アズールホリック
うだるような暑さの中、僕は人ごみを歩いていた。
サンダルだと、小石が入って面倒だと思い、スニーカーを履いてきたが、蒸れて気持ち悪い。
様々な屋台からは色んな匂いが漂ってくる。
ソースの香ばしい香り、果物の甘い匂い。
食欲をそそるはずのそれらは今の僕に、効果はない。
「こんな田舎のどこに人がいたっていうんだよ」
僕は喉の渇きをさっき買ったラムネで潤していく。
氷水で冷やされていたはずのそれは、すでにぬるくなり始めていた。
浴衣や甚平を着たカップルの波に身を任せ、僕は屋台通りを当てもなくさまよう。
「およ、そこにいるのは航君じゃないか。蒼ちゃんは一緒じゃないのかい?」
振り返ると、りんご飴片手に、甚平に身を纏った高校三年生がいた。
「空乃先輩。こんなところで遊んでいていいんですか?」
僕の知る人物の中で、最も空気の読まない人に会ってしまった。
いや、空気を読もうとしないと言ったほうが正しいかもしれない。
「スポーツ推薦で内定をもらっているとはいえ、遊んでいる暇はないのでは?」
部室に飾られている賞状やトロフィーは、ほとんどが彼女の功績を称えるものだ。
「航君はストイックだねぇ。朝から夏期講習で猛勉強してたんだから、息抜きくらいさせてよ。あたし的には息継ぎって言ったほうが正しいかもねぇ」
「全然上手くないですよ」
先輩のほうがストイックですよ。という言葉は僕の心にとどめておく。
明日は一レーン、先輩のために開けておくよう、顧問から言われていた。
自分に厳しく、他人に甘い。
それが、羽衣空乃という人物だ。
「空乃先輩は甚平派なんですね」
浴衣の女性が多い中、先輩のその姿は目立っていた。
しかし、落ち着いた藍色の甚平はショートカットの先輩によく似合っていた。
「浴衣は動きにくいからねぇ。それに着付けがめんどい」
実に先輩らしい理由である。
「高校生活最後の夏。楽しまないとねぇ。あ、お腹すいてない? 先輩がおごってあげるよ」
「お気持ちだけいただいておきます」
「うははっ、謙虚だねぇ。あたしだったら、射的屋のゲーム機とかねだってるよ」
「絶対取れないやつじゃないですか」
りんご飴をくるくる回しながら、先輩は笑う。
屋台を見回しながら、下駄を鳴らして歩く先輩は本当に楽しそうだ。
先輩は焼きそばの屋台に目をつけ、焼きそばを二つ買った。
「先輩、二つも食べるんですか?」
「一つは航君の分だよ」
その言葉を聞いて、僕が財布を開くと、先輩はそれを制止した。
「いいよ、たまには先輩にかっこつけさせてよ。もうバイトしてないから、これくらいしか奢れないけど。それに、祭りに来て、焼きそば食べない人なんていないでしょ」
「はぁ、ありがとうございます」
さすがに、偏見だと思う。
「ほら、サイフしまって。スられちゃうよ」
「そうですね」
半開きの財布を閉めるとき、もう使う予定のなくなったゴム製品が目についた。
僕はそれを見なかったことにして、財布をポシェットにしまった。
「いやぁ、にぎやかでいいねぇ。人がゴミのようだ!」
「いきなり情緒不安定ですね。天空に城でも建てるおつもりですか。空乃大佐」
「うははっ、言ってみたかっただけ。もう満足したよ」
もっと、いいセリフいっぱいあったでしょうよ、あの映画。
焼きそばを買った先輩は上機嫌で、スキップしそうなほど軽やかな足どりで歩く。
下駄でよくあんなにスムーズに歩けるものだ。
