83.旅支度
「僕と逃げましょう」
ぶわっ、とソフィの眼の前に夜空が広がった。
両手を伸ばして己の中から必死に探したものかき集めて生きていた日々が、粉々になって輝いた夜空だ。キラキラ眩いばかりの明けぬ夜空。
きっとあれより美しい夜空はこの世にない。
──いや、どうかな。どうだろ。
リヴィオがいてくれるなら。リヴィオがソフィと名を呼ぶのならば、荒れ地でもヘドロの海でも、ソフィにとっちゃ一等地だもんな。わはは、ロケーションなんざどうだってよかったわ。婚約者と義妹のアハンなシーンさえ塗りつぶしてくれたくらいだもの。リヴィオってすごい。
ちょっと優位に立てたと思っても、口づけ一つ、どころか言葉一つ視線一つで、ソフィの全部を攫っちまう。
見失いそうになる自分をどうにかこうにか手繰り寄せて、ソフィは笑った。
「わたくしと一緒に逃げて、リヴィオ」
「はい!」
はあああああん満面の笑みかわいいいいいい!! などと脳みそくんが融解したのは言うまでもなかった。
が。
素早く凝固できたのは、リヴィオが「さて」と立ち上がったからだ。
「善は急げです」
キリッと美しい顔をより美しく輝かせるリヴィオに、ソフィは「へっ」と間抜けな声を上げてしまった。へっだって。
間抜けかつ間抜けなソフィにも、リヴィオは動じない。リヴィオってこういうとこあるよね。切り替えが高速。さっきまであんなに可愛かったし、あんなに格好良かったのに。いや、リヴィオは何時如何なる時でも可愛くて格好良いけども!
「ここから次の街までそう遠くはないようなので、デートと見せかけて出発してしまいましょう」
デート! ソフィが未だ慣れぬワードをさらりと口にしたリヴィオは鞄に無造作にローブをつっこむ。ご存知、空間魔法がかけられた鞄なら、ずぼおっと入れられた大きな布もあら不思議。なかったことになる。お城に戻って来る気はありません、って腹つもりごとね。
「ローブはしまった方が良いのね?」
「街を散歩するだけでローブは着ないですからね」
なるほど。ソフィは頷いて立ち上がった。
「荷物を取ってくるわ」
で、部屋を出ようと扉に手をかけると、
「待って」
「!」
ぐ、と腰を引かれた。
大きな手のひらがお腹の上にあって、背中にはリヴィオの体温があって、絹糸のような黒髪がソフィの頬を撫でてる。ふ、ふおおお引き止めるにももうちょっと方法があるのでは! と浮かれ脳みそくんが飛び跳ねるがしかし、騎士モードのリヴィオは動じぬ。リヴィオってそういうとこあるよね。
「ソフィ」
「は、はい」
耳元で囁かれる己の名の威力とは、どうしてこうも凄まじいのだろうか。どんな魔法よりも簡単に壮大に、ソフィの脳みそを焼き切る。いや、溶かしきる。浮かれ脳みそくんが溶けた生クリームのようにでっろでろになるのだ。おっそろしい。もはや兵器。
「外に、誰かいます」
「え」
ソフィをでろでろにする声が硬い響きで言った言葉に、浮かれ脳みそくんが再び凝固した。なんて?
