7.キャッチボールは一人じゃできない
昨夜から泣きすぎて重たい目をぶら下げたソフィーリアが、顔を洗い、再び付き添ってくれた抹茶と一緒に戻ると、リヴィオニスが木の器に入ったスープを差し出してくれた。
お互い朝食に手を付ける前にあれやこれやと会話をしていたので、温め直しましょう、と鍋に戻されていたのだ。
改めて手に取ると、木の器はすべすべで手触りが良く、具沢山のスープは良い香りがした。
「リヴィオニス様は、とても器用でいらっしゃるのね」
「どうかなあ。弟や母なんかは、父とよく似ているって言うんですよね。がさつで野蛮でいかにもウォーリアン家の男だって」
「リヴィオニス様が?」
「はい。失礼ですよね。誰がクソ親父とそっくりだ」
それこそ父親に失礼では、と思ったがソフィーリアは笑っておいた。
不満そうなリヴィオニスは可愛いし、彼の母である社交界の華、アデアライドとそっくりの品がある美しい顔で「クソ親父」と言うところも、可愛いな、と思ったので。
す、とスープを口に運ぶ仕草も、大変お美しい。
はてここはどこぞの森でなく王城の食卓だったかしらん、なんてな。
「いただきます」
「はい」
ソフィーリアもそれに倣って、スープを口に運ぶ。器とセット、というか同じ木から作ってくれたスプーンは、軽くてすべすべだ。ほんのり木の香りがする。
たった一夜でこのクオリティーの物が、作れるものなのか。
不思議なことばかりだが、ソフィーリアはウォーリアン家の人間に常識を問うことは諦めたので大丈夫だ。細かい事を気にしてもしょうがない。目の前にあるそれだけが真実である。
ソフィーリアは、香り高いスープを口に入れて、それで、目を大きく見開いた。
え、なにこれ?は???ん?????
ソフィーリアは固まった。
雷に打たれたような?
流水に突き落とされるような?
どう表現すればいいんだろうか。泣きたくて笑いだしたくて、その衝撃に目を閉じることすら敵わない。
ソフィーリアは、スープから顔を上げた。
「…おいしい…!!」
「良かった」
ほ、と頬を染めるリヴィオニスはかわいく、スープはとても美味しかった。
そう、美味しい。美味しいのだ。美味しいのだ!
玉ねぎが甘くて、スパイスが効いていて、あたたかくて、濃厚で、美味しいんだ!
「…わたくし、こんなに美味しい食事は初めてです…」
「そっ…れは言い過ぎですよソフィーリア様っ…!!!!」
リヴィオニスは真っ赤になって首を振るけれど、お世辞でも冗談でもなんでもない。
ソフィーリアは今、生まれて初めて、食事をしているのだ。
食事を、楽しいと、嬉しいと、美味しいと、本当に生まれて初めて、思ったのだ。
まるで、生きているように。
「あは」
ソフィーリアが笑うと、リヴィオニスは困ったように眉を下げて笑ってくれた。
本当は泣きたいくらいで、美味しくて嬉しかったのだけれど、ここで泣けばまたスープが台無しだ。ソフィーリアはこっそり息を吸って、吐いて、スープを口に運んだ。
「おいしいです、リヴィオニス様」
「も、もうそのへんで…!」
この感動も、喜びも、リヴィオニスは想像もできぬだろう。そりゃあそうだ。大抵の人間にとって、食事というものは、「美味しい」を楽しむ時間だ。
まさかソフィーリアがそれを知らないだなんて、リヴィオニスは思いもしないだろう。
ソフィーリアにとっての当たり前が、他の誰かにとっては当たり前じゃなくて、誰かの当たり前がソフィーリアにとっておとぎ話なんだってことは、ソフィーリアしか知らないのだ。
もどかしいけれど、それを訴えればまた泣きだしそうだったので、ソフィーリアは、この大きな感謝が少しでも伝わればいいと一生懸命に微笑んだ。
「だって、とても美味しいわリヴィオニス様」
「ひっ」
ひって何だ。
「ところでリヴィオニス様」
「はい」
食事を終えると、リヴィオニスはどこからともなく木のコップを取り出しお茶を淹れてくれた。
ソフィーリアが素直に感動すると、リヴィオニスはにこにこと頬を染めて大層可愛らしかったので、ほんとにこれを全部一夜で?とかは聞いていない。んなもん些事だ些事。
もはや何が出てきても驚かない事を決めるソフィーリアである。
「今はここは、どのあたりなのでしょうか」
「ああ、暗かったし、そういえば行先すら言っていませんでしたね」