なによりビニール袋がかなり揺れているので、中身が心配である。
「この辺でいいか」
屋台が少なくなってきたところで、先輩は河川敷の芝生に向かって進路を変えた。
「え、何がですか?」
「花火大会なんだから、花火見に来たんじゃない。人もまばらになってきたしこの辺で見ようよ」
いつの間にか僕は、空乃先輩と一緒に花火を見ることになっていた。
僕と先輩は二人用の小さめなレジャーシートに座って花火を見ていた。
最初、先輩が直に芝生に座ろうとしたが、僕が用意していたレジャーシートを慌てて敷いたのだ。
花火は左に寄った焼きそばを僕たちが食べ終わって、すぐに始まった。
開始の合図とばかりに、大きく鮮やかな花火が打ちあがったとき、
「目がぁ!目がぁぁ!」
僕は目を押さえて叫んだ。
「え、航君、いきなりどうしたの、大丈夫?」
「そりゃ、ないですよ。空乃先輩……」
割と、捨て身のギャグだった。
「あたし、あのシーン見ると、いつも思うんだよね。いや、あんたサングラスつけてるじゃねーか! って」
「たぶん、それは言っちゃダメなやつです」
そんな他愛のない掛け合いをしている間にも、色も形も様々な花火が上がっていた。
しばし、僕たちは花火観賞を楽しんだ。
花火を見ている先輩は楽しそうに笑いながら、僕に話題をコロコロと変えながらまくしたてる。
「もしかして、慰めようとしてくれてます?」
花火も終盤に差し掛かってきたところで、僕はぽつりとつぶやいた。
音に紛れて聞こえていないならば、それでもよかった。
先輩はキョトンとした顔をした後、また大笑いした。
しっかりと、僕の言葉は届いていたらしい。
「なんであたしが航君の失恋の傷を癒さなきゃいけないんだよ。ヤだよ、めんどくさい」
「そこは嘘でもいいので、そうって言ってほしかったですね」
やっぱり、失恋はばれているのか。
先輩の洞察力には侮れないものがある。
「色恋沙汰はあたしには縁のない話だからねぇ。航君に会う前にも、後輩がイチャイチャしてるのをほほえましく見てきたところだよ」
いや、空乃先輩はモテる。しかし、容姿端麗でスポーツ万能の彼女にアタックしようなんてバカな奴がいないだけだ。
「まぁ、花火大会なんてカップルで来るイベントですからね」
「荒みすぎでしょ。後輩ちゃんたち、今日が初デートだったらしくて、初々しかったよ」
先輩のにやけ顔を横目に、僕はすっかりぬるくなったラムネを飲みほした。
「嫌な予感がしますが、聞いてほしそうなので聞きます。空乃先輩は誰に会ったんですか?」
「バスケ部の新しい部長の、えーと」
「藤橋ですか?」
クラスメイトだ。この間、部活のために学校に行ったとき、偶然会って、新部長同士頑張ろうと話した。
「そう、藤橋君だ。蒼ちゃんと藤橋君が腕組んで歩いてたから、思わず話しかけちゃった。ヒューヒューって」
「そこまで知ってて、よく『およ、そこにいるのは航君じゃないか。蒼ちゃんと一緒じゃないのかい?』とか言えましたね⁉」
洞察力でも何でもなかった。
「数日前にでもフラれたんだろう? まさか、航君も一人でも見に来るほど、花火が好きだとは知らなかったよ」
先輩は打ちあがる花火を見ながら、話す。
「女の心と秋の空は変わりやすいっていうもんねぇ。もう夏も終わりが近いし仕方ないことだよ。そのうち、またいい人が見つかるよ」
パッと花が開く。そして、すぐに次の花が空に咲く。
「今日ですよ」
「へ?」
