6.世界よこれが可愛いの暴力だ
可愛い。愛らしい。愛くるしい。ぎゃーってなってぎゅーっとなる。わーとなってびゃーっとなって地面を叩いて転げたくなる。
なんの話って、かわいいって以外にかわいいを表現する言葉の話だ。
うん。後半がなんかおかしなことになっとるのは、ソフィーリアとて自覚があるのでそっとしておいてほしい。ちっちゃな頃から母親に、家庭教師に鍛えられ、王太子の婚約者となってからは王城の教師や王妃の教育を受けてきたソフィーリアであるが、昨夜から、その頭脳は仕事を放棄している。
まあ仕方が無い。ソフィーリアは、脳みそ君の墓標を立ててブルーベリーの飴を供えた女だ。今は亡き脳みそ君に代わって仕事をする浮かれ脳みそ君は春真っ盛りなので、まともな仕事ができぬ。なんの話だって方は、婚約者の浮気現場を見ちゃったソフィーリアが旅立つ夜、脳みそ君が殉職する瞬間を見てほしい。
浮かれ脳みそ君は、うーららと歌いながら、可愛いを表現する言葉を探している。
なぜって、まあ聞いておくれよ。
ソフィーリアの目の前で、リヴィオニスが白い肌の綺麗な顔を真っ赤にして、長い睫毛を伏せ、ふるふるとブルーベリーを滲ませているのだ。
はあ?
意味が分からんかわいさだった。
「かっ…」
ソフィーリアは口を塞いだ。
淑女として漏らしてはならん声が漏れそうになったので。
いや、もう王太子の婚約者でもロータス家の長女でもないソフィーリアは、淑女たれ、という母親の愛情かっこ呪いかっこ閉じるを忘れて生きて良いと自分でも思うんだけども。それとこれとは別だ。女たるもの、惚れた男の前で出しちゃならん顔と声もある。まあ、ソフィーリアは噂に聞く初恋ってやつを只今体験中なので、経験値が無い。主語がでけーわ、って怒られたら謝るしかないんだが、そのへんも、そっとしといてほしい。何せ初恋なんだよ、ソフィーリアちゃん。
そんで、ソフィーリアよりよっぽど可愛いこの男の前で、少しでも可愛くありたいってそれを、乙女心って呼ぶんだろう?ソフィーリアは自分にそんなもんがあることも初めて知ったんだけどね。
「あ、あの、その、僕、その、ソフィーリア様を、その、こっそり、応援、させて、いただいておりましてっ…ああ、なんでご本人にこんな…!」
ば、とリヴィオニスは、また両手で顔を覆った。
ちなみに先ほどまで手にしていたスープは、抹茶がそっと地面に避難させた。リヴィオニスから少し離れたところに置いているあたり、抹茶は本当に賢い。
「き、気付いたら、その、ソフィーリア様のファンクラブ会長とか呼ばれて、おり、まして、その、ファンクラブの会員だっていう連中が、気付いたら、いっぱい、いて、あの、その、はい…」
ぷしゅ、と空気が抜けるような、湯が沸騰するような音がリヴィオニスから聞こえたのは多分、気のせい。
ソフィーリア自身から聞こえた気がするのも、多分、気のせいだ。
ソフィーリアは、ぽっぽとほてる自身の頬に、手を添えた。やけに手が冷たい気がするなあ、なんて。白々しいかしらん。
「わたくし、なんか、に、」
「なんかって言わんでくださいよ僕この3年間あなた一筋だったんですよ…」
「…!!!」
ひひん、と抹茶がしょうがないものを見るように鳴いた。
ソフィーリアは抹茶が何を言っているのか生憎と理解ができんが、お前らさあ、としらけているように見えるのも、多分、気のせいだ。抹茶はそっと、離れた場所に移動した。全然気のせいじゃなさそうだ。
めっちゃ気遣いする抹茶さんにソフィーリアは心中で頭を下げた。
そんで、わあああ、となんだか無性に叫び出したくなって両手を握る。ソフィーリアの鍛え抜いた腹式呼吸による発声は、まあまあの声量なので、ここで叫ぶのはだいぶ不味い。
「……ぼく、きもちわるくないですか」
「かわいいです」
「!」
「!」
間違えた。
両手の隙間から、ちら、と真っ赤な顔で潤んだブルーベリーで言うのがあんまりに可愛かったので、つい。ソフィーリアはぺろっと言っちまった。
ソフィーリアは、両手を口で押さえる。時すでに遅し。言ってから押さえても意味は無い。
「リヴィオニス様っあ、あの、違います、いや、違わないんですけどそうじゃなくて、あ、待ってくださいこっち見ないでくださいかわいいですあ、間違えた」
