5.朝とはつまり昨日の続きで明日の始まり
朝。
朝、目を開けるのが、ソフィーリアはあまり好きではない。
朝が来ちゃったなあ、って少し、憂鬱になるからだ。
だがまあ憂鬱と言うたとて、働かにゃならん。使用人を呼んで、顔を洗って、着替えて、食事をする。
家族と一緒に食事をすることは父に止められていたので、ソフィーリアは無表情の使用人の傍で、黙々と食物を口へ運ぶ作業をする。
作業。そう、作業だ。
面倒だが、食事をせねば腹が減る。それを放置すると体調が悪くなる。だから食べねばならん。料理人の腕も使われている食材も一流なのに、ソフィーリアはあまり食事が好きではなかった。
それに、人が言うような楽しさを感じた事は無い。
で、その作業が終わったら、茶会だ教育だが首を揃えて待っている。
こちらも矢張り楽しくはないが、王太子の婚約者って肩書が乗っかってるもんで仕方が無い。義妹のおさがりのドレスは引くほど似合ってないし、それを見たご令嬢が陰で笑っていることくらい知っていたが、じゃあ新しいドレスが欲しいかっつーと。それもまた、ねえ。自分なんぞに似合うドレスがあるとも思えんかったので。まあいいや。ってなった。
夜会用のドレスは憐れんでくださったのか「こいつセンスやべえな」って怒っているのか、王妃が手配してくれる事もあり、特に困らなかったので。まあいいやってなった。
合間には、大臣や文官の手伝いをしたり、婚約者としての公務をしたりする。
昼は、食べたり食べなかったり。
ソフィーリアには基本的に侍女がいなかった。城に行く時だけ、体裁があるので、リリーナの侍女が日替わりでくっついてきたが、なんぞ言われてんだろうなあ。ほんとにいるだけのお飾り侍女なので、ソフィーリアの世話を焼いたりはしない。
まあ、ソフィーリアも親しくもない人間に一日中張り付かれるのはご遠慮願いたいので、帰りは馬車集合ね、って感じの自由行動で問題は無い。
なので、茶会だとか要人との食事会とか、そういうのがあれば食べるし、無ければ特に、って感じだった。
そんで、夜が来る。
夜も夜で、夜会がなければ部屋で食事をして、課題の本や書類に追われて、落ちるように眠るのが常で。で、寝れば朝が来る。
その繰り返しだ。
毎日同じことの繰り返しで、終わりが見えない毎日に疲弊すれど、それが役割なので仕方が無い。ソフィーリアはそのために生まれ、そのために生きることを許されているんだから、そんなもんだ。
そんなもん、と思いつつ、夜に寝る事が嫌いで、朝が来ると憂鬱だった。
情緒不安定。だって女の子だもん。なんてな。
まあ、つまり、そんな息吸ったり吐いたりするだけで褒めてほしいわ、ってな毎日なので。
ソフィーリアにとって発声の為のトレーニングをしている時は、唯一何も考えなくて良いから、結構好きな時間だった。なーんにも考えず、時々フラフラになるまで走った。
それから、屋敷と城の送迎をしてくれる馬車に揺られる時間も、ソフィーリアは好きだった。
たくさんの、ふかふかクッションに埋もれて、丁寧に運ばれる馬車はいつも眠くなる。とは言っても浅い眠りなので、馬車が到着するとすぐに起きていたからだらしない姿を騎士に見られることはなかったけれど。涎たらしてる姿とか見られたら羞恥心で立ち直れなかった。
今思えば、騎士団には優しい人が多かったようにソフィーリアには思えた。ずっと、自分のそばに誰かの好意があるなんて想像もできなかったが、多分、気のせいじゃない。
ソフィーリアが疲れたな、と思うと、ことさらゆっくり歩いてくれたり。気づくと花が満開の庭園を歩いていたり。不思議と王太子に会う事無く屋敷まで帰れていたり。
あれは、多分、気のせいじゃない。