ベタな慰めを口にしていた先輩が素っ頓狂な声をあげた。
「待ち合わせ場所で待ってたら、彼女から、『ほかに好きな人ができました』『別れましょう』ってスマホでメッセージがきました」
「あー、それは……」
先輩は苦笑いしながら、納得したように声を上げる。
さすがに気まずいのか、りんご飴を舐めている。
トークは彼女のそのメッセージで止まっている。そして、僕の既読無視は特に咎められることもなかった。
彼女にとって、僕は俗にいうストックだったのだろう。本命と結ばれたから、捨てられた。
それだけのことである。
「半年前にコクられて付き合ったんですけど、こうも一方的にフラれると、なんか、不思議な感じですね」
空の瓶のビー玉をじっと見つめる。
僕の話を先輩は黙って聞いている。
「悲しいとも、悔しいとも違う。なんていうんですかね。この感情」
「航君の心なんて知らないよ。エスパーじゃないんだから」
「ですね」
僕たちの会話はそこで途切れた。
聞こえるのは、人々の歓声と花火の炸裂音。
先輩は空を見上げながら、一向に減る気配のないりんご飴を舐めている。
どうして大きいほうを買ったのだろうか。
何となく、ラムネに口をつける。
空のラムネ瓶はビー玉がカラカラと音をたてるだけで、僕を潤してくれることはなかった。
瓶の中で、虹色に輝くビー玉がひどく寂しく思える。
さかさまにしてもビー玉が落ちてくることはなく、水滴が一滴垂れただけだった。
「ほしいの? ビー玉」
「いや別に……。これ取れないタイプの瓶みたいですし」
試しに飲み口をひねってみるが、びくともしない。
ラムネ瓶のビー玉は基本的に取ることができない。ペットボトルのフタのように飲み口が開くものもあるが、この瓶はそうではなかった。
「貸して」
先輩はラムネ瓶をビニール袋に入れて、縁石に叩きつけた。
「えっ」
ガチャンと音をたてて、瓶が割れた。
「はい、とれたよ」
先輩はビニール袋からビー玉を取りだし、僕に渡した。
「あ、ありがとうございます」
ビー玉のために瓶を割るなんて……。
受け取ったビー玉は花火の光を反射してキラキラと輝く。
「ほしいものなんて、案外簡単に手に入るものなんだよ。でも、みんな勝手にあれこれ理由をつけてやめちゃうの。他にもっといいものがあるかもーとか、自分には不釣り合いだーとか言ってさ」
先輩はりんご飴をくるくると回している。
「……どうして」
そんなこと言うんですか。そんなこと分かるんですか。
二つの意味のこもった言葉だった。
「自信がないんだよ。それらに本当に価値があるかどうか。手にしてみると案外、つまらなかったりするからさ」
先輩は僕の『どうして』に対して、そんな返事をする。
花火の音が消え、終了のアナウンスが流れる。
周りの人々が名残惜しそうに帰り支度をするなか、僕たちは座ったまま話し続ける。
「それを手に入れて、どう思った?」
先輩はビー玉を指さした。
「きれいだなって。あと、取り方雑だなって思いました」
「それなら、よかった」
先輩は微笑んだ。いったい何がよかったというのだろうか。
「ねぇ、ビー玉の名前の由来って知ってる?」
突然、そんなことを先輩は聞いてきた。
「えーと、確かビードロ玉が語源なんでしたっけ」
僕はうろ覚えの知識で答える。
「へぇ、そうなんだ。私が知ってるのと違う。えーきゅう、びーきゅうなんだって」
「どういうことですか?」
永久?