「……!」
うりゅりゅりゅ、と震えるブルーベリー色の艶々した瞳にまっかっかなほっぺは、最強と呼ばれる家門を背負うはずだった、期待の騎士とは思えない愛らしさである。
入団早々あっという間に、騎士の中でもとりわけ優秀なものが集う第1部隊に配属され、重要な式典や夜会の警護にも姿を見せたリヴィオニスは、男女問わず人々の憧れの的であった。
そのリヴィオニスが、ソフィーリアなんぞのファンだと言い、今、こんな顔を見せている。
浮かれ脳みそ君が笛を吹きながら踊り狂ったとて誰が責められようか。
ふんぬと頬の内側を噛むソフィーリアの心情なんぞ知らんリヴィオニスは、きゅ、と切なそうに眉を寄せた。
「…貴女の、国を想い、身を削る決意を、僕は、守りたかったんです」
「………、」
ソフィーリアは。
ソフィーリアは、ずっと一人で生きてきた。
ずっと一人だと思って生きてきた。
毎日、黙々と作業をこなし、与えられた役割をこなしてきた。提案した政策を王子の名前で可決されたって、諸外国のお偉方の名前を忘れやがる王子のフォローをしてやったって、もはや腹も立たんし悲しくも無い。
どんな場面でも王子の側にいる事ができ、時には王子の代役ができるポジションにあるのは、婚約者のソフィーリアだけだったから。やり遂げなければならんと、国のためだけに在れと、ソフィーリアは己に言い聞かせ、機械のように日々を送っていた。
王子にブスだ面白みがない女だと腹を立てられても、なんの感情も湧きゃしない。
我ながらつまらない人間だと、ソフィーリアだって自分を好かぬ。
なのに、それなのに。
こんなソフィーリアを認めてくれていた。ずっと、支えてくれていた人がいた。
この荒れ狂うほどの激情を、なんと言えばいいんだろう。
あれほど毎日勉強をして書類と睨めっこをしてきたはずなのに、どうしても言葉が出てこない。出口を求める感情に、ソフィーリアは涙を止められなかった。
「…ソフィーリア、様」
「ごめんなさい、わたくし、ふふ、うれしくて、リヴィオニス様がかわいくて、」
涙は、拭いても拭いても流れてきた。笑いも止まらない。胸がドキドキする。
ソフィーリアの心内は、しっちゃかめっちゃかだった。
荒れ狂う夜のようだし、陽だまりに揺れる花のようだし、雨上がりの水たまりのようだった。自分で自分の心が制御できない。形が見えない。
どんなに不味いものでも咀嚼して、嚥下して、肥やしにしてきたのに、大切すぎて口に含むことすらできやしない。両手で掬って抱えて抱きしめて、一生手離せない。
ぎゅ、と目を細める、この世で一番綺麗な紫が、心底いとおしい。
「わたくし、生きていて良かったのね」
「…でなけりゃ、僕が死んじゃいます」
ずいぶんと大げさなこと言う。
泣きそうなその顔を、この瞬間を、ソフィーリアはきっと生涯忘れないだろう。
ソフィーリアは、国でもなく王でもなく、ソフィーリアのために心を砕く、このひとを幸せにしなくてはいけないのだと、その瞳にもう一度誓う。
リヴィオニスは、ソフィーリアに向かってそろそろと手を伸ばした。
「ふれても、いいですか」
「ふふ」
今更だ。
今更、何を言うんだろうな。誰あろうリヴィオニスだけが、ソフィーリアに優しく触れてくれたのに。さんざっぱら、ソフィーリアの心をかき回して撫でてくれた人なのに。
「昨日は、そんなこと仰らなかったのに」
「そう言えば、そうでした」
でも例えばそれが、ソフィーリアがリヴィオニスに触れたいと思って、思わず手を握り込むような、衝動と恐れが同居する、この恋が故なのだとしたら、それはもう、これ以上ない歓びだ。
あは、と笑う幼い顔が、ソフィーリアの歓びだ。
ソフィーリアは、伸ばされたリヴィオニスの手を握った。
ぎゅう、と。力いっぱい。綺麗な顔に反して、分厚くて硬い、剣を握り慣れた無骨な手を、自分の枯れ枝みたいな手で、力いっぱい握った。
「わたくしも、リヴィオニス様に触れて良いのでしょう?」
「もっ、もちろんです」
「だったら、貴方だけわたくしに許可を求めるのは不公平だわ。わたくしに許してくれる分、貴方にも許されていますのよ」
「っ」
そうであればいいな、とそれは殆どソフィーリアの願望だった。
どれくらい許されている?どこまで許してくれる?