「人?」
「……この気配は……ベールナルドかな……。あの人ならもっと完璧に気配を消せるだろうから……わざと、かなあ」
みゅ、と眉を寄せるなんだか可愛い顔をしたリヴィオに、ソフィは脳内辞書をバララッとめくって「ベールナルド」を探す。
あ、そうだ。たしか、エレノアたちと旅に出る直前にリヴィオと手合わせをしてた騎士だ。
長い髪が空に舞っていたのを、ソフィはなんとなく思い出す。実はソフィ、リヴィオばっかり見ていたので、あんまし顔を覚えていないのである。だって空を飛ぶように戦うリヴィオは、そりゃあもう綺麗で格好良かったのだ。しょうがないわよね、と思っちまうあたり、やっぱり城で働けない、とソフィは認識を新たにする。油断すればすーぐリヴィオばっか見てリヴィオのことばっか考えている浮かれ脳みそくんじゃあ、とてもじゃないけど城勤めなんてできない。近衛騎士の団長の顔すら覚えてないんだもん。ソフィーリアが「次期王妃」をやっていられたのは、己の全てをすり潰して引き伸ばしていたからだ。今のソフィには、お偉い大臣だとか貴族だとか、知らないおっさんの名前と顔を覚えるなんて無理すぎる。なんでおっさんの顔ってみんな同じに見えるんだろ。
「考えても仕方ないか。行きましょう、ソフィ」
「は、はい」
リヴィオが扉を開けるので、ソフィは慌てて追いかける。
扉の向こうでは、薄いブルーの長髪を束ねた男が微笑んでいた。あ、そうそうこんな顔だったな。ぺったりと貼り付けた顔が表情を読ませない、城仕えが得意そうな顔。
「やあ、リヴィオ」
「どうも」
ベールナルドの微笑みは、柔らかいがなんか胡散臭い。まあ、そりゃそう。城ン中で立場のある人間が、シラフでいられるわけねーのである。
「おかえりなさい。それから、陛下を、国を守ってくださって有難うございました」
「……それを言うために、部屋の前で待ってたんですか?」
「まあ、そんなところです」
眉を寄せるリヴィオに、ふふ、と笑う顔はやーっぱり胡散臭い。騎士よりよっぽど官僚が向いていそうな微笑みなんだなあ。などと警戒するソフィがリヴィオの後ろにいることに気づくと、ベールナルドは笑みを深めた。
「お二人でお出かけですか?」
「デートです」
頷いたソフィに、ベールナルドは「おや残念」と腰にぶら下がる剣を撫でた。
「手合わせでも、と思ったんですがね。出発される前にお話したでしょう?」
「魔法を見せてくれるってやつですか? え、許可もらえたんですか」
「ふふふ」
「いやなんですかその笑い。こわっ」
ベールナルドが見せた「腹黒いところなんてひとっつもありませんよ」ってスマイルにソフィとリヴィオは震える。絶対嘘じゃん。絶対「許可」取ってないやつじゃん。
なんの許可なのかソフィは知らぬけれど、その「許可」とやらを出す人が聞いたらもんどり打ってねじ切れる笑みだ。その誰かさんにこっそり同情しちゃうソフィちゃんであった。
「おじさんのヤンチャに僕を巻き込まないでください」
行きましょソフィ、とリヴィオがソフィの肩を押すので、ソフィはぺこりと頭を下げてベールナルドの脇を抜ける。ソフィの部屋は、リヴィオの部屋の隣だ。とは言え、広い部屋なのでそれなりの距離がある。早く歩こう、と思ったところで、ベールナルドがリヴィオの名を呼んだ。
「君、斬りかかる瞬間にわずかに剣先が右にブレる癖があります」
振り返ったリヴィオに、ベールナルドは続けた。
「0.4秒ほど隙ができます。気をつけなさい」
0.4秒?! それって隙っていうんだろうか。剣術についてさっぱりなソフィはリヴィオを見上げる。
リヴィオは、静かな瞳でベールナルドを見ていた。
「カッとなりやすいところを自覚し改めようとしているところは大変素晴らしいですが、その分の時間と思考を他に回せば、更に伸び伸びと動けるはずですよ」
気づけば、ベールナルドの微笑みと声には、穏やかな優しさが満ちていた。陽だまりを眺めるようなそれは、ソフィが街で見かけた「親」の姿によく似ている。
「あなたは、まだまだ強くなる。もっと自由に重力を切り裂く君と、剣を合わせる日を楽しみにしています」
柔らかで、けれど心をぎゅうと握られるようなそんな声に、ソフィの口元は緩み、リヴィオは「むう」と唇を尖らせた。
は、はい可愛い〜〜!
リヴィオがヴァイスといる時に度々見せたこの顔はソフィには引き出せないやつ! 「大人」にしてやられた時に見せるやつ!! ふわ〜〜!!! と可愛さに内心震えつつ、ほっぺの内側を噛むソフィに気づいた様子はなく、ベールナルドは「お嬢さん」と微笑んだ。
「良い旅を」
そして、長い髪をふわりと揺らしベールナルドは背を向ける。
カツカツと響く靴音に、リヴィオは「くそう」と口を尖らせた。
「やっぱカッコいいな、あの人」
ベールナルドが格好いいかどうかはソフィにとって問題ではない。リヴィオが今日も可愛い。
ソフィは、かんわいいリヴィオにくすりと笑った。
「リヴィオの方がかっこいいわ」
「!」
目を見開くリヴィオのバラ色の頬がソフィは大好きで、「敵わない」と大人を悔しそうに見る年相応のリヴィオが大好きで、真正面を向いて背筋をピンと伸ばすリヴィオを尊敬している。
「ソフィは、世界一可愛いです」
「!」
ぎゅ、と握ってくれる手と一緒に歩く冒険の日々へ、さあいざ行かん!
更新が滞りまくっていて申し訳ないですが……いよいよあと1話です!
本日中に最終話を更新しますので、最後までよろしくお願いします!!





