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傷の行方

 腕を見る。そこには猫に引っ掻かれたような縦の傷が数本ついていた。

 俺は、今起きたベッドに座ったまま、この傷を不思議な思いでただ見守った。

 いつもそうなのだ。

 物心ついた時には、気が付くとそんな傷がいつも身体のどこかに出来ていた。すぐに治って消えていくし痛いわけではない。疼くはあれど、そのほとんどがいつ付いたのかさえ分からない。

 窓から射す陽射しがもう傾きかけている。

 俺は、嘆息すると仕事に行く準備を始めた。今日は、打ち合わせという名前の飲み会だ。

 大体、前の仕事が終わってまだ1週間も経たない。次の仕事までは、おそらく1・2ヶ月は空くだろう。

 人とは違うタイムラインで進む仕事だ。

 大学を出てから色々あった。ここまで来るのにとても時間を要した気がする。やっと映画の監督を任されるようになって数年。仕事柄、下積み生活の日々が長かった。時には生活の為に意に沿わない仕事もした。

 そんな思い出も今では懐かしい。

 こんな事があった。まだ助監督にも昇格出来ていなかった監督助手の頃の事だ。

 脚本に納得がいかないと端役の男優が途中降板した。それも現場の浜辺まで来てからである。

 すぐに代役が決まる訳でもなく、俺が海水浴客に扮する事になった。

 用意された水着に着替えてスタッフの前に行くとみんなが顔をしかめる。そう、身体中が例の傷で埋まっていたからだ。

 当然、俺は降ろされ別の先輩監督助手がその役をやる事になった。

 この謎の傷は迷惑にこそなるが、決して俺の人生の手助けになるものではなかった。

 その時は、せっかくの銀幕デビューを邪魔されたという思いで夏の日差しに光り輝く海のうねりを恨めしく見ているしかなかった。

 コートを羽織り部屋の外に出ると、2月の寒風が肌を刺す。早めに行って先にやっておいた方が良いかもしれない。

 酒には強い方ではないが、そのお蔭で呑めばすぐに身体が温まる。

 俺は、首をすくめながら足早にエレベーターホールに向かった。


 映画会社の担当の八島は、何故か最近売り出した新人女優の長井を連れて来た。来る途中で偶然会ったからと言っていたが怪しいものだ。枕の帰りではないのかと邪推してしまった。

 八島は、調子の良い男で飲み友達としては良いが、仕事を任せるとイマイチ信頼感を感じられない。

 だがたしかに一緒に飲むと面白い。

 そんな奴が長井を見ながら小声で俺に囁いた。

「監督ぅ~ 監督ってさ、以前に変な傷がついてる事があるって言ってたじゃないですか。実は彼女、霊感あるんですよ。それでね、今日連れて来たんです」

 やっぱり偶然会ったんじゃねぇじゃねぇか。

 心の中で俺はぼやきつつも、そんな奴の調子の良さもまた、心地よい酒の肴だった。

 みんなが結構呑み酔いが回ってきた頃に、余興のつもりで長井に傷を見せた。

 長井は、一瞬困ったような顔をしたが、ポツリと語り始めた。

「ここに来る前から何かあると思ってました。そして監督を見た時、その不安の正体はこれかと分かったんですが、言えなくて……」

「ほぅ、その正体って?」

 長井は、かなり言いにくそうだったが、再び口を開いた時には信じられない事を言ってきた。

「監督には、猫が憑いてます」


 部屋に帰ると電気をつけてソファに座りこんだ。少し呑み過ぎたようだ。

 今まで仕事に必死すぎて婚期を逃した俺は一人住まい。

くつろいでテレビを見ていると、今日の何も打ち合わせていない打ち合わせを思い出して笑いが込み上げてきた。

 何を言うかと思えば猫が憑いているって?

 長井も変な子枠で売れば良いと思う。

 その時、変で思い出した。

 同郷で大学時代の友人の事を。

 彼は、変人の中の変人で自称怪談作家とふれ込みながらYouTubeでそれを披露している。

 彼は、十数年前から寝たきりになってしまったが、稚拙で面白くもない自作の怪談を録音してはただ垂れ流す。当然彼のチャンネルの登録者は数人だと言うのに、気にも留めずマイペースである。

 ただ彼のオカルトの知識は豊富で人脈も変に多い。なんでこんな人と知り合いなんだという者にまで人脈が広がっている。

 酔いもあったのだろう。

 何とはなしの軽い気持ちで俺は、傷の写真を数枚スマホで撮ると、全ての事情と共に彼にメールを送った。

 送った後に少し後悔した。彼は本物の変人だったからだ。

大学の寮でもいつもお経か何かを聞きながら課題をしているような奴で、しかも牧師の息子という訳の分からないところがあった。さらに、興味を持ったものにはとことんでしつこい。また何かと電話で聞いてくるかもしれない。彼の電話は長い。それに人の話を聞かない。

 まぁ、いいかと立ち上がると酔いが少し冷めてきた感じがしたので冷蔵庫にビールを取りに行った。

 いつもとは違い、その後しばらくは彼から電話は来なかった。興味が湧かなかったのだろうか?


