76.変心
雰囲気はけっして良いものではない。
不安。恐怖。苛立ち。困惑。
良くない感情をボウルに入れてまぜまぜすればこんな感じ。そんな空気。
どこが? なにが? って、広場に集まった人々の空気だ。
「一体、何が起きたんだ」
「ドラゴンが本当にいるなんて信じられない!」
「きっと悪いことが起きる前触れに違いないわ!!」
まあ、そりゃあそうなるわなあ。ソフィだって、ドラゴンを見て心底たまげたんだもの。
取り乱さずにいられたのはリヴィオやアズウェロが一緒にいたからで、ドラゴンがエレノアと旧知の間柄であると知っていたからだ。
いきなり自分の頭の上にドラゴンの群れがやってきて、驚かないでいられるか? いや、んなわきゃあるか。
「やっと平和になったと思ったのに、どういうことだよ!」
「やっぱり貴族なんてあてになりゃしないんだよ」
「何言ってんだよ! エーリッヒ様が王様になってくれて良かったって、おまえ言ってたじゃねぇか!」
「そうだよ、あの方は良い王様だ!」
「やめろよ! ドラゴンが攻めてきたのは事実じゃないか!」
小競り合いがあちこちで起き始め、リヴィオがソフィの肩を抱く。大きな手のひらに自分の手を重ね、ソフィはリヴィオを見上げた。
心配そうにこちらを見るブルーベリー色の瞳に、ソフィは微笑み返す。
「大丈夫よ」
「うむ。我らがいるのだからな」
ソフィの肩でふんすと鼻を鳴らす小さな熊さんにも「そうね」とソフィは笑った。
二人が自分を気遣うことにくすぐったい気持ちになるソフィだけれど、こういう空気を知らないわけではない。モンスターの大量発生だとか自然災害だとか、良くない事件が起きれば民は動揺する。
そして、動揺が王への批判になることは、ままあることだ。
王が国を取り仕切り、王の姿が国の未来なのだから致し方ないことである。
ソフィが、ソフィーリアとして王太子の婚約者であったとき、その動揺に対面するのは王の仕事であったが、ソフィーリアも無関係だったわけではない。
いつも、王の後ろから広場に集まる人々の視線を受けていた。
ときに鋭い刃のようであったそれは、ソフィーリアにとってその場に立つ責任の象徴であった。
だもんで、ソフィは案外ケロッとしていた。
小さな不満がいつ膨れ上がるか知れぬムードは、呑気にしていて良いものではないがソフィが慌てたとてどうにもならん。国のために存在する歯車であれと育てられたソフィは、外側の人間は国の問題に手を出してはならんことを知っている。
自分に非難の視線が刺さらぬ分、ソフィーリアであったころよりずっと楽であった。
とはいえ、エーリッヒとエレノアが傷つけられるようなことがあれば看過できない。
民が騎士に取り押さえられるような事態になれば、エーリッヒとエレノアはきっと傷ついてしまう。たとえ、肌に傷を負わなくとも、心には深い傷を負うだろう。
それは駄目だ。そんなん、許せるわけがない。
ソフィにとってエレノアはもう大切な友人で、エーリッヒはそんなエレノアの大切な人で、ソフィの尊敬する王である。
暴力断固反対!
