えわんげりうむ09:いつかかえるこころ
「これで12冊のころんしりいずが揃った」
伏美は自室の机の上に積まれた黒い本を見て言った。
「あと1冊ですね……」
斉木が答える。
「残るはドイツのみそぐばぐねす家……普通郵便で送ったから少し遅れるってさ」
「何でこんな大事な物を普通郵便で……あと1週間ですよ? 間に合うんですかね……」
「まあ、大丈夫じゃないかな」
今日は十二月二十四日。今年もあと一週間で終わってしまう。
そして、それと共にこの世界も終わりを迎える。
「こんにちはー!」
はなが子供達を引き連れて伏美邸を訪ねてきた。
「やあ、早かったねみんな」
「だって先生怠け者だから早目に来ないと夕方までに準備終わらないじゃない」
「……まったくその通りで。さすがマザーはな」
「えっへん! ところでいぶちゃんは?」
「ああ、いぶ? いぶならあそこ」
伏美はこたつを指差す。
「……あら」
いぶはくろを枕にしてすーすーと寝息を立てていた。
「……ごにょごにょ……」
「? 何か寝言呟いてる」
「……ふ、伏美さん……うう……伏美さんが来る……う、うぐおおおおおぐがががぎぎぎいやあああ……」
「ふふ、僕が夢に出てきて喜んでるよ」
(いや明らかに嫌がってんだろ)
「……凄い寝汗」
「ニャッス……」
「くろがべたべたして気持ち悪そうに目を見開いてる」
「寝汗……? ちょっと待って、それを採取して梅干し漬けたらいぶ味の梅干しが出来るんじゃないかな」
「梅干しは梅干しですよ伏美」
「それじゃ先生ご飯買ってきて」
いぶはそのまま寝かせてはなはクリスマスパーティーの準備を始める事にした。伏美にお金を渡す。
「えーと、オードブルとかだっけ?」
「そう。みんなこの日のために1年頑張ってお金貯めたんだから、無駄遣いしないでね」
「はい……」
さすが神田のマザーである。
はな達を残して伏美は斉木と共に少し足を伸ばし銀座へと歩いた。少しいい店で少しでもいい物を買いたいからである。天気は快晴。空は青い。かつてこの街には、天の頂まで届くコンクリートの塊が無数に聳え立っていた。だが地が震えたあの日、それはガレキの雨を降らせて日常と共に脆く崩れていった。
しかし、それでも見捨てられた人々は精一杯の力で築き上げたのだ、楽園を。
「……この楽園ももうすぐ壊れちゃうね」
「未だに実感が湧きません」
「僕だってそうだよ」
「……この事はみんなには話さないんですか?」
「話した方がいいと思う?」
「……わかりません」
「……いぶにだけは伝えようと思ってるんだ」
「やはり想い人だからですか?」
「違げーし妻だし。嫁だし。伴侶だし」
「すまんすまん」
「イラつくわこいつ。全然反省が伝わってこないわ……彼女はアハアトゥの心を継承してるからね。かつてふたりで苦しみながら世界を始めていったんだ。だから彼女には終わりを知る権利がある。いや、義務かもしれない」
ふたりが買い物を一通り済ませたちょうどその時、伏美の携帯が着信を告げる。相手は自宅の固定電話だ。
「もしもしいぶ? 僕の声が聞きたくなった?」
「先生こそ、私に会えなくて寂しかった?」
「何だはなか」
「むきーっ! この違いよ! 先生! 大変よ……!」
彼は彼女の声の調子が重くなるのがわかった。
「……どうした?」
「いぶちゃんが……いぶちゃんがさらわれちゃったわ!」
「……何だって?」
「さらわれちゃったの!」
「腹が割れた? 確かに筋肉が凄いけど……」
「さらわれたっつってんだろ!」
「……ええっ!?」
伏美達は急いで神田へと戻った。自宅のドアを開けた途端、はなが彼に抱き付いてくる。
「先生! どうしようっ!」
彼女の目は潤んでいた。
「……落ち着いて。何があったかゆっくり話すんだ」
「……クリスマスパーティーの準備をしてたら、突然誰かが訪ねてきて……覆面を被った男の人だったの。そしたらそいつ勝手に中に入ってきて寝てたいぶちゃんを無理矢理担いで、『返して欲しかったらころんしりいずを持って来い』って……」
「……またブックハンターか? ずいぶんと荒いやり方だが」
「あいつ、先生を『神』って呼んでたわ……」
「……? 僕の正体を知っている……?」
「ねえ先生、ころんしりいずって何なの?」
「……年が明けたら教えてあげるよ」
