62.エレノア・ディブレ(1)
本日2回目の更新です。読み飛ばしにご注意ください。
内緒の話。
誰にも言っていないが、エレノアは自分の母親を覚えている。
普通は赤子の頃の記憶は無いらしいので、これ以上変わり者扱いされるのはごめんだなあと誰にも言っちゃおらんが。エレノアは、赤ん坊の自分を捨てた母親を覚えている。
母は、疲れた顔をした女だった。
茶色の長い髪はほつれ、そばかすの浮いた頬はこけている。
緑の瞳は凪いでおり、子を捨てる葛藤なんぞどこにも見えない。
成長するにつれて、記憶の底にある母親の静かな姿を思い描き、エレノアは生活苦にあった母が自分を捨てたのだろうと理解した。
世界は非情だ。
そりゃあそう。世界はただ在るだけで、世界に己が在るだけで、意志も感情も事情もぜーんぶ生き物の都合なんだもの。
人が何かの事情で子を孕み、何かの事情で育てることが叶わず捨てていく。
悲しいけれどあっちこっちで起きていることで、エレノアに母を恨む理由はなかった。
なあんて思えるのは、自分がこれ以上ないくらいに恵まれているとエレノアが知っているからだと。幼いエレノアは、それさえ理解していた。
「…………似合わないなあ……」
たとえ、鏡に映る自分が滑稽に思えても、だ。
エレノアは、はあ、と深い溜め息をついた。
深い森に捨てられ死にかけていたエレノアを拾ったのは、黒い鱗と不思議な色をした目のドラゴンで、そのドラゴンの魔力を分け与えられたことでエレノアは生き延び、そりゃあもうすくすくと成長した。
死にかけていたときは茶色だったらしい髪は真っ黒で、同じく緑だったらしい瞳は見る角度で色が変わる色をしている。エレノアが生きる国では、珍しい色合いだ。
ドラゴンの魔力の影響を受けた色彩を、エレノアは不満に思ったことはない。
というか、ドラゴンの巣や森を駆け回っていたときは気にする理由もないし、敬愛する師匠と揃いだと思えばむしろ誇らしかった。だって綺麗なんだもん。
ところがおまえ、森で出会った男と一緒に暮らすようになってから、髪も目もにょきにょきと伸びた手足も、その全てがドレスがちっとも似合わん珍妙なものになっちまった。ため息もつきたくなる。
ドレスだぞ、ドレス。
ドラゴンたちが、どっかから拾ってきた動きやすい服ではなくて、布やレースがふんだんに使われたドレスなのだ。
似合うわけがない。
「素材が、なあ……」
ドレスってな、蝶よ花よと育てられた美しいお嬢さん方のためにあるのだなあとエレノアはつくづく思った。エレノアときたら、人の身には耐えられんだろうなって訓練をドラゴンから受けて育てられ、太陽よ大樹よって具合に逞しく育てられたのだ。
日に焼けた肌も筋肉が乗った手足も、お嬢様はもとよりお姫様だなんて呼べるもんじゃない。
ドレスが美しいのは、ドレスの素材じゃあない。ドレスを着る人間の素材なのだ。と、エレノアは項垂れた。
「……我儘だな」
ふ、とエレノアは鏡の向こうの不細工な女を笑う。
消えるところであった命を人の輪の中に戻してもらった身なのだ。
それも、王の娘として生きるなどと、願っても叶わぬ待遇だぞ。
帰りたい、などと。
彼なりの精一杯で人として育ててくれた師匠に、顔向けできないことは思ってはいけない。エレノアは、鏡に背を向けた。
まあ、合わせる顔はもう、この世のどこにもないんだけれど。
「まあ、エレノア! 貴女、とっても器用ねえ!」
驚いた、と王妃はエレノアの刺繍を見て相好を崩した。シミ一つ無い白磁の肌がきらきらと色めく様は、果てなく美しい。
「あなた、見て! エレノア様ったら始めたばかりと思えないほど刺繍が上手でいらっしゃるわ!」
楽しそうに声を上げたのは、第一王子の妻である。金色の髪と青い瞳が絵に描いたように美しいご令嬢は、エレノアの刺繍を両手に掲げた。
「本当だ。君がエレノアくらいの頃よりずっと上手いんじゃないか?」
横から刺繍を覗いた第一王子は、妻の肩を抱くと、母親とそっくりの美しい顔をニヤリと意地悪く歪めたが。
「そうなの! きっとエレノア様は天才ね!!」
「ぐ、今日も妻がかわいい……」
王子の意地悪は、今日も今日とて妻には通じない。すぱーんと愛らしい笑顔で返されて王子は呻いた。幼い頃からこの二人はこんな感じらしい。飽きないんだろうか。飽きないんだろうなあ。
エレノアが笑うと、フン、と横から鼻で笑われた。
「簡単なモチーフで大げさですよ。王家の人間が持つハンカチなら、紋章くらい刺繍してもらわないと」
そう言って顎を上げたのは、エレノアの2つ年下だという第二王子だ。
この王子様は、エレノアより年下で小さいくせに、エレノアに噛みつくのをやめやしない。無論、甘噛にすらなっていないので、きゃんきゃんと吠えられてもエレノアは痛くも痒くもない。今だって、遠巻きにチラチラと刺繍を覗いているので「かわいいなあ」とエレノアは思っちまう。一度言ったら顔を真っ赤にしてギャンギャン吠えられてちょっとうるさかったので、言わないけれど。
「おや、ではそのハンカチは私がもらおうかな」
「え」
ぬ、と背後から現れた国王に、王子はぎしりと固まった。
熊のような巨体に背後をとられて驚いたのだろう。王子が勢いよく振り返ると、国王はにやりと笑った。
「なんだ、欲しいのか?」
「ほ、欲しいなんて言ってません! 父上が持つには格が足りないのではと、私がもらってやってもいいと思っただけですが!」
己が刺繍をしたハンカチは王子が持つのにも相応しいとは思えなかったエレノアだが、これで王子は優しい子どもなので自分に気を遣ってくれているのだろうなあと思ったんだけども。息子に紳士であれと教える王妃はこれをよしとはしなかった。
「あらあらまあまあ、失礼なことを言うお口は縫い付けてあげましょうかねぇ」
おほほ、と糸の付いた針をきらーんと光らせる王妃に、王子は涙目だ。
「ごめんなさい!」
「正直に言ってごらんなさい」
「ぬ、ぬぬぬぬ」
「頑固なところは、おまえそっくりだな」
「意地の悪いところは貴方そっくりだわ」
途端、弾けたように笑い声が飛び交っていく、
どこまでも平和で、どこまでもあったかい空気。
己を育ててくれたドラゴンが持ってきた絵本のように、穏やかで綺麗な空間。
よそ者で異端でしかないエレノアを、まるで最初からそこにあったかのように受け入れている優しい優しい人々。
なのに、居場所がない。
くそったれだな、とエレノアは笑う。
それが世間知らずのエレノアの幼少期。城で生活を始めた、最初の記憶であった。





