70.立ち入り不可につきお引き取りください
ぎゅんぎゅんと風の音がする。
尋常ではないスピードで流れていく景色に、ソフィは目を細めた。むう。
さて。
ルールーに放り出されたソフィは────それはそれは怒っていた。怒りを持て余して立ち往生することはもうないけれど、それはそれ。不快なことに代わりはない。ムカっつくったら! もう!
偉大なるドラゴン様にお空から放り出されちまったこと、はいい。いや、全然ちっともちょっともよくないんだけど、落下の恐怖は二度と味わいたくないし思い出すだけで心臓がひゅんって消えちゃいそうだし高所恐怖症は悪化してんじゃないかしらって気持ちのソフィだけれど、まあそれはいい。そういうことじゃない。
ソフィの恐怖より、ルールーがエレノアの想いを踏みにじろうとしていることの方が大問題だ。
話が通じるのに通じない悲しみを、怒りを、ソフィはよーく知っている。えぇそりゃあもう、ようく、ね。おまけにあんた、他人様がエレノアの大切にしている国をぶち壊そうってんだから。エレノアの悲痛な声を聞いたソフィは、怒りを通り越して呆れをぐるんと周って戻ってきて怒り心頭である。引いた血の気も沸騰して脳みそくんまで駆け上がるってもんだ。
親だから恩人だから、で何しても許されると思わないでほしい。
「アズウェロ!」
「うむ」
心臓が燃えるような勢いのまま名前を呼ぶと、アズウェロは心得たとばかりに四脚を地面についた。
ソフィは、握ったエレノアの手を引く。
「エレノア!」
エレノアは、泣かない。
声を震わせ、諦めきれない想いを瞳に宿し、ただ歯を食いしばるのだ。
その姿の、なんと気高く美しいことだろう。
きっと、エレノアだけがその眩さを知らない。だから平気で「まだ婚約者」だなんて言えるのだ。冗談じゃない。このまま終わらせてなるものか。
ソフィは怒りを必死で抑えつけ、エレノアの手をぎゅうと握った。
エレノアの想いも、国を護るエーリッヒの想いも、そして国に生きる人々も、ぜんぶぜんぶ、この手にあるべきものなのに。この期に及んでエレノアは、何を堪え、何を我慢し、何に耐えるというのだろう。
ソフィはエレノアの心にどうか届けと声を上げた。
「行くわよ!」
ドラゴンの怒りなんぞ、ソフィの知ったことではない。
アズウェロが張った防御魔法の膜の向こう側で、風が大きな音を立て、何があるのか認識できないほど景色が歪んでいる。一体どれほどの速さで走ればこんな音と視界になるんだろうなぁなんてことは、考えるだけで恐ろしいので気づいていないことにして、ソフィはアズウェロの身体にしがみついた。人からどう見えてんのかな、なんてのも考えちゃいけないぜ。
「城の場所がわかるのか?」
ソフィの後ろから響くエレノアの声に、アズウェロは「いいや」となんでもないように言った。
「だが、ドラゴンがあれだけ集まって感情を乱しているのだ。魔力を追うのは容易い」
「……容易い?」
どこが? とソフィは眉を寄せた。ソフィには魔力の欠片すらつかめないのに。
「人ならばな。人の理は、我らとは相容れぬ。だからこその事態だろう?」
フン、とアズウェロは興味がなさそうに鼻を鳴らした。
興味が湧かないのはさて、ルールーの怒りについてか、怒りを向けられた国の安否なのか。後者だとすれば白く愛らしいこの神様が怖くなるので違っていてほしいなあと思うソフィは、なるほどたしかに人でしかありえない。
そもそも、アズウェロがソフィを「主」と呼ぶのだって、彼の暇つぶしにすぎないのだ。本来であれば、アズウェロは人の揉め事なんぞに首を突っ込むことはないだろう。
側にいても遠い場所にいる彼らは心ひとつで境界を超えるけれど、決してその境界線を消すことはない。
深く、長く。どこまで落ちてもどこまで行っても、何処にも辿り着けない。相互理解は成り立たないと互いが理解することこそが、相互理解。そんな隣人の暴力を、だから否定するのは間違っている。