「……うん、わかった」
「それで、場所は?」
「旧古書店街の近くの教会に来いって」
「教会か……斉木、君はここに残ってこの子達のそばにいるんだ。仲間が来るかもしれない」
「わかりました」
「先生! 死んじゃわないよね?」
「大丈夫。いぶは必ず僕が守る」
「先生も……!」
「戻って来るさ。ここは僕の楽園なんだ。帰る所はここしか無いよ」
支度をすると意を決して伏美はひとり教会へと向かった。
深く息をつき、彼は扉を開けた。中の様子を確認する。ステンドグラスから僅かに射し込む日の光の中、十字架の下に椅子に縛り付けられたいぶの姿があった。
「いぶ!」
「伏美さん!」
伏美は警戒しながら足を踏み入れる。その瞬間扉は勝手に閉まった。不気味な気配を感じる。いぶの後ろの影から覆面を被ったひとりの男が現れた。はなの話に出てきた人物だろう。
「伏美ひろとだ。いぶは返してもらう」
「おお……神!」
男は歓喜した様に叫んだ。
「約束通りころんしりいずを持ってきた」
伏美はリュックから一冊だけ黒い本を取り出して男に見せる。
「今僕の手元にある12冊全てだ」
「よろしい。ならこちらまで来て渡して頂きましょう」
「……渡したらいぶを返してくれるんだな」
「はい。約束します」
指示通り男の前まで行き、祭壇の上に一冊ずつころんしりいずを置いていく。
「……これで12冊全てだ」
「確認します」
男はぺらぺらところんしりいずを捲っていき、最後のページを調べ始めた。
「……!」
伏美は唾を飲み込む。
「……神……あなた、私を騙しましたね?」
男が銃弾を一発、いぶの太ももに撃ち込んだ。
「うっ!」
「! いぶっ!」
「これはあなたのせいですよ、神。あなたが小細工をしたせいで彼女は傷を負いました」
「! ……すまなかった……!」
観念した様に伏美は懐からSDカードケースを出す。
「これが本物のころんしりいずだ……!」
「……ふむ、確かに……」
男はカードを一枚摘まんで頷いた。
「確かに本物のころんしりいずです。よろしい。この娘を返します。ほどいてどうぞ」
「……」
「大丈夫です。約束は守ります。もうあなた達には何も危害を加えません」
彼の言葉を信じ伏美はいぶを縛るロープに手を付けた。その言葉通り男は何もしてこなかった。
「伏美さん……!」
「いぶ、大丈夫かい?」
ハンカチでいぶの銃創を塞ぐ。
「応急処置だ」
「ありがとうございます」
「……さて」
伏美は精神を集中し始めた。
「それじゃあ、ころんしりいずを返してもらおうか」
いぶは伏美の顔を見た。視線ははっきりと定まっておらず虚ろな状態だった。その時突如男のそばの祭壇が宙に浮き、彼女達の頭上で何かにぶつかった。
「!」
「無駄です」
祭壇に当たったのは十字架だ。ふたつはそのままどちらも彼らの周りに落ちた。
「……!?」
「何が起こっているのかわからない様ですね」
「……っ!」
すかさず伏美はハンドガンを構え引き金を引いた。撃ち出された弾丸は男が手をかざすと彼に命中する前に急に失速し床に落ちた。
「……!?」
「これでわかりましたか? さっきのあなたが動かした祭壇も同じ様に私が十字架で防ぎました。あなたの攻撃は私には通用しません」
「どういう事だ……!」
「まあ、わざと撃たれて死んでもよかったのですがね。そうすればエデンへと行け、庭へと足を踏み込める」
「……お前、何者だ!」
「私の名は生川まさみ」
「生川……」
その名前に伏美は聞き覚えが無い。見た所彼よりは年下の様だが、素顔も隠されており全く誰だかわからない。
「……あ、もうひとつ名前があるんでした。こうして日本語を流暢に話していますが、実は私はドイツ人でして」
「……ドイツ……!?」
「ふぃでりお・みそぐばぐねす。それが本来の私の名前です」
「!! ……みそぐばぐねす……! お前は……!」
「そう。ころんしりいずを管理する十二使人のひとり、しゅばるつ・みそぐばぐねすの息子です」
なぜ伏美の手元にころんしりいずがある事、ころんしりいずの正体が紙の本ではなく電子書籍である事、そしてイデアやエデンの事を知っているのか、合点がいった。
「裏切ったのか……!」
「ええ、まあ、そういう事です。これでころんしりいずは全て揃いました」
