ウィンドシア(かなりグロなので閲覧注意)
それに出会ったのは、もうすぐ広島空港に着陸しようかという時だった。
広島空港は、中国山地の中にあり、山を削り出してその頂上に作られた特殊性のある空港だ。当然、天候に左右されやすく風の変化も多く、離着陸には、かなりの難易度が要求される。
その時も近辺でダウンバーストが発生し、コックピット内にウィンドシア警報が鳴り響いた。
ウインドシアというのは、急激な下降気流であるダウンバーストが発生する際に良く起こる風向きがいきなり変わる現象で、強風である場合が多い。もちろん離着陸時に巻き込まれると墜落の可能性が高まる。
機長は私に機の速度を上げて上昇するように指示してきた。ウィンドシアをやり過ごすには、速度を極限まで落として、あえて風に逆らわずに滑空する方法と着陸を一度断念して、速度を上げて積乱雲の上空に出るという方法があるが、機長は慎重な人であった為、ここは上空でやり過ごす事を選択して指示してきた。頼りがいのある熟練した機長だったので、私の彼への信頼は絶大であり、当然その時も指示通りにパワーを上げて、客室に影響が出ない程度に機首を上げて上昇した。
広島空港にタッチダウンすべきかどうかは風次第となった。乱気流が収まらない状態であれば機長は近隣の岩国空港への着陸を選んだだろう。実際、彼は岩国を選んだ。
積乱雲を下に見ながら広島空港の上空を旋回していた時、雲の上に何かがいるのが見えた。いや何かというより誰かがと言った方が良いかもしれない。
「機長、あれは何ですかね?」
機長は、私の指さす方向を見た。そしてインカムのマイク部分を掌で覆って、私に言った。
「まずいな。風鬼だ」
風鬼。私がそれを見たのは初めてだったが、パイロットの中で色々囁かれる伝説があり、私も話だけは知っていた。それは、風を操る未確認の何かだった。人の形をしているが、黒くぼやけていて、それが何かは分からない。それは、風を操っていると噂されている。それに出会うとウィンドシアやダウンバーストが原因の墜落事故が起こると言われている。
機長は、インカムのマイクから手を離して、広島空港の管制に岩国空港に向かう旨を告げた。
機長は、再びマイクを握り私に言った。
「あれは、狙った獲物を追うと言われている。この機が狙われたとすれば、この機に乗っている誰かが餌食になる可能性があるらしい。お前も気を付けろよ」と……
それから数年、私は結婚して一人娘も小学生になった。夏休みを兼ねて家族と共にキャンプに行く事になった。妻は独身の頃からキャンプが趣味で、それまでも家族で休みが合えば、良くキャンプに行っていた。
私の運転する車が山道に入った。
後の席で、妻と娘が楽しげに話している声を聞くだけで、私は、幸せな気分になっていた。娘は、よほどキャンプが楽しみだったのか、いつも以上にはしゃいでいて、後ろから時折、私の口に食べてとチョコボールを入れてきた。甘いものは苦手だったが、娘のそれは心に染み渡る旨さだった。
車内に流れる娘の大好きなアニメの歌。
そんな時だった。急激な横風を受けて、私は運転を誤り、車は道を外れて林の中に突っ込んでしまった。
私はとっさに思った。ウインドシア……
車は、木にぶつかって止まったが、私の中にウインドシア警報が鳴り響いていた。暗い影が私の心を刺す。
家族は無事だった。結構な速度で道を逸れたとは言え、全員が無傷だったのは運が良かったのかもしれない。しかし、そこから悲劇が始まった。
車を降りた私と妻と娘は、車を見ながらどうするかと迷っていた。呑気な妻は「いざとなったら、ここにテント張ってキャンプしましょうよ」などと言っていた。
私はそんな事を言う妻を呆れて見た。その時、再び強い風が吹いて来て、風に飛ばされた小石が妻の顔面を粉砕して後頭部から抜けて行った。
妻は顔や頭から血を吹き出し、小刻みに震えながら膝から崩れ落ちた。それを見た娘の叫びが聞こえた。未だにその叫び声は、私の耳の中で響き続けている。