失礼しました、と眉を下げるリヴィオニスに、ソフィーリアは首を振った。
「ええとですね、昨日は王都の西側から側道に入りました。城からロータス家のお邸に向かう途中にある道なんですが、人通りが少なく、見通しも悪いのでピッタリだなと。そこから抹茶が全速力で走って森を突っ切っていたところです。もうじき、ハーデルに着きますよ」
地図を出しましょうか、と聞かれソフィーリアはまた首を振った。
国の周辺なら、浮かれ脳みそ君でも覚えているのである。
「王都からそれなりに離れていますでしょう。マッチャさんって本当に速いんですね」
「ぶっひひん」
だろ?とか、まあな!とかそんな感じで抹茶が鳴いたので、ソフィーリアは笑った。
「そうですね。抹茶は足も速いし、崖だろうと登ってくれる根性があるんで、最短距離を走れるんです」
「マッチャさんって本当に凄いんですね」
「ぶっひん」
いや崖って。根性って。
どっかの民族が崖に生息する山羊と共に暮らす話を、ソフィーリアは本で読んだ記憶がある。が、馬も崖を登れたんだったか。ん?そんな馬もいたような。いや、いなかったような。
馬について詳しくないソフィーリアは、一瞬考えた後、まあいいかと考えることをやめた。どこぞのどなた様にここで、いや君馬とはね、とか語られても鬱陶しいだけである。登れるって言ってるから登れるのだ。それでいい。些事だろ些事。
「つい、いつもの調子で走ったので、ソフィーリア様に無茶をさせて申し訳ないです」
「ひひん…」
「そんな、お気になさらないでください。わたくし、今日は大丈夫な気がしますの!」
さすがに崖を登られたらちょっとあれだけども、ただ走るだけなら今日はもっと耐えられる気がする。
気合十分にソフィーリアが言うと、リヴィオニスは抹茶と顔を見合わせた。
「いえ、ここから町までそんなに距離がありませんし、歩いて行きましょう。日暮れには到着できますよ」
「ぶひん」
抹茶はこくりと頷いた。
なるほど。川でソフィーリアが抹茶に「今日もよろしく」と言った時に、反応が良くなかったのはこういうことなのか。二人に随分と気を遣わせてしまったことに、ソフィーリアは罪悪感を覚えた。
そもそもソフィーリアがいなければ、とうに街に着いていたに違いないのに、歩いて移動をするという。これ以上そんな面倒をかけるわけにはいかなかった。
「だって、マッチャさんだったらあっという間なのでしょう?そんなの、申し訳ないです」
「んー、じゃあこうしましょう」
よいしょと立ち上がったリヴィオニスは、抹茶の鬣を撫でた。
「ソフィーリア様、抹茶に乗ってみてください。それで、本当に大丈夫か確認しましょう」
ね。と微笑まれて、ソフィーリアは立ち上がった。絶対に大丈夫、と自信を両手に握り頷く。だって、抹茶はこんなに賢くて優しいのだ。何を怖がることがあろうか。ここで立たなきゃ女が廃る。廃る程の大した名があんのかってことはまぁ置いといて。
「お願いします!」
「はい、では失礼しますね」
「!」
失礼、とその言葉と同時に、ソフィーリアの身体がリヴィオニスの手によって軽々と持ち上げられる。
そして、とすん、と抹茶の背に乗せられた。
で。
「…!!!!!!!!!!!!!!」
ソフィーリアは驚いた。
いやもうびっくりだ。昨日は暗かったし、すごく速く走っていたし、何より初めてだったからなあ。そりゃあ怖かろう。
ところが今日のソフィーリアは一味違う。ぐっすり寝て、起きて、マッチャさん可愛いなあ恰好良いなあ、と元気なソフィーリアだ。
そんなソフィーリアが、じっと大人しくしてくれている抹茶の背から見る景色は、とても綺麗だった。
元気な木々に、木漏れ日の光、頬を撫でる風、鳥のさえずり。
今まで感じた事が無い、自然の美しさと心地良さは、なんていうか、あの、な、そう。怖かった。
いや、ほんとびっくり。びっくりですね。マジで、超、怖い。怖い。
景色が綺麗とか自然が気持ちいいとか、ソフィーリアはちょおおおおどうでもよかった。んなことより怖かった。
高い。視線が高い。ちら、と足元見て吐きそう。怖い。
だって浮いてる。足が地に付いていないんだから浮いているんだ。浮いてんだよ。ソフィーリアはこれに関しては異論を受け付けない所存である。
「…やめておきませんか?」
そっと声を掛けられても、ソフィーリアはリヴィオニスの顔を見ることができない。