 真言宗系のお経が流れている。落ち着く。特に真言が一通り流れた後の般若心経は格別だ。

 妻ががまんしきれなくなったのか、うるさいと言って来たのでヘッドホンに切り替えた。

 何かに集中したい時のBGMは、やはりこれに限る。

 実は、東京で映画監督をやっている冴木からメールが来ていた。

 私は、それを読んでから、フンと鼻を鳴らす。

 冴木が何を言っているのかとしばし考える。

 たしかに写真を見ると猫の引っ掻き傷に見える。

 彼の住んでいるマンションはペット禁止だと以前聞いた事があるから猫は飼っていないだろうと、うちの猫の一匹の喉の辺りを撫ぜながら、数枚の写真をじっくりと見、自分の腕についた猫爪の傷と比べる。

 そっくりだ。

 どうせどこかの猫カフェでも行ったんじゃないのかと思った所で、冴木が猫アレルギーだった事を思い出す。

 大学時代には同じ寮に住んでいたが、迷い込んで住みついた黒猫がいた。

 彼は、その黒猫が近づいただけでくしゃみが止まらなくなっていた。

 はい、猫傷説消えた。

 次は、イエダニやヒトダニを疑った。

 イエダニは、本来ネズミに寄生するが、ネズミが死滅したりすると人の血を吸う。またヒトダニは、人間の血以外は飲めないから人類が滅亡すれば道連れになる昆虫だ。

 どちらも人間の柔らかい部分を刺す。刺されるとかゆみが伴う。本来は、気温が高い時期に活動するが、最近は、住宅の気密性も上がり室温もエアコンなどで高くなるので、年中刺してくる。

 ただ布団を干したりすると数は減る。減るだけで刺されないという訳ではないが、近年の掃除機の進化によってかなりの数が淘汰される。

 私は、送られてきた写真を拡大して観察する。無い……

 無いのだ。そう、刺された跡が……

 たしかに深爪気味に爪をいつも切っていても、強く掻くと猫爪のような傷はつく。しかしダニが原因であるならば、刺された跡は必ず残る。それが写真にはないのだ。

 もちろんもう1つ疑問が残る。強く皮膚を掻くと傷だけでなく、その周辺は赤く腫れる。それさえも無い。

 では、ダニや人の爪で掻いた訳ではなさそうだ。

 その後、私は乾燥肌など色々なあり得そうな事象について調べてみた。しかし、それらと送られてきた傷跡の画像が合致しない。

 私は、しばし考え込み、夜中だというのに、家の電話の受話器を取った。携帯やスマホは嫌いだから持ってない。

 そもそも寝たきりの私は外出が少ない。外出したらしたで誰からも干渉されたくない。すぐに捕まる携帯やスマホは、私にとって自由を束縛する鎖でしかない。

 しばらくコール音がする。そして電話口に老人の声が響いた。

「こんな夜中に電話するんは、中川じゃろ?」

 正解だ。さすが長い付き合いの常務である。

 常務は、以前働いていた小さな営業会社の上司にあたる。社長からして営業に出なくてはならない小さな会社だった。

 常務とは、親子程歳が離れているが、頑固な常務と組んで営業する者は、彼についていけず会社をすぐ辞めてしまう。

 私が新人の頃、そんな常務と組まされたが、変に気が合って、まるで親子かと社内で話題になる程の仲になった。

 今は、倒産して会社はないが、未だに付き合いがある。そして私は、今も常務と呼んでいる。

 常務には、深夜に電話をした事を謝罪した後、何故連絡をしたのか説明をした。

 それは、友人の謎の傷がどうしても猫爪による物に酷似しており、常務の奥様がかの鍋島家の末裔だったからだ。

 鍋島家は、化け猫騒動で有名な家柄だ。そして常務の奥様は原爆投下の折、爆心地から100メートルも離れていない小学校で全校生徒や教員が全滅する中、友人とたった二人だけ生き残った強運の持ち主である。

 常務の奥様は、その日校庭集会に出たが、友人と二人だけ体操着に着替えていなかった為、教員から学校の地下にある更衣室で着替えてくるように言われてその地下におり難を逃れた。

 鍋島家の末裔であり、強運を持っている事を、奥様はいつも猫が守ってくれていると言っていた。

 だから何か情報が得られないかと思ったと常務に伝えた。

 しばらくして奥様が電話口に出られた。

 結果を言おう。なんの成果もなかった。奥様もそういった傷がつくという事例は知らなかった。

 私は、夜中の電話という非礼を詫びて、また奥様の美味しい煮つけを食べに行くと言って電話を切った。

 私の伝手で後こんな事を聞けるのは、寺の息子と神社の娘と生臭牧師のおっさん、つまり親父と……

 そうそう、こういう事に詳しい奴がいたな……

 明日また連絡しようと、冴木のメールを閉じた。


 案の定、ボンボンな寺の息子も酔っ払い巫女も不良親父も役には立たなかった。

 オカルト雑学の豊富な岡本とは、今日の午後この家で会う事になっている。連絡をしてあらましを説明したら、実際に画像が観たいと言う。冴木のメールが届いてから1週間経っていた。