「ラムネに使われてるのはビー玉じゃなくて、エー玉なんだって。ビー玉よりもきれいな球体で気泡もないの。歪みがあると、そこから炭酸が抜けちゃうかもしれないからねぇ」
なるほど。A玉とB玉、A級品とB級品ってことか。
「だから、ラムネに入ってるのは選ばれしビー玉なの。つまり、価値のあるビー玉ってこと」
かもしれない。と、最後に先輩は付け加えた。
僕はビー玉、もといエー玉を見つめてみる。
違いはあまり分からなかった。ビー玉はビー玉だ。
「帰ろっか」
先輩はそう言って、立ち上がる。もう周りに人はほとんど残っていない。
「そうですね。家まで送りますよ」
僕はビー玉をポケットにつっこみ、レジャーシートを片付ける。
「いいよ。すぐそこだし」
「夏祭り当日にフラれた男の情けないかっこつけだと思ってノってください」
そう言うと、先輩はいつものように口を開けて笑った。
「そういうことなら、お願いしようかな」
そうして、僕たちは帰路につく。
先輩は途中のごみ箱にビニール袋をつっこんだ。
分別も何もないごみ箱だった。
コロンカランと先輩の下駄が鳴る。
「あげるよ」
先輩は僕にりんご飴を差しだしてきた。
「いや、いりませんよ」
「送ってくれたお礼」
そう言って強引に僕にりんご飴を握らせた。
「ありがとうございます」
僕はまだりんごまで到達しそうにないりんご飴をひと舐めした。
甘い。りんご飴の飴ってりんごの味しないのか。
「航君って、人の食べかけとか、気にしないんだねぇ」
「別に気になりません。間接キスにドギマギとか、僕に期待しないでください」
僕は平然とりんご飴を舐めながら言う。これ、ただのべっこう飴じゃないか。
「それもそうか。実を言うと飽きちゃっただけなんだけよねぇ。りんご飴」
「小さいほうにすれば、よかったのでは」
「大きいほうがおいしそうだったから」
そんなにおいしいものでもないな、と思いながら、僕はりんご飴を舐める。
「小さい頃は毎年来てたんだよ、このお祭り。いつの間にか行かなくなっちゃったけどさ」
先輩は過去をかみしめるように話す。
「いつもりんご飴をお父さんに買ってもらってたの。しかも、大きいほう。食べきれないでしょって言われても、ワガママ言って買ってもらって、結局食べきれなくてお父さんが食べてた」
返す言葉が見つからず、僕はりんご飴を舐め続ける。
「りんご飴が宝石みたいに見えたんだよねぇ。でも、食べきれないの」
先輩はへらっと笑った。
「久しぶりにりんご飴見て、やっぱりきれいだなって思ってさ。大きくなったし、食べきれると思ったんだけどなぁ」
僕には今、自分の手に握られたこれが宝石には見えなかった。そういえば昔、指輪みたいな飴があったな。リングにダイヤモンド型の飴がついてるやつ。
「ついた。ここがあたしの家」
初めて見る先輩の家は豪邸でもボロ屋敷なんかでもなくて、ごく普通の家だった。
「今日はありがとうございました。焼きそばとりんご飴、ごちそうさまです」
「あたしも今日は楽しかったよ」
「では、おやすみなさい、空乃先輩」
「待って」
僕は頭を下げて帰ろうとすると、呼び止められた。
「来年も夏祭り一緒に行こうよ」
「え、でも先輩、来年から東京で一人暮らしするんじゃ……」
「あたしだって、夏に帰省くらいするよ」
先輩は口をとがらせる。
先輩、その言葉、意味分かってて言ってるんですか。
僕は少しだけ、間を開けて答えた。
「そのとき、まだお互いに独り身だったら行きましょうか」
「あれ、もしかして、あたし、一年間独り身宣言しながら、航君にも彼女できないよって言ってる感じになってた?」
「ええ、なってました」
少しの静寂の後、笑い声が響く。
「ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだよ」
「分かってますよ。さぁ、明日もお互い早いですから、そろそろ本当に帰りますね」
別に今日が先輩に会える最後の日ってわけでもない。夏休み中だって、プールで顔を合わせるし、二学期が始まってからも、会う機会はいくらでもあるだろう。
「では、空乃先輩。また来年」
「うん、また来年。航君」
そう答えた先輩の笑顔はいつものような口を開けた豪快な笑いではなかった。
「空乃先輩、あんな顔できたんだ」
先輩が玄関のドアを閉じた後、僕はぽつりとつぶやいた。
僕は自分の家に向かって足を進める。
舐めるのが面倒になったりんご飴を力任せにかじりながら、ポケットからビー玉を取り出す。
街灯に照らされた水色のビー玉は、何だか色褪せているように感じた。
僕はビー玉をポケットにしまいこんだ。