私は、咄嗟に娘を抱きかかえてしゃがんだ。あの時の風鬼が私を追ってきたと思った。
娘の叫び声が止まる。
私は娘を見た。
娘は白目になり、口から白い泡を吹いていた。このままではいけない。病院にいかないとと思い、ポケットの中をまさぐってスマフォを取り出した。
その時、再び強い風が吹いた。
私は、娘を強く抱きかかえた。風が収まったと同時に娘を見た。娘の口から流れ出る白い泡が、真っ赤な血に変わっていた。風で飛んできた枝が娘の側頭部から突き刺さり、反対側から先端が飛び出していた。私は半狂乱になり、娘の頭に刺さった枝を抜き取った。そこから脳の一部が流れ出ていたので、私は我を忘れて脳を娘の頭の中に必死で戻そうと、やっきになってそれを押し込んでいた。なのに娘の血も脳もどんどん手の中に溢れてくる。溢れてくる。溢れてくる。
娘は痙攣していたが、やがて動きを止めた。
私は、娘の血と脳漿にまみれた両手を突き上げて、天を仰いで泣き叫んだ。
「何で家族なんだ! 何で私じゃない! お前が狙っていたのは私だろう!」
どこからか男とも女とも分からない笑い声が聞こえてきた。そして天を仰いだ私の視線に奴が現れた。人型をした黒い靄……
奴は私を指さすと、さらに高笑いをしながら消えていった。
私は、北海道に来ていた。
あれから二十年以上が経っていた。
目の前のラベンダー畑には、穏やかな風が流れて、紫色の花々を揺らしていた。
私は、あの後、仕事をやめて奴の事を調べて回った。
全財産を叩いて奴の情報や倒し方を追いかけた。
目の前の観光客が連れている女の子を見た。娘が逝った歳位の子だった。口の中にあのチョコボールの味が広がるような気がした。娘も生きていれば、今頃成人して結婚していたかもしれない。私も孫を抱いていたかもしれない。奴はそれらを全部奪って行った。私にはもう復讐心しかなかった。
私にじっと見られていたのに気が付いたのか、その観光客の家族は怪訝な視線を私に向けて、娘の手を引いて行ってしまった。無理もない。あの事件以来、私は変わった。すぐに退社した後は、酒を浴び着る物にも無頓着になり、髪も切らず髭も剃らず風呂にさえ入らず、奴の事に没頭し続けた。深い皺のお蔭でかなりの老人に見えるだろう。おかげでボロを纏った今ここにいる私は、まるで世捨て人だった。パイロット時代の綺麗な姿など誰も今の私からは想像もつかないだろう。
あの事件こそ、私の人生におけるウィンドシア。強い風で墜落してしまったのは、私の人生……
私は、ただ待った。その機会はもうすぐ来る。そよ風が私の髪や髭やボロの裾を揺らす。
陽が暮れてきて観光客もいなくなった。復讐の時だ。奴は必ずここに来る事は分かっていた。教えてくれた者がいるのだ。
私は、その者と契約をした。目には目を…… 風には風を……
一陣の風が吹いて来た。奴だ。私には分かった。
高い笑い声が聞こえてきた。そして私の目の前にあの黒い靄が現れ、人の形に変わっていった。そして満足そうな笑みを浮かべて私を見て言った。
「やっと最期の時が来たな。今度はお前を……」
私の頭の中に響いた奴の言葉が途中で止まった。奴が私の背後にいる者を見ている事が分かった。そして奴がたじろいだのを感じ取った。
そう、どんな風の魔物であろうと、私が契約した者には勝てない。それは、風の魔物の王だからだ。
これが終われば、私の魂は契約者に喰われる事になっている。それで本望だ。走馬灯のように、妻や娘と過ごした日々が脳裏をかすめていく。
私は、ニヤリと笑い、あの時、車の中で流れていた娘の好きなアニメの曲を口ずさんだ。明るいその曲と同じように、とてもいい気分だった。そして私の背後の者がゆっくりと、ゆっくりと、その4枚の羽根を広げるのが分かった。
風鬼。私はお前と共に地獄へ行く。さぁ、今宵で最後の宴の開始だ。思う存分楽しもうじゃないか。
私は、振り返るとパズズに頷いた。