下を、見たら、死ぬ。
ソフィーリアは確信した。ソフィーリアは、高所恐怖症だ。昨日のあれは、間違いじゃなかった。
馬がどうとか慣れがどうとかじゃなくって、高い場所にいる、と脳が認識した瞬間に恐怖が襲ってくるのだ。理屈じゃない。理屈と共に生きてきたはずなのに、ソフィーリアの脳みそ君はすっかり本能で仕事をするようになっちまった。まあしょうがない。二代目に就任して日が浅いからな。もう少し様子を見てやろう。うん。だから、
「だいじょうぶです」
「絶対大丈夫じゃないですよね」
うん、大丈夫じゃないけど。ないけど、足手まといになるのは、嫌だ。誰かに、リヴィオニスと抹茶に迷惑をかけるのが、ソフィーリアは嫌だった。何より、そんな自分が本当に嫌だ。
ふるふるとソフィーリアが首を振ると、リヴィオニスは一際優しい声を出した。
「ソフィーリア様、僕も抹茶も、貴女と楽しく過ごしたいんです。ね、これは公務でも行軍でもない。貴女と僕と抹茶だけの旅なんです」
ソフィーリア様、とリヴィオニスの優しい声が言う。
「どうか、僕を見てくれませんか?」
見たいけど見られない。下を、見ることができない。
多分、リヴィオニスは、それをわかっていて言っている。
リヴィオニスを見る事すらできぬのだから無理だろうと、優しく諭しているのだ。
「………っ」
意を決してソフィーリアが下を見ると、リヴィオニスは両手を広げていた。
「はい」
にっこり笑う、それが、そう、悔しい。
そうか、これが悔しいって感情なのね。
ソフィーリアは諦めたり飲み込んだりして生きてきたし、5分でこれを暗記しろと王子が読むはずだった書類を渡されても、明日まで書類をまとめろと無茶ブリされても、なんとかしてみせたし、こういう、どうにもできない事に、う~~!!ってなるのは初めてだ。なるほど、これは実に不愉快な感情である。
ソフィーリアは、うう、と小さく唸りながら両手を伸ばした。
それにリヴィオニスは、抱き上げた時と同じように、ひょいとソフィーリアの身体を持ち上げ、すとんと地面に降ろす。愛しの地面にほっとしてしまう事が、ソフィーリアは悔しくてならない。
「ソフィーリア様、僕と抹茶とのんびり旅を楽しみましょうよ」
「……わたくしもマッチャさんに乗りたかったです…」
こんなに素敵な馬は、きっと他にはいない。
なのに、ソフィーリアはその走りはおろか、背に乗ることすら楽しむことができないなんて。
しょぼんとソフィーリアが肩を落とすと、抹茶が、ひひひん、と一つ鳴いた。
「ソフィーリア様、抹茶がそんなに寂しがらないでって」
「…さみしい?」
寂しい。ソフィーリアは口の中で転がす。
なるほどなあ、これが寂しいって気持ち。
ぽつん、と一人取り残されたような、心もとない、こう、胸がすーすーして、ぎゅうってなって、残念なような、そんな気持ち。これも良いもんじゃあないな。
できれば。できれば知りたくなかったこれは、ずうっと昔。まだ小さなソフィーリアが、外の世界を知った時の、そう、確かあの時の気持ち。そうか、あの時。
あの時、お茶会や街角で、子供を抱きしめたり頭を撫でたりする大人を見て衝撃を受けた時。
「わたくし、悔しくて寂しいです」
あの時きっと、ソフィーリアは寂しかったし悔しかった。
あの時は言えなかった。いや、知らなかったんだ。
んなもんは無意味だって、むしろ悪化させるだけだって知ってたし、それよりも諦めた方が早かった。己の感情なんぞ、飲み込んで無かったことにしちまった方が、生きやすかった。
でも、今、ソフィーリアの前には「そうですね」って眉を下げてくれる人がいる。
自分の気持ちを意識すること。誰かに伝えること。聞いてもらえること。
それが、こんなにも胸弾むことだなんて、ソフィーリアはちっとも知らなかった。悔しいも寂しいも良いもんじゃないけれど。そうか、でも、これは良いものだ。まあいっかって。しょうがないな、って思えちまうんもんなあ。世界はソフィーリアの知らないことばかりだ。
「ソフィーリア様?」
「有難うございます、リヴィオニス様」
ごめんなさいじゃなくて、心からの有難うを、大好きな人に言える事。
微笑めば、嬉しそうに笑い返してくれる人がいること。
それがこんなにも心穏やかで幸せだってことを、ソフィーリアは初めて知ったのだ。