申の恩返し
ドンドンドン。
一匹の申が、山小屋の戸を叩きます。この申は、先日山で罠にかかり困っていた所を、この山小屋の主であるおじいさんに助けて貰ったのです。
ドンドンドン。
申の中でも律儀な方だったこの申は、おじいさんにお礼をしようと思いつき、こうして恩返しに来たのです。
ドンドンドン。
「おかしいっキー。この時間は家に居る筈なのにッキー」
何度叩いてもおじいさんが出て来ない為、申は思わず溜息をつきました。
ドンドンドン。
「おじいさんおじいさん! こないだ助けて貰った申だッキー。恩返しに来たッキー。開けて下さいッキー」
「はぁ? 恩返しだって?」
中から大きな声が聞こえたかと思うと、猛烈な勢いで戸が開きました。
家の中から現れたのは、白い羽を蓄えた、一羽の鶴でした。
「ええ! 鶴だッキー!」
「鶴だッキー、じゃないわよ! 小汚いエテ公が何しに来たのよ!」
「おいら、先日山で罠にかかってた所を、ここのおじいさんに助けて貰ったッキー。だから、恩返しに来たんだッキー」
「はっはーん、恩返しだなんてちゃんちゃらおかしいね! いいかいエテ公、恩返しって単語はね、代々私ら鶴の専売特許なんだよ!」
「そんな事無いッキー! 確かに鶴の恩返しは有名だけど、申の恩返しがあったっていいじゃないかッキー!」
「駄目駄目! そんな前例を作ったら、今度はやれ犬の恩返しだの、猪の恩返しだのって次から次へとやってくるじゃない。ここんちそんなに広く無いんだから、入る訳無いでしょ!」
「お前、なんか干支の動物に恨みでもあるのかッキー?」
「干支に恨みは無いけど、あのじいさん、いっつも山の中で色々助けてるからね。野犬や猪まで数に入れてらんないのよ。勿論、申もね」
「ところで、おじいさんはいないのかッキー?」
「ああ、じいさんは今、年を越す為の食糧を町に買いに行ってるよ」
「そうかッキー。じゃあ、折角だからこれを渡しておくッキー」
申は、自分が山で取った沢山の木の実や山菜を、鶴に渡しました。
「あんた、これ……」
「じゃあ、頼んだッキー」
申が帰ろうとした時、鶴が去りゆく背中に声を掛けました。
「待ちなよ! あんた、これを渡して、この冬を越せるのかい?」
「これからまた探すッキー、なんとかなると思うッキー」
「ったく、しょうが無いね。とりあえず、家の中に入りな。こんなもん預けられたって、私も困っちゃうからね」
囲炉裏の火が赤々と燃えていて、山小屋の中を煌々と照らしています。温かい部屋の中に招かれて、申はなんだか落ち着きませんでした。
「突っ立ってないで、そこに座んなよ」
鶴に促され、囲炉裏の傍に腰を下ろしました。
「あったかいッキー」
「あったかいッキーじゃないよ。あんた、その語尾のキーって直せないの?」
「無理ッキー。これはオイラが申である限り、ついてしまうんだッキー」
「へぇ、そういうもんかい。私ら鶴には、よく分かんないねぇ。人間に化けて現れるのに、語尾にツルーなんてつけてたら、一発で鶴ってばれちまうもんね」
「でも今、鶴は人間に化けてないッキー」
「ああ、私はここの家に来てもう三年になるからね。今更隠す必要も無いのさ」
「三年ッキー!」
「最初の年はね、正体がばれちまって逃げたもんだけど、一年経ってから、せめて反物だけでもおいてこうと思ったら、そこを見つかっちまってね。それ以来、一緒に過ごしてるよ。なんだかんだで、三年も経っちまったよ」
「まんま鶴の恩返しッキ」
「今もじいさんは私の羽の反物を売りに行ってるよ」
鶴は羽の先で挟んだ火箸を使い、器用に囲炉裏の火をつつきます。囲炉裏の上には鍋が吊ってあり、その中には、先程申が持ってきた山菜が、汁と共に煮込まれています。
「ねぇ申。あんたねぇ、恩返しもいいけどさ、この山菜とか集めるのに、大分無理したんじゃないのかい?」
鶴は、傷だらけになっている申の身体を見て、目を細めました。