 ヘヴィメタを目一杯音漏れさせて、家の外に車が止まった。エンジン停止と共に、迷惑千万な音楽も止まった。

 黒縁メガネで太っていて一見オタクっぽいが、髪を逆立ててパンクファッションを着こんだ岡本を家に招き入れる。彼は容姿だけでなく雰囲気もアンバランスだ。

「アンバランスこそがバランスなんよ」と彼は言う。いつもは変人扱いされる私も彼には負ける。

「ジャンクフードは嫌いだ。だから俺はいつもファストフードを食らうのだよ」と、そんな事聞いてもいないのに、岡本は大きな独り言を言いながら、私に冴木のメールを見せるように要求する。私は、ジャンクフードとファストフードの違いを後で検索しようと思いつつもパソコンを開いた。

「また経を聞いてたんか? 時代はメタルだぞ」

 岡本は、妻の用意してくれた私の昼飯である手羽元のさっぱり煮を1本つまみ食いしながらパソコンを覗きこんで来た。遠慮とは無縁な奴だが決して悪い奴じゃない。

 彼は、冴木のメールを何度も読み返すと、今度は添付されていた傷の画像をじっと見つめていた。

「どう思う?」

「猫でもダニでも乾燥肌でもないから、俺に連絡してきたんだろ? だけどどう見ても猫の引っ掻き傷にしか見えんな」

 岡本は首を傾げた。

「色々なオカルトの事例は好物だから調べて詳しい方だけど、これは見た事ないなぁ。ホントにオカルト事案なのかも分からん。物理的な何かの可能性高いけど、そこはお前は調べて違うと判断したんだよな」

 私は頷く。

 岡本は、二本目の手羽元を口に運びながら考え込み始めた。おかげでパソコンのキーボードがベタベタだ。後で掃除が大変だと私はため息をつく。

 急に岡本が口を開いた。

「そのお前の友達とかって奴は以前からずっと、こんな傷が出てくるんだろ? ただ不思議に思ってるだけで何も悪い事も起きてない。気にする事はないんじゃないか?」

「気持ち悪いって思った程度だろうとは思うぞ」

「放っておいてもいいと思う。どうしても気になるなら、東京に最強の男ってあだ名の女がいるから紹介するぞ」

 私も大概だが、こいつも変な知り合いの多さについては大概だなと思った。


 私は、インシュリン注射を横になって腹に打っていた。岡本は、スマホでその男だか女だか分からない相手と話をしていた。

 私は糖尿で寝込んでいる訳ではない。家族からは、病気のデパート・疾病の百貨店と呼ばれる程の病弱さからだ。しかし、家族に世話になる事が後ろめたくて、ベッドに横になりながら出来る仕事を考えた。出来る事は、昔師匠について学んだ小説を書く事しかなかった。

 時間は、いくらでもあった。本や資料を貪り読み、雑学を増やし、色々試している。冴木は、プロになるのは無理だと諦めるように言っているが、彼には諦めたふりだけして、実はまだあがいている。大体、ブランクもあるし才能がない事にも気は付いているのだが……

 このままで逝きたくない。その想いだけが自分を突き動かす。

 岡本の電話が終わった。どうだったと聞くと、彼は、いかにも面白そうに語りだした。

「氏家という奴なんだが、電話した途端に全部知ってたよ。いや、知ってたというより見抜いてたというか悟っていたというかだな。心配ないそうだ。その冴木とかいう男は覚えていないが、生まれたばかりの頃に家には猫がいたそうだ。その猫は、そいつをまるで自分の子どものように大切にしてたんだが、そいつの猫アレルギーを知った両親が実家に里子に出したんだと。だけどその猫は、寿命が尽きた今でも彼を心配していて、それを伝えたいだけだそうだ。問題なのはお前」

 私は、えっ? と聞き返した。

「右足が合併症で壊死を起こしかけているそうだ。だが、本当は金を貰うところだがサービスで、お前の身体に憑りついている悪霊をくくる? 祓う? なんかそんな事言ってたけど、身体は回復に向かうだろうってさ」

 そんなバカなと、私は失笑してしまった。


 撮影所で颯爽と歩く冴木監督を見かけた。

 八島さんに居酒屋で紹介されてから会ってなかった。あれから1年ちょっと。撮影所の近くの林から蝉の声がうるさい。汗を拭きたかったが、メイクさんの直し中だったので、気持ちが落ち着かなかったが、何か別のものに引かれてそちらを見たら冴木監督が歩いていた。

 相変わらず監督の上に覆いかぶさるように猫がいる。ただ前見た時とはそれは違った。

 その巨大な猫は、監督の上でゆったりとくつろぎ、満足そうだった。

 気が付いて貰えたんだねと、少しうれしくなった。

 長井さん、出番ですと声がかかった。


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