「騎士団の皆さんは、わたくしに気を遣ってくださっていたんですか?」
ソフィーリアがそんな問いかけをするまでには、実はちょっとしたやり取りがあった。
何をどうやったのか。
突然、具だくさんの温かいスープの香りがして、ソフィーリアは驚いて起きた。あれ、涎たれてないよね。とっさに頬を触ったのはご愛嬌。
「おはようございます」
「お、はようございます」
寝起き一発目の笑顔のまぶしさ!昨日のは夢じゃなかったんだな、と実感できる破壊力である。
「近くに川があるんですが、顔を洗いに行かれますか?」
にこ、と微笑まれてソフィーリアは「まぶしっ」と思いながら目を擦った。
目を開けて最初にこの笑顔でおはようを言われる幸福を噛み締めるソフィーリアである。今までのつまらん人生なんぞ、一瞬でどうでもよくなる。むしろこの瞬間のためだったのだ、と根拠の無い自信に満ちたソフィーリアは、頷いた。なんだっけ、そうだ川。
「お願いできますか?」
「もちろんです」
にっこり笑ったリヴィオニスが立ち上がる。と、のそ、と黒馬がリヴィオニスを突いた。
「ぶひん」
「あ、抹茶が川まで付いて行ってくれるらしいです」
「え」
リヴィオニスの後ろから、こっちだぜ、とばかりに抹茶が顔を振ったので、ソフィーリアは慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
僕はお鍋見てますね、ってリヴィオニスは今日も可愛い。
「あの、マッチャさん」
てこてこと歩きながらソフィーリアが声を掛けると、抹茶はちらりと振り返った。
何?と問い掛けているような仕草に、ソフィーリアの目尻が下がる。
ソフィーリアは、生き物とあまり、というかほぼ接したことが無いので、正直大きくて真っ黒な抹茶は触るのに勇気がいる。抹茶とて、初対面の小娘に触られるのは不愉快だろうと、ソフィーリアは手を伸ばしたりはしないが、美しい毛並みで、どうやら言葉を正確に理解しているらしい大変賢いこの馬をかっこいいな、と思っているし、人のような仕草を可愛いと思った。
「せっかく一生懸命走ってくださったのに、わたくし、ちゃんとお礼も言えず…。そればかりか、その、怖いとか気持ち悪いとか、本当にごめんなさい」
「ひっひん」
抹茶は、やれやれ、とばかりに首を振った。
なんだそんな事か、と言っているようにも見えるし、違うようにも見える。
「?」
ソフィーリアが首を傾げると抹茶は、ふん、と鼻息を吐いた。
多分、なんか違うのだ。
「えーと、今日は頑張ります」
「ひひん!」
あ、これも違うらしい。
むむ、と眉を寄せたソフィーリアは、自分の言葉を反芻する。頑張る。の、否定。ん?え?
「……もしかして、がんばらなくていい?」
「ぶひん」
これは合っているらしい。
頑張らなくていい。
すごいな。初めて言われた。ソフィーリアは感心した。
頑張って当然。もっと頑張れ。できて当たり前できなきゃ役立つように死ね。そんな世界で息をしてきたソフィーリアに、頑張らなくていいと。言う。馬が。なんか壮絶な訓練を耐え抜いてきたらしい、馬が。言う。
「あは」
思わず笑うと、抹茶は、それで良い、とばかりに頷いた。
主人が主人なら、馬も馬だ。
なんてやさしくて、かわいくて、あったかいんだろうな。凄いな。こんな世界があったなんて。
現実は物語のようにはいきゃしないが、それでも物語は丸きり嘘ってわけでも無いらしい。
ここにいるのがソフィーリアってのが信じられんが、でもここで生きているのが、今、ソフィーリアの現実なのだ。
「マッチャさん、有難うございます」
「ぶひん!」
あ。
そうか、とソフィーリアは機嫌が良さそうな黒馬の長い睫毛を見た。