って、んなわきゃないぜ馬鹿野郎。黙って受け入れられるかって、そりゃあ話が別だ。ぜんっぜん別のお話だ。
理だ種族だと御大層な言葉を並べられたって、ソフィは納得してなんかやるもんか。
ふんすふんすとソフィが決意を新たにしていると、急に風切音が緩やかになった。途端に明瞭になる景色に、アズウェロがスピードを落としたことに気づいたソフィは顔を上げた。
とんでもないスピードで駆け抜けたアズウェロのお陰で、どうやらソフィたちはすでに城内にいたらしい。それは有り難いんだけれど。驚いた顔をした兵士たちが見つめるのは、ソフィたちではなく、上空。
薄暗い空は、まるで太陽が覆われているようだ。いつの間にやら夜かしらん、なあんて。
「! なっ、ルールーあいつ……!」
太陽の光を遮るのは、お空に浮かぶドラゴンの群れだった。
それだけでも城は、否、街中は大混乱だろうに、なんてことだろう! 強大な影の主たちは、いくつもの魔法陣を浮かべたのだ。どんな魔法かソフィにはわからないが、背後のエレノアが狼狽えているのだから良い魔法ではないことはたしかだ。まさか可愛いお花を降らせる魔法、なんてわけがないもんね。
「アズウェロ!」
エレノアの声を聞いた瞬間に、ソフィは叫んでいた。その声に応えるように、アズウェロが再びスピードを上げる。そのまま、アズウェロは城壁を駆け上がった。ここで遠ざかる地面を見ようもんなら、ソフィの意識は終わっちまう。愛しの地面は視界に入れぬよう、ソフィはぐうと目を閉じた。
──大きな防御魔法がいるわ……!
相手はドラゴンだ。並の防御魔法じゃ太刀打ちできない。防御「壁」だなんて、甘っちょろい魔法じゃだめだ。ソフィが護りたいと思う、エレノアの護りたいものを護るには、ソフィだけの力では到底足りない。
だから、とソフィは鞄に入れた手をぎゅ、と握った。
手に馴染む杖の感触が「やってみましょう」と語りかけているような気がして、ソフィは口の端が上がるまま、杖を思い切り引き抜いた。次いで、ソフィの胸の奥が痛いほどに熱くなる。アズウェロの魔力が波のように流れ込んできているのだ。
アズウェロは人ではない。
でも、言葉を介さずともソフィの気持ちを察して、力を貸してくれる。
互いの理を理解できなくとも、寄り添いあうことはできるのだと、他ならぬ神が云う。
ならばソフィは、信じるだけだ。
アズウェロを── 己の、歩いてきた道を、
『愛憐たる守護者よ』
自分を。
『其の掌で抱け』
ソフィの身体を支えるエレノアの暖かい手を感じながら、ソフィは詠唱を紡ぐ。
『四方に』
うまくいくかしら? なんて不安を、記憶の中の静かな声で塗りつぶして。
『八方に』
失敗した時のことなんて、考えない。不測の事態なんて、考えない。先回りして余力を残すなんて賢さを、巨大な魔法陣の記憶で追いやって。
『空漠に洋々に』
ソフィは紡ぐ。
生まれて初めての恋を抱えて逃げ出した世界で、生まれて始めて目にした強大な防御魔法を。
『其の慈悲は堅牢』
杖を握るソフィの手は震えている。杖は飛んでいきそうだし、汗で全身びしゃびしゃだ。
ああ、身体から魔力が引きずり出されていく。で? だからどうした。負けてたまるか。ソフィの大好きな騎士ならそうやって笑うだろう。
『抱け、抱け、守護者よ』
リヴィオなら諦めない。
『その掌で抱け』
走り抜ける背中。空を切る剣。揺るがない瞳。
リヴィオのようにありたいと、ソフィは深く息を吸い、術式を結んだ。
『不可侵なる愛憐!!!』
更新お待たせしました!
ということで、コミカライズ第7話のルネッタの詠唱を、あず真矢先生にお借りした特別な一話でした!
詠唱がまありにかっこよすぎてお借りしたいとお願いしたのですが、ご許可いただき内容を修正していると、ソフィの心情と詠唱に重なる部分があるなあと感じて、思い切って全部書き直しました。
よりソフィの旅を深く振り返ることができてとても嬉しいです。
改めて、あず真矢先生と関係者の皆様に御礼を申し上げます。
有難うございました!