「命を助けて貰ったんだから、それなりのお返しをしたかったのだッキー」
「馬鹿だねぇ。そんなんじゃ、折角じいさんに拾って貰った命が、いくつあっても足んないじゃないのさ」
「……キー」
「あんた、家族は?」
「おいらは、生まれてからずっと一匹だったッキー」
「へぇ~、一匹ぽっちでよく生きて来られたね。今は群れから逸れたとは言っても、昔は集団の中で生きてた私からしてみたら、あんたはすごいよ」
「別に何にもしてないッキー。生きる為に必死だっただけだッキー」
鍋が吹きこぼれないように、火の位置を上手く調整する鶴を見て、申は感心しました。
「鶴は火が怖くないのかッキ?」
「人間と一緒に住んでたらね、このくらい出来るようになるもんさ。じいさんも歳とって、大分ガタがきちまってるしね。まぁ、こんな事で、命を助けてもらった恩が返しきれるとも思えないんだけど」
その時、ガタガタと建てつけの悪い音を立てながら戸が開き、爺さんが帰ってきました。
「鶴や、ただいま」
「ああ、じいさんお帰り。あんたにお客さんが来てるよ」
おじいさんは三和土で足元の雪をほろいながら、申を見て目を細めました。
「おお、こないだの申か。無事だったんだね」
申がおじいさんの元へ駆け寄ります。
「おじいさん、この間は助かりましたッキー。今日は、恩返しに来ましたッキー」
「この申がね、山菜やら木の実やら一杯取って来てくれたから、今それを煮込んで鍋を作ってんのよ。寒いんだから、じいさんも早くこっちに来な」
申はおじいさんが笠や蓑を脱ぐのを手伝い、火の傍まで手を引きました。
「おお、こりゃ美味そうだ」
おじいさんが顔を綻ばせた事で、申もとても嬉しくなりました。
鶴が器用にお玉を使い、お椀に汁をよそいます。そしてそれは、申の元にも置かれました。
「おいらも貰っていいのかッキー?」
「申の分際で遠慮なんてしてんじゃないよ。熱いから、ゆっくり食べな。匙くらい使えるんだろ?」
申は手渡された匙を握りしめ、ゆっくりゆっくり、熱い鍋を啜りました。山の恵みが身体の中に沁み込み、申の顔はどんどん赤くなっていきます。
「ねぇじいさん。この申、恩返しだって言って、大分無茶して食い物集めたらしいんだよ。この冬だけでも、この申置いといてくれないかな?」
鶴の発言に、申はビックリです。恩返しは自分の専売特許だと言っていたのに……。
「ああ、勿論だとも。いつまでだっていてもいいよ」
「だってさ、エテ公。あんたが嫌だってんなら止めないけど、嫌じゃないんだったら、好きにしたらいいよ。今年は申年だし、なんかいい事あるかもしれないしね。それからじいさん……」
鶴は一度お椀と匙を置き、おじいさんに対して向き直りました。
「もう歳なんだから、山歩きも程々にしときなよ? 私もいるし、あんたは家でのんびりしてたらいいんだよ」
「ああ、心配かけるね鶴や。罠に掛った可哀想な動物を見たら、つい助けたくなっちまってな。膝も痛いし、来年からは少し、控えるとしよう」
「本当にもう……」
おじいさんに世話を焼く鶴は、なんだかとっても嬉しそうでした。
「おじいさん、おいらもおじいさんの為に頑張って恩返しするッキー。だから、よろしくお願いしますッキー」
申はそう言いながら、おじいさんに深々と頭を下げました。
「ところでじいさん、一つ聞きたいんだけど、他に山で、どのくらい動物を助けてるんだい?」
「いや、今年は罠自体少なくてな。もう一匹くらいだよ」
「もう一匹ね。そいつも恩返しに来たら、笑っちまうけどね」
その時です。突然の轟音と共に、入り口の戸がドカンと吹っ飛びました。申と鶴とおじいさんが慌てて見に行くと、そこには困った様子の猪がいました。
「あいや、困ったシシ。恩返しに来たのに、戸を叩く力加減を間違えたシシ」
その様子を見て鶴が言いました。
「あんたは三年早いだろ!」
鶴の言葉を聞き申は、自分が恩返しに来たのが今年で良かったと、心から思いましたとさ。