そう問う代わりに、ソフィーリアは震えるブルーベリー色を見詰めた。いとおしい。今まで見てきたどんな宝石よりも美しく、どんなシェフがこさえたスイーツよりも甘そうな瞳が、いとおしい。
真っ赤な顔でソフィーリアの涙をぬぐったリヴィオニスは、困ったな、と笑った。
「だったら僕、貴女に何でもしていいってことになっちゃいますけど」
「まあ」
とんでもなく恥ずかしがり屋のくせに、こういうことは、さらっと言っちまうのか。
そのくせ、林檎もトマトも裸足で逃げ出して、今日から俺たち赤色代表って名乗るの止めますね!って宣言しちまいそうなくらい、これ以上は無いだろうってくらい真っ赤な顔してさ、ぶすっって口尖らせる、かわいいひと。
ソフィーリアの全部をよこせって、かわいらしく強請るおそろしいひと。
それでもいいのか。逃げなくていいのか、ってかわいらしい脅迫に、ソフィーリアは笑った。なんてこっぱずかしい男だろう。
「わたくしが逃げると思っていらっしゃるの?」
それとも、逃がす気でもおありなのかしら。なんて。
ソフィーリアは泣きながら笑った。
この期に及んで、まだそんなことを言うんなら昨日の話と随分違うじゃないか、って胸倉掴んで喚き散らしてやろうか。なんて。なんて。
そんなの。
「離さないって言ったじゃない」
「っ」
「ここにしか、わたくしの居場所は無いのに」
本当はさ、本当の本当は、ソフィーリアは怖くって仕方が無いんだ。
これまで、一度だって、誰かに愛された事が無い。
たまに提案や考えを褒められたって、気を遣ってもらってすいませんねってその言葉を信じる気になんざなれなかった。そんな気を遣わってもらわなくたってね、ソフィーリアはそれこそ逃げられぬし、死ぬまで己に自由がない事を知っていた。国民のために、王のために生きる事だけがソフィーリアの価値だ。死すら勝手は許されないことを、ソフィーリアは知っていた。
ロータス家に生まれたからには、ロータス家の貴族として死ねと育てられた。
死。
──死にたかったんだろうか。どうだろう。
それすらも、ソフィーリアはわからない。
過呼吸くらいじゃあ死ねない、ってことは知っていたけれど、じゃあ、あの時やあの時、死にたかったんだろうか。
わからない。
ソフィーリアは、自分の心も、もう、ずっと見ないふりをして生きてきた。
だから、そんな自分が、誰かに想われているのだと受け入れることは、恐ろしい事だ。
だって信じられない。
何かを信じるには、根拠がいるだろう?理屈が欲しかいだろう?なのに、ソフィーリアは自分が誰かに思ってもらえる、そんなおとぎ話を信じられる根拠を、何ひとつとして持たないのだ。
君、君考えてごらんよ。
その辺に転がってる石を、汚い車輪を、刃こぼれしたナイフを、好きだと言う人が目の前にいたとして、「えっ?」ってなるだろ。ならないよって人はそりゃ、器がでっかい。世知辛い世の中で貴重な人材なのでぜひともそんな自分を大事にしてほしい。
ソフィーリアの器は、見た目だけ立派でその実浅くてひびが入っている。ようく吟味してから放り込めって教わったし、長く無理やり使ってきたもんだから用心せねば、ひびから中身が流れ出ちまう。
器に入れるためには、受け入れて良いのか受け入れるべきか、考えるための根拠が必要なのだ。
ああ。ああ、なのに、リヴィオニスは!
宝石を手にし、美しい馬でどこまでも行け、最強と並ぶ剣を持つリヴィオニスは、その辺に転がってる石を、汚い車輪を、刃こぼれしたナイフを、選ぶと言う。
それを信じるのは、ソフィーリアにとって、ひどく、恐ろしい事だ。
こんなにも甘やかで美しくやさしいものを差し出されたのは、初めてなんだから。
「僕がそれを喜んでしまうことを、貴女は許してくださるんですね」
けれども。
うれしい、とふやけた顔で笑うこの美貌が、ソフィーリアの恐れを吹き飛ばす。
根拠?理屈?ばっっっかじゃねーの!って、浮かれ脳みそ君が器の上で笑って、笛を吹いて踊って歌って飛び跳ねて大忙しだ。
ぜーんぶどうでも良くなっちまうんだから、いやあ恋って素晴らしい。
真っ赤な顔で、リヴィオニスと二人で笑うソフィーリアは、くたびれた自分の器を、浮かれ脳みそ君がそのうち割っちまうんじゃないかなって期待している。
バリーン!って響く音は、きっと爽快だ。
そしたら、ほら。とびきり大きくて丈夫で美しい、木の器に新調するんだ。
誰に言われたでも押し付けられたでもない、ソフィーリアだけの、たった一つの器にさ。