「昨日は、暗い中一生懸命走ってくれて、有難うございました」
「ぶひん!」
正解!とばかりに抹茶は鳴いた。ちょっと上から見下ろすように、鼻先を上げるから、もう笑っちゃう。良くできました花丸あげよか、くらいの見下ろしっぷりなのだ。このお馬さん。
馬が家畜で人より知能が低いって誰が決めたんだろうなあ。少なくとも抹茶は、ソフィーリアより大層賢く、器がでっかい。あのバカクソ王子とか余裕で飛び越しちまう人柄、否、馬柄だ。
「マッチャさん、今日もよろしくお願いしますね」
「ひひーん…」
あれ、なんか顔を逸らされた。
で。
冒頭に戻る。
今まで体験したことが無い、心がぽっかぽかする朝。なんだかワクワクしちゃう、不思議な朝。あんまりに嘘みたいなんで、ソフィーリアはふと、これまでの人生を振り返ってみた。これが走馬灯ってやつ?ではなくて。
「騎士団の皆さんは、わたくしに気を遣ってくださっていたんですか?」
こんなふうに過ごしやすい時間には、騎士団がよく居た気がする。そう思って聞くと、リヴィオニスは「ああ」と嬉しそうに笑った。
「騎士団には、ソフィーリア様に恩を感じている者も多いですから。少しでもご恩をお返ししたいと考えていた奴らもいるんですよ」
「恩…」
んなもん、とんと覚えが無いソフィーリアは、けれど昨夜、御者をしていた騎士に言われた言葉を思い出した。
「ファン、クラブ…?」
「ぶふっ」
「!」
リヴィオニスがむせた。
スープを吹き出す、までいかないところが流石、お育ちが良い。妙に感心していると、顔を上げたリヴィオニスは「どこまで聞いたんですか」と眉を下げた。え、やだその顔かわいい。
「どこまで、と言われても…。その、リヴィオニス様がわたくしの、ファン?で、ファンクラブ??が、手助けしてくださると…その、よくわからなかったのですが、あれは冗談なのですよね?」
「あ、いやー…えっと、あ、うーん」
リヴィオニスは歯切れ悪く、首を傾げたり頭をかいたりして、抹茶が後ろから小突いた。
「いてっ」
「ひひんっ」
「え、やーだって、待って、どこまで喋るべきかって、思うだろう。気持ち悪いってソフィーリア様に言われたら、おまえ…」
二人の、二人?一人と一頭?いやもういいや。二人の会話。え、会話?いやこれもいいや。
ともかく、二人の会話の内容も意味も、ソフィーリアにはわからんかったが、リヴィオニスの最後の言葉は同意しかねた。
「わたくしがリヴィオニス様を気持ちが悪いなどと、言うわけがありませんわ」
「えっ」
えっ、て。こっちが、えっ、だ。
何を驚くことがあるんだろうか。
朝日をキラキラ浴びる、教会のステンドグラスから抜け出てきましたって顔の騎士に、ソフィーリアは人生丸っと救われて、どっぼんと恋に叩き落とされちまったのに。
盛大に春のファンファーレ鳴り響かせておいて、そらあんまりってんじゃないの。
ちょっとむっとしたソフィーリアは、じっと、その血が通った作り物のような顔を見詰めた。
「わたくし、リヴィオニス様ほど綺麗で格好良い方を存じ上げませんわ」
「ひ、いい」
あ。
リヴィオニスはなんだかわからない声を出して、両手で顔を覆った。
手にしていた、「昨日の夜つくりました」とついさっき自慢げにリヴィオニスが見せてくれた、スープが入った木の器が宙に浮く。
あ。
とソフィーリアが思ったその瞬間。
それを、はっしと、なんと抹茶が鼻先に乗せた。
スープが台無しになる事は無く、抹茶やリヴィオニスが火傷をする事も無い。
身動きしないリヴィオニスを、スープを乗せたままじろりと睨む抹茶に、ソフィーリアは思わず拍手を送った。
このお馬さん、かっこよすぎでは。
物語の世界から飛び出したような名馬は、ふんと一つ鼻を鳴らした。