65.エレノア・ディブレ(4)
PC復活!!!!
止めてしまった4話、一気に更新いたします。
読み飛ばしにご注意ください。
エレノアを育てたドラゴンは、物静かで厳しいひとであった。
この岩を割るまで飯は食わさぬと一度口にすると、エレノアが泣こうが喚こうが、決して許してはくれない。ひどい、おししょうさまはおにだ、と恨み言を言うエレノアを、彼は叱りも笑いもしない。弱い生き物にはなんの興味もない、とばかりのあんまりな姿に、エレノアの目からはぼろぼろと涙が落ちていく。
幼いエレノアは泣き虫だった。
すっころびゃ泣くし、朝起きて師がいなけりゃ泣くし、仲間のドラゴンと喧嘩をしても泣いた。ドラゴンと喧嘩なんて負けるに決まってんだが、ドラゴンに育てられたエレノアは丈夫だったので、己がちっぽけな人間であることを忘れて取っ組み合いの喧嘩もしょちゅうだった。
阿呆なのだな。
それが子どもだ、言やあそれまでだが、喧嘩相手のドラゴンたちもエレノアが人間であることをしばしば忘れる阿呆共だったので、「俺のほうが早かった!」「私の方が早かった!」「やるか!」「やらいでか!」てな具合に、ただのかけっこが人とドラゴンの異種格闘戦になることは日常だった。
それで、エレノアは負けりゃ泣くし、勝っても怪我が痛いと泣いた。阿呆なのだ。べえべえ泣いて気が晴れるとまたその辺を走り回るのだから。ね、阿呆だろう?
エレノアを拾い育てているドラゴンは、そんなエレノアをいつも遠くから眺めていた。
エレノアと目が合っても、にこりともしやしない。その代わり、泣くなとも言わない。
それはエレノアに修行をつける時も同じで、エレノアが駄々をこねるのが馬鹿らしくなるほど、静かで厳しいドラゴンだった。だめだこりゃ、とエレノアは悟るしかなかった。根負けしたのである。そも、己の何百倍生きているのかわからぬ相手に我慢比べを仕掛ける方が間違ってんだ。
エレノアはこうして賢くなり、ぐじゅぐじゅと鼻をすすりながら魔力の使い方を覚えていった。
身体が大きくなるにつれ、エレノアが泣く回数は減っていった。喧嘩友達のドラゴンたちに、三回に一回の割合で勝てるようになったのも理由の一つかもしれない。
十歳になったあたりから、エレノアは周りのドラゴンたちに「あいつに似てきたな」と言われることが増えた。
なんせ、エレノアが住むドラゴンの巣には、陽気でやかましいドラゴンが多い。
人間の子どもと対等に喧嘩をする阿呆揃いの中で、物静かなドラゴンとその側で本を読むエレノアはドラゴンたちの目にはよく似た生き物に見えていたのだ。おかしな話だ。エレノアには、鱗も爪も牙もないのにね。
それが、いまさらに、ひどく、寂しい。
エレノアが泣き虫だったことも、喧嘩っ早い阿呆だったことも、だあれも知らん。
手先が器用で賢くおとなしい子どもとして高価なドレスを着せられていることが、エレノアはさみしくてたまらない。
だけど。
「それを言っては、いけないんだ」
なぜ、と少年は優しい声で言った。
「だって、私は幸せな子どもだ」
死ぬところだった身体に、人の身に不相応な魔力を注がれ生きながらえた。
賑やかな愛情と共に、泣いて怒って笑って生きた。
街で笑う同じ年の子供には生涯手の届かぬだろう衣に包まれている。
「会いたい、だなんて」
決して多くを語らないドラゴンだった。
エレノアの頭のずうっとずうっと上から、静かに喋るドラゴンだった。
他のドラゴンのように笑ったり怒ったり暴れたりしないし、彼の友人のように口やかましいわけでもない。
けれど人の姿になれば、大きな手のひらを押し付けるみたいに、頭を撫でてくれた。
そんな彼が望んだから、エレノアは人の世に足をおろしたのだ。
「お師匠様の願いを、無碍にするようなことを、言っちゃいけないんだ」
泣くもんか、とエレノアが目をこすると、少年は「そっか」と足を伸ばした。
「……俺はまだ七年ぽっちしか生きていない子どもだから、難しいことはわからないし、偉そうなことは言えないけれどね」
七年。にしちゃあ、随分と大人びた話し方をするな、とエレノアは瞬いた。
ぐるぐると淀んでいた心の中が、ぴたりと静まり返る。え、七年? 七歳ってこと??
ドラゴンは人と生きる時間が違うし、自由に姿を変えられる。人の姿を真似た時、エレノアと同じくらいの背丈で百年を生きている年の者もいれば、エレノアより幼い姿のくせに数百年を生きている者もいたので、エレノアにとって見た目は特別な意味を持たない。
けれども、七つという年齢が幼いのだということはわかる。
ははあ。エレノアは随分と周りから「賢い」ともてはやされたものだけれど、世の中にはこんなにも賢い子どもがいるとは。褒められてヘラヘラしていた己が恥ずかしくなるってもんだ。世に聞く天才ってやつだなこれは。エレノアは妙に感心して少年をしげしげと眺めた。
「俺の寂しいは、俺だけのものだと思っているよ」
少年は、やけに遠い瞳で呟いた。
「俺は自分が恵まれた場所に生まれたことを知っているけれど、だからって俺の寂しいを人に否定される謂れはないね」
なんでもないように言った少年は、ちらとこちらを見る。
「君も同じだろう。君が寂しいと感じることと、君を取り巻く他者は別のものだよ。そこに罪悪感を持つ必要はないんじゃない?」
放っておきなよ、と優しく笑う少年があんまりに、その、冷たいことをいうので、エレノアは思わず笑ってしまった。
「随分な言い方だ」
「自分と他人を上手に切り離さないと、人の心は持たないんだよ。……簡単に、潰れちゃうんだ」
まるで潰れてしまった様子を見たことがあるように、少年は薄く笑った。
「だから、寂しいと思うことも、欲しい物があることも、言えるなら言ったほうがいいよ」
「……言えないよ」
そうかな、と少年は足を揺らす。ぷらぷらと高価な靴が揺れる姿は大人の後ろで退屈そうにしている姿そのものなのに、考えにふける横顔は理知的であった。
「ものによると思うけれど……なあに? 君は国でもほしいの?」
「まさか!」
「それじゃあ、金塊?」
「いらないよ!」
ふうん、と少年は楽しそうに笑う。
「なら、何がほしいの?」
言ってごらんよ、と大人が諭すように柔らかく言う少年の声に、エレノアの喉はぐうと詰まった。
望み?
エレノアの、本当の望みとはなんだろう?
ドラゴンの巣に帰りたい? 師匠に会いたい?
叶わぬことだ。
それはもう、仕方がないと割り切っている。人の世で生きていくと、師の思いを無駄にしないと、決めたのはエレノア自身だ。
なのに、何にこだわっているんだろう。
寂しいなどと、幼子のようにいじけて鏡の向こうの自分を笑っているのは、なぜだろう。
「……わからないんだ」
ぼろ、と引っ込んだはずの涙が流れていった。