生川はポケットからみそぐばぐねす家が管理するころんしりいずを見せた。
「これで私の願いが叶う」
「……どういう事ですか……? ころんしりいずって何なんですか……?」
いぶには訳がわからなかった。
「おやおや神、最愛の人にまだ何も話していなかったのですか?」
「……!」
「伏美さん?」
「……ならば私が教えて差し上げましょう。この世界は、あと1週間で壊れてしまうのです」
「……!? えっ……!?」
「正確には、もうひとつの世界が、ですが」
「もうひとつの世界……?」
「……この間遊びに行っただろう? 夢の中で……イデアだ」
伏美が補足した。生川は説明を続ける。
「イデアの全ては生命の樹という大樹によって支えられています。しかし、いくつもの心が生まれては消えていくのを繰り返す内に、樹はどんどん年老いていったのです。生命の樹が枯れればやがてイデアの心は全て消滅してしまう。心が消えれば実在も消える。つまりイデアの死=実在の死なのです。それが新年の始まりと共に訪れる。そこでころんしりいずが必要なのです」
「……いぶ、前に言ったよね? ころんしりいずはレシピ本だって……あの本は、創生の書なんだ。宇宙の作り方が記録されてる」
「……宇宙の……作り方……?」
「そうです。壊れるのならば、また作ればいい。それだけの事」
「生川……お前の願いというのは……」
「はい。ころんしりいずを使って宇宙を作り直す。つまり、神になる事です」
「やはり……! だけど十二使人の一族なら知っているはずだ。生命の樹が生えているエデンの園には神の心とアハアトゥの心を継承した者しか立ち入れない事を!」
「ええ、もちろん知っています」
「ならばお前には不可能な事ぐらい……!」
「心と言っても、あなたの場合は特殊だ。あだむの遺伝子に近い器を選別して心を継承している。そう、遺伝子だ」
生川は覆面を剥いだ。その素顔は伏美と瓜二つである。
「っ! なっ……! ……ど……どうなってるんだ……!」
「簡単な事ですよ。神と十二使人は年に一度会合を行う。あなたが幼い頃その際に私の父があなたの髪なり唾液なりを持ち帰り、そこから採取した遺伝子を使って私は母から産み出された」
「クローン……!?」
「みそぐばぐねす家は神に嫉妬していた……そして世界の終わりが近付いた今、父は息子の私に代々の野望を託した。ころんしりいずを手に入れ、みそぐばぐねす家が神に成り代わる野望を」
「だが! たとえお前が神になったってそれはもうお前ではない! 宇宙はまたゼロから作り直される! もしこの宇宙と似た物になったとしてもそれは決してお前ではない!」
「知っているさそんな事! 新しい心はもう私ではない……だがその時、その時やっと私は、ホンモノになれるんだ……! 私はお前のニセモノとして生まれてきた! お前の代わりになるために! お前の代わりになった時、私は初めてホンモノになれるんだ!」
伏美は言葉が出なかった。いぶも同じだった。静寂だけが流れていた。
「……これで心置き無く死ねる。そしてこの宇宙を終わらせて、私は新しい私になる」
生川はピストルを自分のこめかみに当てた。そして……。
乾いた銃声が響いた。
〈もしもし! 伏美様! 大丈夫ですか!?〉
「……ごめん、説明する時間が無い。とにかくころんしりいずを奪われた。僕はこれからすぐに後を追ってエデンの園へ向かわなければならない」
〈なっ……それでは……!〉
「うん。予定より少し早いけど再生の時間みたいだ」
〈……約束、守れませんでしたね〉
「怒る顔が見れないのが残念だ。斉木、僕達はいい友達だった」
〈は? あー、そう思ってるんならそれでいいや〉
伏美は舌打ちをして電話を切った。そして泣いた。
「それじゃあいぶ、さよならだ。もっとしっかりお別れしたかったけど、一刻を争うから」
「! 伏美さんっ!」
伏美が最後に見た物、それは、必死ないぶの表情……。
ああ、せめて最期は笑った顔が見たかったよ。
生川はエデンの園、生命の樹の前に立っていた。建物の中にいた三人の男は全て気絶させた。あとはこの樹の根本に十三冊のころんしりいずを捧げれば、宇宙の創生が始まる。
「ふふ、ふふふふ……!」
本の形をしたころんしりいずを全て置いた。これで、私は私になれる……!
