おおかみと 新しい朝
人生にはいくつかの節目というものがあるそうだ。
今日はその人生の節目の一つになろう日である。
「朝か……」
しんとした空気の中、俺は目を開ける。
まぶしい日差しが目に飛び込んでくる、雲一つない晴れ空だ。
今日から俺は高校生になるのだ。そう、今日から。
立ち上がって伸びをしつつ、時計に目をやる。どうやら今はだいたい6時のようだ。
窓の外から聞こえる鳥の囀りに耳を傾けつつ、壁の照明のスイッチに触れたと同時に、窓のほうからとんでもない大声が響き渡った。
「起きろー!」
声をしたほうを振り返ると、窓枠に一人の見慣れた女の子が腰かけていた。
「ん、なんだ起きてたんだ。珍しいじゃん」
すっと窓枠から床にするりと飛び降り、まるで足が床に吸い付くかのように、音もなく着地した。
彼女の名前は凛。初めて会ったのは街中のどこの通りだったか。
その時は軽く話をしただけだが、なんだか妙に好かれてしまい、いつの間にか俺を起こしに来るようになっていたのである。
やや青みがかった黒色の瞳につんとした鼻筋など、凛の顔立ちは少し大人びている。若干だが吊り上った目は性格の強さの表れだろう。
線は細いが体はしなやかで内に秘めたる力強さが感じられる。
だが肩でバッサリ切り、揃えてある髪は相変わらずボサボサで、ちょっと変わった銀色の髪もややくすんでいる。
そしてボサボサ頭のてっぺんには、ツンと2つの獣の耳が、腰からは冷ややかな銀色の毛におおわれた尻尾が生えている。
そう、彼女は人間ではなく、人に獣の特徴が発現した獣人と呼ばれる種族であり、狼人間らしい。
そんな狼、凛は早起きが得意だそうである。俺はどちらかというと得意ではないが、寝坊助呼ばわりは癪に障った。
「なんだとはなんだ。まるで俺が寝坊助みたいじゃないか。」
「え、違うの?あたしが来るときぜったい寝てるよ~?」
どうやらいつでも寝ている印象しかないらしい。
「絶対?そんなに俺は寝ているか?」
「うん。いつもいつも、涎を垂らして寝てるじゃない」
頭をかきながら凛は俺の隣に腰かけようとした。
尻尾が邪魔そうだったので、手を添えてやる。毛は少しごわごわしていて、若干湿っている。
「凛、いつもいつも来るのが早すぎるんだ。それに今日は入学式だ。
こんなに早い時間に起きなくたって、時間はたっぷりあるぞ。」
「まあそれはそうだけど、いつも通りの時間のほうがいいでしょ?」
「そのいつも通りだって早いと思ってるのだがな……」
「敬之の起きる時間は遅すぎだよ。あんな時間じゃ遅刻するよ?」
訳もなく早く起こしに来るより、尻尾の手入れをすればいいのにと思う。
「……ところでさ、入学式とやらはいつ始まるんだっけ?」
今日は凛も一緒に高校へ進学するのだ。
「そんなに心配しなくても、まだまだ時間はたっぷりあるよ。」
「いや、ただ聞いてみただけ。」
「ああそうかい。それより今は朝飯の時間だ。パンでも食べるか?」
「うん。ハムを多めにはさんでちょうだい。」
「レタスもちゃんと食えよ?」
といったやり取りの後、俺は朝食を取りに1階へと向かった。
#
「ふぅ。まったく、仕方がないんだから……」
と、独り言を呟く。そうは言いつつも、改めて考え直せば、確かに早すぎる時間だと思う。
でも、こうでもしなければあいつの寝坊癖は治らないだろう。
自分はちゃんと起きてるなんて言っているが、毎朝慌ただしくしていたのをわたしは知っている。
部屋の周りを見渡す。相変わらず地味なレイアウトである。
カレンダーはやはり殆ど真っ白だ。どうせこの春休み、家でゴロゴロしただけだったのだろう。
やっぱり無理にでも引っ張りだせばよかった。アットホーム系男子引っ張り出すのは難しいけどね。
「ホラ、持ってきたぞ。」
と言って敬之が戻ってきた。
青木敬之、それがこいつの名前である。
この寝坊助が中学生の時に、よく起こしに行ったものだが、別に幼馴染という訳ではない。
こいつは間抜けなことに、修学旅行で登った山で遭難したのである。
自分はその山で偶然出くわしただけなのだが、その時に借りが出来てしまったゆえに、今こうしてこいつに手を焼いてやってる訳だ。
わたしが家を借りて、こうして暮らせているのも、彼と彼のお父さんのおかげだし。
「……なんだ食べないのか?」
昔のことを思い出していて、ぼーっとしていたみたい。敬之がサンドイッチを持ってきてくれた。
ざっくり切られたレタスと、三枚のハムが無造作に挟まった分厚いそれは、やや無骨ながらも暖かさがあった。
そろそろ大人たちが仕事へ行く時間だ。だんだん通りが靴の音で賑やかになってゆくのを聴きながら、わたしはサンドウィッチを頬張った。
「そろそろ行こうか……」
敬之ぼそっとつぶやいた。
時計を見るとそろそろ家を出なきゃいけない時間みたい。
わたしは敬之の手を引いて、これからわたしたちを待つ、新しい高校という場所へと向かった。