ソフィはいつでも防御魔法を使えるように、ふんと腹に力を入れた。
と。
静寂が訪れる。
無数の言葉が重なり合い剣呑としていた喧騒が、消えていく。
エーリッヒとエレノアが歩いているだけだ。
エレノアをエスコートしながら、エーリッヒが壇上に上がり、人々を見下ろす。
くたびれて汚れた服のままなのに、まるで聖なる衣を纏っているかのような佇まいで。
一切の濁りのない、優しい瞳で。
「集まってくれて有難う」
うっとりするような少年の声だ。だのに、その声に似つかわしくない威厳に満ちている。
声が、はっとするほどに美しい響きで空気を打ち鳴らす。
「そして、皆を不安にさせたことを詫びさせてほしい。──すまなかった」
エーリッヒが深く頭を下げると、誰もが狼狽えた。
特に慌てたのはソフィのそばにいる城の関係者たちだ。
民に頭を下げる王など、聞いたことがない。ソフィだってびっくりしちゃう。
それでも、誰もエーリッヒを止めようとはしない。隣に立つエレノアはエーリッヒを止めるどころか、一緒に頭を下げた。
「……ドラゴンとの間に、諍いが起きた。これは、我が王家の恥である」
ざわ、と不安が声になる。
聞き取れない小さな声でつぶやかれる一つ一つに耳をすませるように、エーリッヒはゆっくりと頭を上げた。
「皆、すまない。……けれど、誓おう。このようなことは、もう二度と起こさせない。私はこの国を脅かすものを許さない。誰であろうとだ」
厳格なその言葉に、人々は聞き入っていた。
「──明日とは、不確かなものだ。明日が必ず来ると断言できる者はいない。だが、私はこの身が朽ちるまで、皆の明日が確かなものであるよう努めよう。まだ幼い私を信じることは、容易いことではないだろうが」
小さく笑うエーリッヒに、人々は首を振った。幼くとも国を豊かにしたエーリッヒを、誰も彼もが熱い眼差しで見上げている。それに気づいたエーリッヒが微笑むと、ぱっと華やぐ美貌に人々は赤面する。
ころころと変わる民の表情は、エーリッヒがこの場を支配していることを如実に物語っていた。
エーリッヒは微笑みを浮かべたまま、エレノアに視線を動かす。
「安心してほしい。私には、エレノアがいる」
見事な視線誘導によって、エレノアは一気に注目の的となる。
けれどエレノアは動じることなく、力強い微笑みでそれを受け止めた。
「エレノアがドラゴンと私の架け橋となってくれた。私は、我が国はなんと果報者だろうか。ドラゴンも恐れない勇敢な姫を国母に迎えるのだから」
わ、と一挙に空気が高揚していく。今にも破裂しそうなほど膨らむ民の期待を、エレノアは裏切らない。
「黒鬼アレンが一生涯、陛下と共に我が国を護ることを誓おう! 私の幸福は皆と共に在る!!」
そうして、期待が、爆発する。
「わあああ!!!!」
「エーリッヒ国王陛下万歳!!」
「エレノア王妃殿下万歳!!」
歓呼、拍手、雄叫び、地面が割れるんじゃないかしらって盛り上がりっぷりに、二人は楽しそうに破顔した。
「さて、心労をかけた詫びに、ドラゴンをも恐れぬ我が婚約者に、そして、ドラゴンが立ち寄った国であることを祝い、祭を開催する! 今より三日三晩、私がもてなそう!」
再び割れんばかりの歓声が響き渡る中、上質なローブを纏った魔道士たちが前に出る。詠唱を紡ぎ、杖を振ると、大きな魔法陣がいくつも現れた。
キラキラと光る魔法陣は、魔道士たちの声と同時にひときわ強く輝いた。
すると、色とりどりの花が空から舞い降り、広場から街の端まで広がっていくように、ランタンがいくつも宙に浮かぶ。
それから、広場には大きな噴水が現れた。ただし流れているのは水ではなく、芳醇な香りのワインだ。それだけじゃない。周囲には長いテーブルがずらりと並び、そのテーブルの上にも、大きな鳥の丸焼きやソフィの知らない料理、それにフルーツだケーキだとごちそうがびっしりと乗っている。
今この瞬間、ドラゴンの強襲を受けた街は、ドラゴンが立ち寄った奇跡の街になったのだ。
不幸など、何処を探しても見当たらない。
王への信頼と次期王妃への期待、二人を祝福する声で染まった広場で、エーリッヒが高らかに言う。
「皆、思う存分、食べて、飲んで、踊り、歌い、笑い声を聞かせておくれ!!」
寄り添う二人は、広場にいる誰よりも楽しそうだった。
いつもならもう1本…と頑張るところなのですが、昨日も寝込んでいたので1本が精一杯でした…
忙しいと週末に体調崩しがちなので悔しいです。週末の為に働いているのに!
下書きは終わっているので、近日中に公開予定です!多分!
ところで、今月のコミカライズ版はじかねは、皆さま見ていただけましたか?
今月もリヴィオの顔面が最強なのは勿論、ルネッタの可愛さが爆発していましたね~!
クロワッサンをサクサクかじる姿も可愛いし、杖を出す最後のシーンも可愛すぎて!先生のアレンジが素敵すぎて拝むしかない。
淑女なソフィーリアも大変良きでした…リヴィオじゃなくてもイチコロですね。
そして毎月格好良いヴァイス…語り始めたルネッタを見る横顔が好きです。
プレミアム版でもルネッタが大活躍…!
来月もまた待ち遠しいです。
まだ読んでない!と言う方は↓からぜひ!!