生命の樹は揺れ始めた。そして、そして、生川の体は次第に消滅していく。
「何だっ!? 記述と違う! なぜ私が初めに消えるのだ!?」
「あっさり引っかかってくれて助かったよ」
伏美が現れる。
「神っ!? 何をした!?」
「真ん中の本を捲って見てみな」
「……こ、これはっ!?」
生川は驚愕した。ころんしりいずではない。いぶの写真集だ。
「騙したなっ!」
「お前にだけは言われたくないね。電子化しておいたんだよ。本物はこっち」
伏美は持っていた黒い本を見せる。
「お前は生命の樹に神を騙った偽者と判断され心を消される。神にはなれない」
「ぐっ……そんなっ……!」
「生川まさみ……願わくば次の宇宙では、君とは違った出会いをしたいよ」
「ぬっ……ぬおおおおっ!」
生川は消滅した。それと同時に生命の樹にただひとつ生っていた実が落下した。世界が大きく震え始める。
「伏美さんっ!」
「!? いぶ!?」
いぶが息を切らして駆け付ける。
「!? なぜ君が!? ……ああ、寝たのか」
「いえ、あの後伏美さんの銃で私も自殺しました」
「!? 何で!?」
「急いだ方がいいと思ったから……きちんとお別れを言いたくて。それから、お礼も」
「お礼……」
「神田での生活、短かったですけど楽しかったです。私を見付けてくれてありがとうございます」
「……それは、こちらこそ。ありがとう」
伏美は微笑んだ。
「なあ、いぶ……この庭だけは特殊なんだ。イデアが消滅しても、神の力でここだけは隔離出来る……僕と一緒に、この場所で永遠を過ごしてくれないかい?」
「……嫌です」
「……僕の事が嫌いかい?」
「いえ、好きです。でも、みんな好きなんです。斉木さんも、くろも、はなさんも、荒野君も、パパも、子供達も……私は、みんなが好きなんです」
「……君ならそう言うと思ったよ」
「私は、あの世界が好きなんです。不完全だけど、だからこそみんな、頑張ってるんです。私ももっと頑張りたい。みんなと一緒に、色んな事を……また、あの世界に生まれたいです。作ってくれますか?」
「……わからない。何せ初めてだからね。また神として生まれて、似た様な宇宙を作り出せるのかはわからない。そもそも一度この宇宙が壊れた後また神が生まれて宇宙を作り始めるのかもさっぱりだ」
「……」
「……いや、必ず作ってみせるよ」
いぶの寂しそうな表情を見て伏美は言葉を訂正した。
「……信じますよ?」
「ああ、約束する。今度こそ守るよ」
「私、伏美さんが私に抱いてる気持ちが、少しだけわかったかもしれません」
「え!? ほんと!?」
「だけどまだはっきりとはわからないから、次の宇宙でまた私を見付けてしっかり教えて下さい」
「……やれやれ、そうきたか。さて、では始めようか」
彼は溜め息をひとつつくと生命の樹の根元の中心に置かれていた本と持っていた本とを置き換えた。
「これでオーケーだ……いぶ」
「はい?」
「……最期は、君の膝の上で終わりたい」
「……はい」
彼女の膝を枕にし、伏美は静かに仰向けになる。
「僕が生まれたいと願った理由、今わかったよ。君に会うためだ。僕だけじゃない。みんなそうだ。この宇宙に生きる人々はみんな誰かに会うために生まれてくるんだ。約束しよう。僕は必ず、また君に会うために生まれてみせる」
「はい」
いぶはにこりと笑い、次第に消えていく伏美の姿を見守っていた。
そして、全てが真っ白になった。
また必ず、このこころに帰ってくる。
いぶ:2108 - The Break of the Heart 完