66.エレノア・ディブレ(5)
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ああとエレノアは、必死で堪えているエレノアの気持ちなんざおかまいなしに流れていく涙に嘆息した。
「私は、私の望みすらわからない」
何がしたい。どうしたい。どうすれば、エレノアは満足するのだ。あれも嫌だこれも嫌だと、わめくだけなら誰にだってできる。七歳の少年がこんなにも理路整然と話すのに、エレノアときたら十三年も生きてきたのにこの有様だ。情けないったらない。恥ずかしくって表を歩けやしないよ。そうだいっそ引きこもってやろうか。王城の一室を借りるのは申し訳ないから、どっかの厩にでも引きこもろう。日がな一日、馬と戯れて馬と眠るのだ。
なんてできるか馬鹿野郎。んなこと、できるわけないってわかってる。わかっているから、立ち往生している。ああ、ああくそったれ。
「どうやって、生きればいいのか、わからないんだ……!」
口うるさい白いドラゴンや、エレノアの師はどこで学んだのか人の世に詳しかった。歩き方、食事の仕方、話し方、どれをとっても彼らは品が良かった。
おかげさまで、エレノアは城で生活するようになっても、さほど苦労することはなかった。何より、国王一家はエレノアを「なんだそれは」と嘲るような人たちではなかったので、エレノアはいとも容易く人の輪に溶け込んだ。
最初っから、そこで息をしていたかのように。
でも、でも違う。そうじゃない。エレノアはずっとずっと、ドラゴンと生きていた。彼らが、彼が大好きだった。歩き方も食事の仕方も話し方も戦い方も、エレノアを形付ける全部はドラゴンから授かった。
だけどもエレノアはドラゴンじゃない。
人だ。
二本足で立ってちっぽけな力で大地を踏みしめる、人間だ。
そして、女であった。
ドラゴンから授けられた立ち居振る舞いは、ドレスには、合わない。
「け、剣を持つことすら、私は、できないっ」
人間の女は棒切れを振り回さない。
そんな野蛮で自由な方法では闘わないのだ。
優雅にドレスを裁き、ティーカップで毒を隠して、微笑みながら見えない剣で相手を斬りつける。その裏で刺繍をしながら、戦場に出る男たちの帰りを笑顔で待ってみせる。それが女の闘いだと言う王妃と第一王子妃の姿を、エレノアは美しいと思う。凛とした背中はドラゴンにだって負けやしない逞しさがあるのだ。不自由で格好良いその背を、エレノアは心底美しいと思っている。
だのに、師の教えを身体が忘れるのが寂しくてたまらない。
懇切丁寧に指導してくれる家庭教師に、上書きしてくれるなと、泣き言を言いたくなる。
「このままじゃ、師匠のことも、忘れてしまう……!」
これじゃあ本当の本当に、師を失っちまう。
そんなの、
「嫌だって言ってみたら」
「え」
少年は、泣いているエレノアに気を遣っているのか、こちらを見ないまま続けた。
「よくわからないけれど、君はお師匠様を忘れたくなくて、お師匠様に教わった剣を捨てたくない。だけど、それが許されないと思っているんだね?」
「……許されないよ。私は、女だもの」
「うーん」
なるほど、と少年は頷く。
剣を振る女などいないことを知っている少年は「でも」と空を見上げた。
「君は君の側にいる人たちのことも嫌いじゃないんでしょう? そんな良い人たちが、君の言葉を簡単に否定するのかなあ。駄目で元々なんだし、言うだけ言ってみてもいいじゃないの? だって、言わないと君、ずっとつらいままだよ」
ぐ、とエレノアは唇を噛んだ。
少年の言うとおりで反論できやしない。なんて敏い子なんだろう。ちょっと悔しいエレノアは「だって」と子どものように鼻をすすった。
「迷惑をかけてしまう」
「生きてるだけで人は他人に迷惑をかける生き物だよ」
なんて言い草だ。身も蓋もない。七つの子どもが言うセリフかこれ? エレノアがあんぐりと口を開くと、少年は「いいじゃないか」と顔をこちらに向けた。
「君が迷惑をかけた分、きっと周りも君に迷惑をかけるさ」
「……私が助けてもらう分、私も周りを助ければ良いってことか……?」
「なるほど、そういう言い方もできるか」
君は性格が良いんだねえ、と少年は笑った。
「君も優しい」
「はは、それよく言われる。……そんなこと無いと思うんだけどなあ」
七つって何年だっけ。えらく達観した物言いにエレノアが首を傾げると、少年はハンカチをこちらに差し出した。
皺一つ無い、見た目だけで高級品だとわかるハンカチに、エレノアはそろそろと手を伸ばす。フードでよく見えていないだろうけれど、自分の顔が涙でぐっしゃぐしゃであることはエレノアだってわかっていたので。
「もし」
大人しくハンカチを受け取ったエレノアが「すまない」と頭を下げると、少年は笑った。
「もし、本当に誰も受け入れてくれなかったなら、行く場所がなかったなら、俺のところに来ればいいよ」
「え」
ぐすん。鼻をすするエレノアに、少年は楽しそうに、まばゆいほどの笑顔を浮かべた。
「俺のところにおいで。俺が、君に迷惑をかけてあげる」
ふふ、と歌うように笑った少年は「さて」と腰を上げた。
風がふわふわと金糸を揺らし、太陽の光に溶けるような素肌が輝く。狼のような薄い色の瞳を細めて、少年は笑った。
「もう行かなきゃ。そのハンカチは目印だから、捨てちゃだめだよ」
じゃあね、と笑って背を向ける少年に、エレノアは一言も返せなかった。
なんも言えずに、ぽかーんと小さな背中が見えなくなるまで見送ってしまって、それでもしばらくそこにいた。
夢か?
これは、夢だろうか。
エレノアは頬をつねる。あれ? 痛くない。痛くないぞ。なんだか、心がふわふわして、そわそわして、身体が飛んでいっちまいそう。あれれれ? エレノアはそもそも、なんでこんなに落ち込んでいたんだっけ。何を泣きわめいていたんだっけ。
そうだ、寂しかった。
師がこの世に居ないことを毎日思い知るような日々が、辛くて悲しくて寂しかったんだ。せめて剣を手にできれば、その教えを毎日思い出せれば、お師匠様がずっと側にいてくれるように思えるんじゃないかなって。
あれれ? あんなに自分の心が見えなかったのに、今じゃすっきり言葉にできる。なんだこれ?
自分の心と向き合えた。言葉に出るまで導かれた。
たったそれだけで、エレノアの視界は輝かしいほどに開けている。空が広い。
「あれ?」
エレノアは思わず声に出した。
だって、すっきりした、にしちゃあ、身体が落ち着かないんだもの。叫びだしたくなるこの感情はいったいぜんたい、なんだろう。今ならなんでもできる。どこまででも走っていける。
エレノアは、ぎゅうとハンカチを強く握った。
「なんだこれ!」
顔がやけに熱い。
おかしな魔法にかかったみたいなのに、びっくりするくらいに心地が良い。
「わああああ」
もうなんだかちっともわけがわからんエレノアは、衝動のまま走り出した。
大パニックなエレノアの足は城に入っても止まらず、姿の見えない自分を探しに行こうとしていたらしい国王の前まで走り抜け、そのまま「私は剣術がしたいです!!!」と叫ぶに至った。
さて、これはなんの話だったかって?
人生で誰もが経験があるだろうあれだよ諸君。黒歴史ってやつだ。





