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月を見上げて

作者: 来生ナオ

 仕事帰りに公園のベンチで一休みするのが僕の日課だ。寒い冬でもその習慣がなくなることはない。公園といっても運動場の半分くらいの大きさの池とその池の淵に沿うように数脚のベンチがあるだけである。朝方には池をぐるりと回るように犬の散歩やジョギングをしている人を見かけることもあるがこの時間にもなると静かなものだ。今日も公園のベンチに座って池か空か、もしくは夜闇でも眺めようと思い向かうと、先客がいた。長い髪を1つにくくった女性がベンチに座っている。この時間、ましてや寒い冬の時期に人がいるなんて珍しい。なんとなく定位置というものがあるため、他のベンチに座るのも気が進まない。珍しさも相まって声をかけてみることにした。


「となりいいですか?」


 街灯からも距離があるため夜闇に隠れて姿はよく見えない。彼女はこちらに視線も向けないまま「どうぞ」とだけ答えた。なんとなく遠慮してベンチの端に座る。ただ池を眺めるだけの静かな時が流れた。彼女はこんな時間にこんな場所で何をしているのだろうか。時たま寒そうに身じろぎをするがベンチを立つ様子はない。誰か人でも待っているのか、はたまた一人になれる場所でも探していたのか。だとしたら邪魔をしてしまったかもしれない。そんなことを考えていると、ふと彼女が立ち去る気配がした。我に返って携帯の時刻表示を見るとあれから10分ほど経っていたらしいことがわかった。


 翌日。いつもの通り公園に向かうとベンチに昨日と同じ後ろ姿が見えた。仕事疲れで沈み気味だった気分が少しだけ浮上する。


「となりいいですか?」


 近づいて尋ねる。


「どうぞ」


 やはりこちらには顔を向けないまま彼女は答えた。昨日の様子からして人を待っているわけではないらしい。僕が来てから10分間も寒空の下ここにとどまり続けていたことを考えると1人になりたかったというわけでもないのだろうか。であれば僕と同じように仕事帰りの一休みといったところか。僕が言うのもなんだがもっと暖かいカフェにでも入ればいいのに。そんなことを考えながらぼんやりと池を眺めていると、今日もまた10分ほど経ったところで彼女は立ち去っていった。

 それから、翌日も、そのまた翌日も彼女は僕よりも早くこのベンチに座っていて、やはり10分ほど池を眺めてから立ち去っていくのだった。あの日から1人で池を眺めるだけだった時間が2人で池を眺める時間に変わった。僕はいつからか「となりいいですか?」と尋ねなくなったけれど、彼女がそれを気にした様子はなかった。沈黙が心地いいとはこういうことを言うのだろうか。この時間が前よりも少し楽しみになっている自分がいて、最初はベンチの端と端だった僕たちの座る位置は日を追うごとに少しずつ中央に近づいているのだった。


 そんな日々が続いてどれだけ経っただろうか。僕たちの間の距離は人1人分ほどにまで縮まっていた。その日はこうして2人で池を眺めるようになってから初めての満月で、雲一つない夜空に僕の心は少しだけ浮ついていたのだろう。これまで一言の会話もなかったけれど、この美しさをなんとなく共有したいなと思った僕は気づけば口を開いていた。


「月がきれいですね」


 言ってからしまったと思った。この言葉選びでは別の意味で受け取られかねない。なんと弁解したものかと焦っていると彼女が答えた。


「星も、きれいですね」


 意味を知らなかったのだろうか。それともそういう意味で受け取らなかったのか。その言葉に特に動揺は見られなかった。なんと言おうかと迷っているうちに返答のタイミングを逃した僕はその沈黙に甘えることにする。いつもの時間に彼女は立ち去っていった。


 翌日から仕事が忙しくなった僕はいつもの時間に公園に行くことができなくなった。いつもより15分ほど遅れて公園に着くと彼女は既に立ち去った後で、仕方ないので1人で池を眺める。元に戻っただけなのに、1人で眺める池はいつもより少し味気なく感じた。

 日が長くなり、公園に着く時間が夕暮れ時になったころ仕事がひと段落した。彼女はもういないだろうか、そう思いながら遅れることなく公園に行くと、果たして彼女はいた。おかしな言葉を口走ったきりだったからもういないかもしれないと思っていた。僕が来る日を待っていてくれたのだろうか、なんて自惚れたことを考える。ベンチに座ろうと歩いているところで、ふと今なら彼女の姿が見えることに気づいた。座りながらさりげなく彼女の姿を盗み見る。傾きかけの日に照らされた彼女の顔はよく見えなかった。オフィスカジュアルといった服装。ベージュの鞄。そして、左手の薬指に光る指輪。なんだ、既婚者だったのか。月がきれいだからといってなんということもなかったのだ。少しばかりの寂しさと、それ以上の安堵感を覚えて知らず口元がほころぶ。池は夕日を反射してキラキラと輝いていた。

 

 その翌日から彼女は公園に来なくなった。仕事が忙しくなったのか、はたまた他に理由があるのか。それはわからなかったが、特に寂しさは感じなかった。冬も終わり、少しずつ気温も上がってきているからかもしれない。日の高さに時の流れを感じながら僕は今日も公園で池を眺める。20分後にやってくる愛する妻を待ちながら。

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