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本を読む人

 私は古書店を営んでいます。

 祖父がやっていた店だったのですが、去年、祖父が病気で他界し、大学を出てから何もしていなかった私が父の言いつけで、この店を継ぎました。

 決してニートと言う訳ではなく、家事手伝いというか花嫁修業中というか……

 ですが、父にも世間体があったのでしょう。ある意味、私のいい加減さが父に見抜かれていたと言った方がいいかもしれません。

 古書の扱いや商いのやり方は分からなかったのですが、祖父が懇意にしていた別の古書店の店主の方から、少しずつやり方を教えて貰っています。今は、しっかりと店を存続させる為にがんばっています。

自分の為にも、彼の為にも……

 とは言っても当初は開店休業のような状態で、本を読みに来る人は少しはいたのですが、買ってくれるお客様は日に数人という状態で、私もあまりやる気はなく、夕方5時には店を閉めて実家に帰るという毎日でした。

 ある日、家に帰る途中にある公園で一人の初老の男性が本を読んでいるのに気が付きました。

 あまり人付き合いが得意ではなかったのですが、その時は、何とはなしにその方が気になって、彼の座るベンチの隣りに座りました。

「暗くなるから目に悪いですよ」

 彼は、本から目を離して私に向かってにっこりと笑いました。

「お嬢さんも早く帰らないと、夜道は危険ですよ」

 とても優しい笑顔でした。

 彼は、中村さんと言い、近くの病院に入院しているとの事。読んでいるのは、ドストエフスキーの「罪と罰」。

「難しい本を読まれているんですね」と私も笑顔を返しました。

「私はね、本はほとんど読んだ事なかったんです。仕事も忙しくてね。いや、それは言い訳かなぁ」

 中村さんは、照れたように頭を掻きました。

「でも病気になって暇でねぇ。実際、本を読みだすと面白くて。続きが気になって、ついつい消灯時間になってもやめられなくて、看護師さんに叱られてばっかりです」

 私は、中村さんと笑い合いました。それでその日は、自分は古書店をやっているので、読みたい本があれば連絡をと名刺を渡して別れました。

 中村さんとの会話は楽しくて、それから毎日のように公園で読書談議が続くようになりました。もちろん私も本はあまり読まない方でしたので、店番で暇な時は、店にある本を読むようになりました。

 本を読むようになって中村さんの気持ちが少し分かる気がしました。こんなに面白い世界があっただなんて。

 毎日、本の世界で遊び、帰りに中村さんと本について話すのが、日々の日課になって、自分の目的のような物が見えてきたのだと思います。古書店をやるのも悪くないと……

 気が付けば、祖父の意志をきちんと継ごうと思うようになっていました。仕事にも精を出すようになりました。

 ある日を境に公園から中村さんの姿がなくなりました。

 病気が悪化したのだろうか?

 私は心配しながらも、仕事が結構忙しくなり、そんな毎日に没頭してしまい、その事は意識の中に埋没していきました。

 イチョウが色づき、銀杏が落ち始めた頃に公園の前を通ると、久しぶりに中村さんがベンチに座っている姿が見えました。

 私は、うれしくなって中村さんに駆け寄り、彼の隣りに座りました。

「大丈夫だったんですか、中村さん? 心配してましたよぉ」

 中村さんの笑顔を期待して彼に目を向けました。

 中村さんは泣いていました。とても悔しそうに…… いつも笑顔だった中村さんのそんな表情を見るのは初めてでした。

 私は、中村さんの肩に手をかけて、どうしたのかと問いかけました。

 中村さんは、重い口を開くように、ポツリポツリと話し始めました。

「本の…… 本の次のページがね…… 次のページが開けないんだ……」

 そして彼は段々、陽が沈む時の黄金色の空のように、薄くなり消えてしまいました。彼の肩に置いた手が下に落ちます。そして私は悟りました。

 中村さんは亡くなったんだ……

 その日から公園の前を通る度に、泣いている中村さんを見かけました。でも中村さんにどう声をかけて良いか分からない私は、彼に近づけませんでした。とても悲しかったけど、私には何も出来ないと……

 そんなある日、店の棚を掃除している時にドストエフスキーの「罪と罰」を見つけました。そしてある事を思いつきました。中村さんに何か出来る事があるのではないか? 私が店をやる目的を、気付かせてくれた中村さんへの恩返しを…… そう…… うん…… 出来る事がある。

 私は、その日、店を閉める前に「罪と罰」を店から持ち出しました。

 そして私は急ぎました。中村さんは今日も暗くなりかけている晩秋の公園のベンチにいました。

 街灯が彼を照らしだしていました。

 私は勇気を持って中村さんに歩み寄って隣に座りました。

「中村さん。代わりに私が読みますね。どこまで読みました?」

 中村さんは私を驚いたように見て、やがて見たかった笑顔を私に向けました。

「お嬢さん、暗い中で本を読むと目を悪くしますよ」

「大丈夫です。街灯もあるし。もっと暗くなったら懐中電灯持ってきます」

 それ以来、毎日私は彼の隣りで「罪と罰」を音読しました。

 あれから一年。本は別の物に変わりましたし、もう中村さんの姿はありません。中村さんは、段々と姿が薄れていき、数か月前、ありがとねと笑顔を残して消えていきました。

 でも私は今も続けています。公園の片隅のベンチで仕事帰りに毎日、彼の為に本を読んでいます。仕事も順調になり、儲けが出るようになって、祖父の時の常連さんも戻って来てくれています。

 人生はまるで本のようですね。1ページずつ時を紡いでいく。そして、それは確実にそのページに記されていく。それぞれにある物語。中村さんには中村さんが主人公の物語。その後半数ページには私と言う登場人物が描かれている。私の本には、中村さんが人生の転換期を与えてくれる登場人物として。私の本が書き終わった時には、誰かが私に気づいて覚えていてくれるでしょう。そして、私がこの世を去っても、その方の本の中で私は生き続けるのです。私の本の中で中村さんが生き続けているように……

 私は、今日も本を読みます。

 中村さんもきっと聞いていてくれますよね。きっと……

 私は、本を読む人です。


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