皺が寄っていくのがわかった。へーか。
そっと心の中で唱えてみる。返事は無い。当たり前だ。
ソフィは、ぐいと涙を拭いた。
「具合が悪いわけじゃない、貴女が、悪いわけじゃない、貴女が、貴女たちが、悪いことなんて無いのよ…!」
「え」
ルネッタは、ぱちん、と瞬きをする。
「貴女たちは、いつでもここを逃げ出せた。いつでも仕返ししてやることだってできた。でも、しなかったんでしょう?ここを逃げ出す方法じゃなくて、自分が、死ぬ方法を…次の魔女を産まない方法を、探し続けたのでしょう?…自分に、王族の、責任があるから…!」
「え、」
すごいな、とルネッタは瞬きをした。
すごいな。ソフィは、凄い。そう、ヴァイスもそうだった。
ルネッタは全然ちっともうまく喋れないのに。
どうして、つい数日前まで、知らない国の知らない誰かさんだった人が、ルネッタ達の声を拾ってくれるんだろう。
ここで生きていた魔女の誰もが、何も恨んでいなかったことを、誰も呪っていなかったことを、どうやっても伝えられなかったのに。誰にも、わかってもらえなかったのに。
ねえ、みんな!ソフィは凄いでしょう?
ルネッタは嬉しくなって、片手に抱いた本をぎゅっと抱きしめた。
「だって、それでも、私たちはこの国の王女だったんですよ」





